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外伝 第32話 閉店後の椅子

 山岸は、同じ卓へ二度、水を運んだ。


 一度目に持っていったグラスが、もう客の手元にあった。二度目の盆を持ったまま立ち止まると、向こうの席から呼ばれた。


「すみません、こっち、まだ来てないです」


「はい、すぐに」


 答えてから、何が来ていないのかを訊き忘れたことに気づいた。


 四月の終わり。


 山岸が働く居酒屋は、いつもより早い時間から埋まっていた。


 学生の集まりも、会社帰りの客もいる。厨房から皿が出るたびに声が上がり、空いたグラスを下げる前に次の注文を頼まれた。


 忙しい夜は初めてではない。


 店の中も、もう覚えている。冷蔵庫の替えの水差しも、棚の上の取り皿も、迷わず見つけられる。


 それなのに、さっきから一つずつ遅れていた。


 伝票を確かめようとすると、料理が出る。料理を運ぶと、注文を頼まれる。戻る途中で呼ばれ、頼まれていた取り皿を忘れる。


「山岸、それ、どこの卓?」


 厨房の人に訊かれた。


 盆の上には、見覚えのある唐揚げが載っていた。見覚えはある。どこへ持っていくつもりだったかが、出てこない。


「……確認します」


「確認してから持ってって」


「はい」


 怒鳴られたわけではなかった。その方が、返事の後に何も足せなかった。

山岸は盆を置き、伝票をめくった。


 入口の鈴が鳴った。


「いらっしゃいま――先輩?」


 小保内が、傘を畳んで立っていた。


「こんばんは。まだ、大丈夫ですか」


「大丈夫です。こっち、空いてます」


 カウンターの端へ案内した。


 小保内は鞄を膝へ載せ、メニューを開いた。

 山岸は水を置き、ようやく思い出した取り皿を持って別の卓へ向かった。

 戻ってくると、小保内がメニューを閉じていた。


「冷奴と、焼きおにぎりをお願いします」


「はい。飲み物は」


「温かいお茶で」


「分かりました」


 書き終わる前に、隣の卓から声がした。


「お会計、お願いします」


 山岸はそちらへ向き、伝票を取ろうとした手が止まる。


 小保内の注文を、まだ通していない。


 振り返ると、同じシフトの学生がレジの前にいた。


 目が合った。


「会計、頼んでいい?」


「いいよ。何番?」


 卓の番号を伝えた。それだけで、相手は伝票を持って動いた。


 山岸は小保内の注文を通した。

 温かいお茶を出す頃には、小保内の肩から少し力が抜けていた。

 湯気へ顔を寄せている。


 山岸が空の盆を抱え直すと、彼女が顔を上げた。


「今日は、忙しそうですね」


「すみません。遅くなって」


「いえ。お茶、ちょうど飲みたかったので」


 小保内は湯呑みを両手で持ち直した。


 また呼ばれた。


 今度は頼まれた物を聞いてから、山岸は返事をした。


* * *


 閉店後、店先へ出ると、小保内が軒下から手を振った。


「先輩、まだいたんですか」


「駅へ行く前に、少し休んでいました」


 店の軒先には、椅子が二脚並んでいた。

 小保内は片方へ置いていた鞄を膝に戻した。


 山岸は空いた椅子の座面を布巾で拭き、少しだけ彼女の方へ寄せた。


「座ってもいいですか」


「どうぞ。お店の椅子ですけど」


「そうでした」


 腰を下ろすと、膝が思ったより重かった。店の中では気づかなかった。シャツには揚げ物の匂いがついている。


 雨は細かかった。軒の縁から落ちた滴が、歩道の同じ場所を濡らしていた。


「今日、何回も注文、間違えました」


「私のは、合っていましたよ」


「ほかの卓です。水を二回持っていって、必要なところには持っていかなくて。あれ、途中から何してるか分かんなくなるんですね」


 小保内は頷いて聞いていた。


「誰かが困ってたら、俺が行けばいいと思ってたんですけど」


「何人も呼んでましたからね」


「はい。返事だけは、全部してました」


 山岸は指の付け根を押した。盆を握っていたところが、薄く赤くなっていた。


「会計を、ほかの方に頼んでいましたね」


「見てたんですか」


「すぐそこでしたから」


 頼むまでに何秒迷ったかは、見えていないはずだ。レジの前にいる相手へ声をかければ済むことだったのに、自分が引き受けた客を渡していいか、迷った。


 あの日、振り返れなかった背中とは違う。ここでは、声をかければ返事があった。


「あとで、お礼言っときます」


 小保内が少し笑った。


「先輩は、今日は仕事の帰りですか」


「はい。予定より遅くなってしまって」


「何かあったんですか」


 小保内は答えかけ、口を閉じた。


 鞄の持ち手を膝の上で揃える。


「大したことではないんですけど」


 それきり、言葉が続かなかった。


 山岸は少し待った。


 店の中から、皿を重ねる音がする。


「……大したことじゃなくても、聞きますよ」


 小保内がこちらを見た。


「一人で仕事してたら、俺、また水を二杯持ってきちゃうんで」


「それは、私が飲みます」


「いや、余ったら誰かに頼みます。今度は」


 小保内は目を伏せ、短く息を吐いた。


「会議で、資料の違いに気づいたんです。配る版が一つ古くて」


「言えなかったんですか」


「言いました」


「あ、言ったんだ」


「でも、私の声が小さくて。聞こえていなかったみたいで。そのまま会議が始まってしまって」


「割り込めなかった?」


「言おうとした時に、次の話へ進んでしまいました」


 小保内は、揃えた鞄の持ち手から手を離した。


「終わってから伝えたら、『その時に言って』と言われました」


 山岸は何か言いかけ、やめた。


 声を大きくすればいい。もう一回言えばいい。簡単に言える言葉ほど、今は出したくなかった。


「それ、嫌ですね」


「……はい」


 小保内が頷いた。さっきより、はっきりと。


 山岸は道の向こうを見た。傘を差した人が、横断歩道の手前に溜まっている。誰もこちらを気にしていない。


「俺も、もう一回呼んでもらって、やっと気づいた卓がありました」


「忙しかったですから」


「はい。でも、聞いてるつもりだったんです」


 小保内は返事をせず、軒の先を見上げた。


 雨脚が、少し弱くなっていた。


「山岸くん。焼きおにぎり、美味しかったです」


「俺が焼いたんじゃないですよ」


「分かっています。でも、ちゃんと届きました」


 店の扉が開き、店長が二人を見た。


「まだいたのか。椅子、しまっていい?」


 山岸が立ち上がった。


「はい。俺がやります」


 隣で小保内も立ち、一脚の背へ手をかけた。


「先輩、客なんで」


「もうお会計、済んでいます」


 山岸は言い返せず、自分の椅子を持った。


 店内へ二脚を戻し、札を裏返す。


 外では小保内が傘を開いて待っていた。


 山岸も自分の傘を取り、


 追いついた。


 駅までは、


 彼女の歩く速さに合わせて歩いた。


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