第10話 怯える夫
現在。
秋の夜。閑静な高級住宅街に建つデザイナーズマンションの一室。
リビングのダイニングテーブルには、湯気を立てるクリームシチューが二皿並べられていた。生成りのウール製カーディガンを羽織った紬は、夫の帰りを静かに待っていた。
ガチャリと、玄関のドアが乱暴に開く音がした。
「あなた、おかえりなさい。今夜は冷えたでしょう」
紬が玄関に出向くと、そこには普段の完璧な「若き先鋭准教授」の面影は微塵もなく、ネクタイをだらしなく緩め、ひどく落ち込んだ様子の夫・俊樹が立っていた。
「どうしたの?顔色がすごく悪いわ」
紬が心配そうに駆け寄ろうとすると、俊樹はビクッと肩を跳ねさせ、妻の手を払いのけた。
「……触るな!」
「え……?」
「なんでもない。ただ、疲れているだけだ……」
虚ろな目で宙を彷徨わせながら、俊樹は靴を脱ぐのももどかしそうに廊下を上がり、フラフラとした足取りでリビングを横切っていく。
「夕飯、シチューを作ったのよ。温かいうちに……」
「いらない。今日は疲れた。俺はもう寝る」
俊樹は紬の方を一度も振り返ることなく、足早に自身の書斎へと逃げ込んだ。
バタン、という重い音に続いて、カチャリと内側から鍵をかける音が響く。
リビングに取り残された紬は、閉ざされたマホガニーのドアを見つめたまま、静かに立ち尽くした。
普段は自信に満ち溢れ、家の中でも尊大に振る舞う夫が、あのように尋常ではない怯え方を見せるなど、結婚して以来初めてのことだった。
(あの様子……ただの疲れじゃないわ。余程の深刻なトラブルが起きているのね)
夫の身を案じる純粋な心配が、紬の胸に広がっていく。
紬はダイニングテーブルに戻り、手つかずのまま置かれた二皿のシチューを見下ろした。
先ほどまで温かい湯気を立てていたシチューは、時間が経つにつれて徐々に熱を失い、表面には冷たく固い膜が張り始めていた。
それはまるで、他者を思いやろうとする紬の温かい心を、保身と恐怖で頭がいっぱいの俊樹が冷酷に拒絶した、夫婦の間の圧倒的な温度差を象徴しているかのようだった。
+++
その日の深夜。
俊樹が書斎に閉じこもってから数時間が経過していた。
紬は冷え切ったシチューを鍋に戻し、一人で静かにキッチンの片付けを終えた。
リビングのソファに腰を下ろし、ふと壁掛けテレビの電源を入れると、深夜のニュース番組が物々しいトーンで報じていた。
『――続いてのニュースです。大規模なサイバー攻撃を受けた有料動画サイトから、テラバイト級のユーザー情報が流出していた問題で、本日、ハッカーが海外の匿名サイトに全データを無料で公開したことが判明しました』
「えっ……」
紬は思わず画面に釘付けになった。
『公開されたデータには、クレジットカード情報こそ含まれていないものの、ユーザーの本名やメールアドレス、そして購入・閲覧履歴が紐付いた状態で大量に含まれています。これを受けネット上では悪意ある第三者が、誰でも簡単に個人を検索できるミラーサイトを複数立ち上げ、大混乱に陥っています』
紬は手元のスマートフォンを取り出し、SNSを開いた。
タイムラインは、ニュースの通り異常なお祭り騒ぎとなっていた。
「上司の名前入れたら一発で出てきたwww」
「あのお堅い政治家がこんなエグい動画買ってたのかよ!」
「これ、完全に社会的に殺しにきてるだろ」
他人の隠された秘密を暴き出し、娯楽として消費するネットの暴力性が、画面の向こうで渦巻いている。
紬はその狂騒を眺めながら、ふと、先ほどの俊樹の尋常ではない怯え方を思い出した。
(もしかして……)
紬の脳裏に、一つの推測が浮かび上がった。
(俊樹の身近な誰かが……)
俊樹は日頃から倫理や道徳を重んじる教育者だ。彼があれほど深く思い悩んでいたのは、親しい同僚や教え子がこの悪意ある情報漏洩の標的になってしまい、親身になって彼らを助けようと心を痛めているからに違いない。
そう考えれば、あのような尋常ではない落ち込み方にも辻褄が合う。
(もしそうなら、私にも力になれることがあるかもしれない。まずは誰が被害に遭っているのか知らなければ)
純粋な心配から、紬は震える指でブラウザを開いた。
SNSで拡散されている検索ミラーサイトのURLをタップする。
簡素な作りの検索窓が表示された。
『氏名、またはメールアドレスを入力してください』
紬は、俊樹が最近よく口にしていた大学の関係者の名前を思い浮かべた。
まずは、同僚である准教授の名前を入力してみる。
『御子柴怜』
検索ボタンをタップしたが、結果は『該当件数:0件』だった。
続いて、俊樹がお世話になっているという恩師の名前を打ち込んだ。
『九重宗一郎』
しかし、こちらもやはり『該当件数:0件』だ。
(違うみたい……。じゃあ、いったい誰のことであんなに悩んでいるの?)
紬は首を傾げた。その時、ふと嫌な考えが胸をよぎった。
(まさか……俊樹自身が、何かの間違いでリストに巻き込まれてしまっているとか?)
紬は、夫を心配する一心で検索窓にゆっくりと文字を打ち込んだ。
『鰐淵俊樹』
そして、検索ボタンをタップした。




