1話 プロローグ
東京という大都会は迷宮のように入り組んでいた。
つくばに住んでいた新藤弥彦は東京駅に辿り着くまで幾つもの電車を乗り換えてきた。つくばエクスプレスと山手線を利用して、拙い情報と微かに覚えている記憶を辿りながら、プラットホームの地面に降り立つ。
途端に、排気ガスのような汚れた空気が嗅覚を刺激してきたのだ。
少しだけ息が詰まる感覚が拭えない。
様々な香りが混ざった世界は複雑で、太陽の日差しが当たらない空間は陰湿な印象を残る。人混みが絶えない忙しい光景は他の県では味わえないのだろう。
これも東京らしさというわけか。
想像していた近未来のイメージが簡単に否定されてしまうものに。
とりあえず群衆の流れ沿って歩く弥彦。携帯端末の画面に表記された地図の通りに進む。階段を上る靴の音が耳を障る不協和音を奏でようが、スピーカーから流れるアナウンスによって掻き消されていく。喧騒の絶えない彼らの日常は顔色一つ何変わらない。
そんな窮屈で面白味の欠けた無機物みたいな時間の経過であっても。
周囲から差し込んだ光は美しく彩られていた。
まるで芸術のよう。
日本という国の中心を統べる東京駅。四方八方に巡らせた陸路の網状は全国に行き渡る。世界の人々が集うこの駅は、古今東西の景観を維持しながらも和風と洋風を融合した建築物が並んでいたのだ。
そこでようやく、弥彦は東京に辿り着いた事を実感する。
期待と不安を交錯させた新天地は、間違いなく今を進むために存在する事を。
朧気な記憶でも無事に改札を通ることができた。
東京駅の正面口でもある丸の内中央口を出てみると、待ち受けていたのは眩しいほどの太陽の日差しと雲一つない晴天の空、そして聳え立つ摩天楼のビルが連なる大都会の景色が脳裏に焼き付く。
思わず、弥彦は視界を遮るように手を掲げる。
バックには格調の高さを誇り崇拝する重厚さを放つ赤レンガ駅舎。どこから眺めても分かりやすい鮮やかさと、精巧に拘った外装と内装は品質が素晴らしい。
大した記念にはならないが写真を取ってみる。
虚しくなればあとで消去すればいい。
携帯端末をポケットに仕舞い地図に目印が着いた場所に向かうとする。
肌寒い三月の極寒は行く手を遮る風が悪戯に吹き荒れて、歩く人達の心身を凍えさせていく。
悴んでいく手を弥彦は携帯カイロで暖めようと準備していると。
懐かしい人の声がこちらに呼び掛けていた。
「……久しいな。四年ぶりか、弥彦」
静かに振り返ると、そこには見覚えのある人達が立っていた。片方は中肉中背の男性でメガネを掛けており、弥彦に向けて歓迎の言葉を送っていた。もう片方の人物は小学生くらいの背丈をした女の子が盛大に手を振っている。
「真昼さん。こちらこそ、久しぶりですね」
「随分と背が伸びたんだな。見違えるほど凛々しくなったようだ」
出迎えてくれた千住真昼に親しげに握手する弥彦。
両親の事情でつくばから東京に住むことになった。その理由は保護者として真昼が鵜呑みをしてくれたからだ。一人暮らしは出来るものの、親族から多くの心配の声が上がっていたため、弥彦は譲歩し、話の折り合いに決着が付いた。
ただ、弥彦が素直に両親と共に渡米していれば、とても簡単に済んだ話。
他人行儀で世間を覗いたら反抗期にしか見えないだろう。
見えて貰えればこちらは大勝利だ。
「弥彦お兄ちゃん。私の名前、覚えてる?」
ひょこっと前に出てくる可愛いげのある少女が訪ねてきた。
もちろん、従妹の名前は忘れないし親族も含めて全員の名前も覚えている。
「ああ、覚えてるよ。夜子はお利口さんにしていたか?」
「うん! お利口さんにしてたよ!」
大変嬉しそうに満面の笑みを浮かべる千住夜子。自信に満ち溢れているのかうんうんと頷く。ポニーテールの髪が跳ねるように揺れていた。
面識する機会は少ないので不安があったが夜子は知っていた様子。
内通が隅々に届いているところは流石か。
「そういえばどうして二人は東京駅に?」
「夜子が待ちきれなくてな、俺と二人で弥彦を迎えに来たんだ」
「なるほど」
正直迎えに来てくれたのは嬉しい。
もしも道に迷ってしまったら二人に迷惑を掛けてしまうのでそれは避けたい所。
「お母さんはね、お留守番! 織乃姉ちゃんは友達と遊びに行っちゃった」
「なんかアイツらしい……」
あまり期待していなかったが不機嫌になる。
それでも構わない弥彦は切り替えることにした。どうせ向けられる言葉も想像すらしないものであって、こうして思案を巡らす内容では無かったハズだ。
千住織乃という従妹が居ようが反応は変わらないであろう。
「しかし詩季は曲者だな。仕事の都合とはいえ、善弥と共に渡米するとはな」
両親の名前を聞かされても弥彦は肩を竦めて笑う。
既に海外に渡ってしまった事実は隠せない。それは単なる昔話に過ぎない事を。
「……自分は一度アメリカで過ごしてますし、こういうの慣れてますよ。あの時はまだ夜子と変わらない小学生くらいだった。思い返せば沢山思い出はあるけれど、今は日本で過ごすことが、俺には合っている」
自分探しの旅に出る訳でもなく。
他人との違う世界観に躊躇う衝動に駆られる訳でもなく。
弥彦はただ、自分が生まれた愛すべきこの国を過ごしたいだけなのだから。
これは自分自身が決めた選択肢だ。
何も委ねるものはない。
「だから俺は日本に残ることにしたんだ。両親には悪いけどな」
「そうか……。弥彦は目標を見付けていたのか」
静かに頷き感服する真昼は妹の息子の冴え渡る成長に微笑んでいた。空のように澄んだ瞳を然りと見届けながら、一人の少年に啓蒙を促す。
「よし、今日から弥彦は家族の一員だ。帰ったら夕食は豪華しよう」
「わーい、やったー!」
「ゴチになります」
指を鳴らす真昼に歓喜の声を上げる夜子は嬉しそうにはしゃぐ。
団欒とした雰囲気は寒気を忘れさせる。自然と笑顔が溢れる優しい世界は温もりを包んでくれる。新天地という不安を拭う幸せな一時は、これからも続いていくのだろうか。
いいや、続けてみせるのだ。
本当に見たい景色を見据えるまでは、決して夢を諦めずに前に進む事を。
そのために東京に住もうと決めたのだから。




