外伝 第34話 休み時間
チャイムが鳴ると、教室の音が増えた。
机を動かす音。
椅子の脚が床を擦る音。
前の席から後ろの席へ飛ぶ声。
窓の外では、別の教室の誰かが笑っている。
アステリオスは、机の下で指を組んだ。
ここへ来て、何日か経った。
朝、黒板の端へ日付を書く生徒の顔は覚えた。教科書を出す合図も分かる。チャイムが鳴ったら、全員が席を立つわけではないことも。
それでも、音がいくつも重なるとどこを見ればいいか分からなくなった。
「次、移動だっけ?」
「違うよ。次の次」
隣で交わされる短い言葉に、アステリオスは顔を上げた。
移動。
どこへ。
誰に訊こうか考える間に、話していた二人は窓の方へ行ってしまった。
イカロスの席を見る。
別の生徒がノートを持ってきて、何か説明していた。イカロスは熱心に頷いている。分かった時にする顔だった。
莉奈は机へ頬杖をつき、健一の開いた本を覗き込んでいた。
アステリオスは自分の指をほどいた。
立ち上がると、椅子が後ろへ滑った。
思ったより大きな音がした。
近くの生徒が振り向く。
「どうしたの?」
「ソト、行ク」
「廊下?」
アステリオスは頷いた。
戸を引いた。人間の手で掴める、小さな窪み。少し力を入れれば、戸は横へ動く。
廊下の方が涼しかった。
胸へ入ってくる空気を確かめながら、窓のある方へ歩いた。
* * *
中庭へ出る手前に、担任がいた。
アステリオスを見ると、持っていたプリントを脇へ挟んだ。
「少し休む?」
頷いた。
「教室、うるさかったかな」
「コエ、イッパイ」
「そっか」
担任は中庭を見て、時計へ目を戻した。
「授業が始まる前に、先生も見に来るね。教室へ戻るのがきつかったら、その時に教えて」
廊下の向こうから呼ばれ、担任が片手を上げた。アステリオスへもう一度頷いてから、声のした方へ歩いていった。
中庭のベンチには、誰も座っていなかった。
桜の枝は、花より葉の方が目立つようになっていた。四人で弁当を広げた場所には、風で運ばれた砂が薄く溜まっている。
アステリオスは腰を下ろした。
膝へ掌を置き、指を一本ずつ曲げた。教室で強く組んでいたため、関節に少し跡が残っていた。
どこかでボールが弾んだ。
遠い声なら、聞いていられた。
しばらくして、廊下の窓からイカロスが顔を出した。
「いた」
アステリオスが見上げると、イカロスは窓の向こうでノートを掲げた。
「そこ、いて。今行く」
少しして、中庭の戸が開いた。
イカロスは走らずに来た。
ベンチの空いている方を見てから、アステリオスの顔を見る。
「座っていい?」
アステリオスは、隣を掌で叩いた。
「教室、苦手?」
「ズットハ、ムズカシイ」
「俺も、先生が続けて話すと、途中で分からなくなる」
イカロスがノートを開いた。
今日の授業の文字の間に、小さな空白が何か所もある。
「今、そこを教えてもらってた。一回で全部聞き取ろうとすると、その後の話まで分からなくなるから」
空白の一つへ、違う筆圧の文字が足されていた。
アステリオスは、その行を指した。
「アノ、ヒト」
「そう。隣の席の人。名前、覚えた?」
首を横に振ると、イカロスは教室のある方を見上げた。
「俺、今日やっと覚えた。毎日教えてくれるのに、ずっと訊きそびれてた」
イカロスは少し笑い、ノートを膝へ置いた。
「一緒に戻る?」
アステリオスは、まだ手を膝へ置いていた。
「……モウ、スコシ」
「分かった」
イカロスはノートを閉じた。
立ち上がりかけたアステリオスへ、手のひらを向ける。
「俺、教科書置いてくる。次の時間、移動じゃないって」
「ココデ、マツ?」
「うん。先生、来るって言ってたんでしょ」
アステリオスは頷いた。
イカロスは戸口へ行き、一度だけこちらを振り返った。
アステリオスは手を上げた。
戸が閉まっても、その先から教室の声は少し聞こえた。
* * *
担任が迎えに来た時、アステリオスはベンチから立っていた。
「戻れそう?」
「ウン」
「次も、しんどくなったら教えてね」
頷いて廊下へ戻った。
教室へ入ると、近くの生徒がアステリオスの机を指した。
「プリント、そこ置いといたよ」
机の上に、白い紙が一枚あった。
隣の席と同じ物だった。
「アリガトウ」
声にすると、相手はもう一度頷いて、自分の席へ戻った。
アステリオスも座った。
紙の端を、机の端と揃える。イカロスが離れた席から見ていたので、紙を少しだけ持ち上げてみせた。
授業が始まった。
分からない字は、いくつもあった。分かる字も、あった。
自分の名前を書く欄は、すぐに見つけられた。
* * *
放課後、健一が校内の案内図を持ってきた。
「これ、要る? 先生に貰ったんだけど」
職員室、保健室、図書室。
紙の上に、小さな部屋が並んでいる。
アステリオスが紙を受け取ると、莉奈が隣から覗いた。
「あ、ここ。図書室、休み時間なら開いてる時があるわよ。静かな方がよければ」
「ホン?」
「そう。本のある部屋」
アステリオスは紙の上で、その部屋を探した。
健一が指で示しかけて、止めた。
アステリオスは莉奈の口元と紙を見比べ、もう一度訊いた。
「ナマエ、モウイッカイ」
「図書室」
莉奈は少しゆっくり言った。
イカロスが紙の端へ『トショシツ』と書く。
その横へ、アステリオスは四角を一つ描いた。
「今から見に行く?」
健一が訊いた。
アステリオスは、少し考えてから首を振った。
「キョウハ、カエル。アシタ、ミル」
「そ。じゃあ帰ろ」
莉奈が鞄を肩へ掛けた。
アステリオスは案内図を畳んだ。
教室から中庭へ続く線を、折る前に指で一度なぞった。
下駄箱へ向かう廊下は、朝より静かだった。
イカロスが途中で立ち止まり、窓から中庭を覗いた。
「あそこのベンチ、見えるね」
アステリオスも立ち止まった。
誰も座っていないベンチへ、
葉の影が落ちていた。
「ウン」
二人で確かめてから、
健一たちを追った。




