第9話 妻へのモラハラ
数週間後。俊樹が学会で発表したその論文は、「新世代の鋭い倫理観」「光と影のアンビバレンスを説く先鋭的批評」として絶賛を浴びた。
メディアの寵児へと成り上がった彼は、現代アートの国際ビエンナーレの招待コンセプターとして声がかかるほどに注目を集めていく。
静之宮大学、文学部・学部長室。
伝統的な哲学・倫理学の権威である九重宗一郎教授は、デスクの上で俊樹の最新論文を読んでいた。
「『バイオアートおよび先端メディアにおける不可視領域の可視化実践』……か」
九重は銀縁の丸眼鏡を押し上げ、小さくため息をついた。
「確かに、言葉の選び方は現代的でキャッチーだ。だが、どこか上滑りしているような薄っぺらさを感じる。……しかし不思議なものだ。この難解なカタカナ語の奥底に流れている思想自体は、妙に温かく、他者への深い慈愛に満ちている。まるで……全く別人の魂が宿っているかのようではないか」
九重は首を傾げながらも、論文に推薦のサインを書き込んだ。
(新設される先端学部には、AIやSNSなどの最新トレンドに明るい人材が必要だ。古い伝統しか知らない私には到底追いつけない世界。彼のようなメディア露出や学生ウケの良さは、学部の広告塔として重宝する)
古典的で本質的な人間論を重んじる九重であったが、時代の流れという重圧には抗えず、俊樹の空虚な言葉に微かな違和感を抱きつつも、彼の准教授への昇格を後押しする最大の理解者となってしまったのだった。
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俊樹が新設学部の花形准教授としてチヤホヤされ始めると、二人の関係は決定的に歪んでいった。
「お前、まだそんな子どものお絵描きみたいなことやってるのか」
ある夜、リビングで絵本のラフを描いていた紬に対し、高級なアンコンジャケットを羽織った俊樹が冷笑を浴びせた。
「お前の描く甘っちょろい善人趣味じゃ、一円にもならないぞ。俺みたいに社会に評価されて初めて、表現には価値が出るんだ」
紬は、手漉き和紙のノートから顔を上げ、静かに夫を見つめた。
その視線の先にあるテレビでは、先日のシンポジウムで「メディアの周縁倫理」について得意げに語る俊樹の録画映像が流れていた。
「ねえ、あなた。あのテレビであなたが話していた言葉……私のノートに書いてあった構想に、とても似ている気がするのだけれど」
紬が控えめに問いかけると、俊樹の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
(図星だ。確かに俺は、こいつの絵本の内容をほぼコピーして使っている。だが、それが本人にバレてはまずい……!)
俊樹は焦りと動揺を隠すように、バンッと乱暴にテーブルを叩いて立ち上がった。
「ふざけるな!俺の高度な学術理論が、お前の幼稚なポエムと同じだとでも言いたいのか!」
「え……でも、光と影の捉え方とか、見落とされる弱者への眼差しとか……」
「馬鹿を言うな!俺が提唱しているのは『スペクタクルの周縁倫理』という全く次元の違う哲学だ!お前の甘っちょろい善人趣味と一緒にされては不愉快極まりない!」
俊樹は激しい剣幕で紬を見下ろし、一気に畳み掛けた。
「俺が日夜、どれほどのプレッシャーの中で研究に打ち込んでいると思っているんだ。それを、身内のお前がそんな言いがかりをつけて俺の足を引っ張る気か!?一流の学者に対する侮辱だぞ!」
予期せぬ逆切れと威圧的な態度に、紬は怯んで肩をびくつかせた。
「ご、ごめんなさい……。私、そんなつもりじゃ……」
「だったら二度とそんな思い上がった口を利くな。少しは俺の苦労を理解しろ!」
俊樹の怒声に押し潰され、紬は力なくうつむいて謝るしかなかった。
「世界で一番の理解者」だと信じていた夫の激しい怒りと理不尽な威圧に触れ、紬の心は冷たく萎縮していった。
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「……ところで、あなた。結婚して随分経つし、そろそろ子どもを……」
紬が話題を変え、長年望んでいた家庭の夢を口にすると、俊樹は露骨に顔をしかめた。
「何度も言わせるな。今は先端学部の立ち上げ期で極めて重要な時期だ。俺が教授に昇格して、研究基盤が盤石になってからだと約束しただろう」
「でも、あなたは毎晩のように飲み歩いて……」
「あれは学術ネットワークの開拓だ!俺の立場を維持するための必要な投資なんだよ。子育てなんてコストのかかることを、俺の邪魔になるタイミングで持ち出すな!」
俊樹が吐き捨てるように言い放ち、書斎へと消えていく。
バタン、と重厚なマホガニーのドアが閉まる音が、リビングに虚しく響いた。
(実際は、俺の昇進と世間体、そして自由な散財が最優先なだけだ。泣きわめく赤ん坊の世話なんて、まっぴらごめんだからな)
書斎の革張りのチェアに深く腰掛けた俊樹は、妻の尊厳を踏みにじったことへの罪悪感など微塵も抱いていなかった。
紬から研究内容を深く聞かれないよう、話をそらして誤魔化す苦労はあるものの、彼の学者としての地位は妻のアイデアがある限り安泰だった。
自分の虚栄心を満たすためだけに、妻の才能と人生を搾取し続ける男。
この絶対的な支配関係が永遠に続くと、この時の俊樹は疑いすらしていなかった。




