第11話 動画の購入履歴
わずかな読み込み時間の後、紬のスマートフォンの画面が切り替わった。
そこに表示された検索結果を見て、紬は息を呑んだ。
画面の最上部には『該当件数:1件』という冷酷な文字。
そして、その下には詳細な個人情報が並んでいた。
氏名:鰐淵俊樹
生年月日:198X年〇月〇日
登録住所:清河県影浦市……
(同姓同名……じゃない。生年月日も、このマンションの住所も完全に一致しているわ)
紬の指先が小刻みに震え始める。
さらに画面をスクロールすると、そこには『購入・閲覧履歴』として、数十にも及ぶ動画のタイトルがずらりと羅列されていた。
『教え子の誘惑に負けた既婚教授〜秘密の個人講義〜』
『背徳のPTA役員会:妻に隠れて重ねる密会と吐息』
『真面目な人妻が理性を見失う午後2時のホテル街』
『親友の婚約者と抜け出した夜〜後戻りできない背徳の快楽〜』
「……嘘、でしょ……?」
純粋な心配から夫を助けようとしていた紬の頭の中で、ガラガラと何かが崩れ落ちる音がした。
夫が怯えきっていた真の理由は、身近な人物のネット被害ではない。
自身の隠していたディープな不倫・浮気系の性癖リストが、全世界に暴露されてしまったから、だったのだ。
普段から「先端メディアの倫理」を声高に語り、他者を啓蒙するような態度をとっていた夫の、あまりにも生々しく、そして卑小な裏の顔。
未だに現実とは信じられず、紬は混乱する頭を抱えながら、明日の朝、俊樹に直接確認しようと決心した。
+++
翌朝。
リビングのダイニングテーブルに座る紬の前に、一睡もできず目の下に濃い隈を作った俊樹が、書斎から這うようにして出てきた。
紬は無言のまま立ち上がり、昨夜の検索結果を表示したままのスマートフォンを、俊樹の目の前に突きつけた。
「あなた、これはどういうことなの?」
画面を見た瞬間、俊樹の心臓が早鐘のように激しく打ち鳴らされ、文字通り時が止まった。
(終わった!なんで紬がこれを知ってるんだ!?よりによって妻にバレるなんて!)
顔面から血の気が引き、俊樹の脳内では未曾有の大パニックと、生き残りを賭けた猛烈な「言い訳構築会議」がフル回転で始まった。
(いや、まだだ!俺はこれまでも口八丁で窮地を脱してきた男だ!どう切り抜ける?)
(『男の性だ、仕方ないだろう』と開き直るか?いや、ダメだ!そんなこと言ったらモラルを問われて離婚問題に発展する!)
(ハッキングされて勝手に名前を使われたと嘘をつくか?いや、住所まで一致しているのに苦しすぎる!)
(そうだ、『研究』だ!俺は倫理学の准教授だぞ!学問の衣を被せれば、どんな低俗なことでも正当化できる!)
わずか数秒の沈黙の後、俊樹はカッと目を見開き、もっともらしい、しかしいつもより随分と引きつった顔を作って口を開いた。
「つ、紬、誤解しないでくれ。これは……人間の深い情動や罪悪感を知るための、言わば勉強教材なんだよ」
「勉強教材……?」
「そうだ!俺はメディア・エシクスを研究する専門家として、現代人の倒錯した欲望のメカニズムを学術的に分析する義務がある。これはあくまで、次の論文のテーマを探すための、崇高な倫理学のフィールドワークなんだ!」
早口でまくしたてる俊樹の額には、びっしょりと脂汗が浮かんでいる。
紬は、夫のあまりにも苦しく、滑稽な言い訳を聞きながら、静かな呆れと疑念を抱いた。
(嘘だわ。自分の保身のために、適当な言葉を並べているだけ)
しかし、紬の根底にある深い倫理観が、彼女の感情的な怒りにブレーキをかけた。
(確かに趣味は悪くてショックだけれど……直接周りに迷惑をかけたり、実際に不倫をしたわけではない。個人の頭の中の性癖や、表現の自由の範疇だわ)
紬は、人間が持つ「ほころび(不完全さ)」を肯定する思想の持ち主だった。
完全無欠な人間などいない。誰しも隠しておきたい恥ずかしい欲望や弱さを持っている。それを受け入れることもまた、他者と生きる上での寛容さではないか。
「……わかったわ。誰にも迷惑をかけていない個人の自由だものね。そういうことにしておくわ」
「え……?」
さらに言い訳を続けようと口をパクパクさせていた俊樹は、予想外の紬の反応に面食らった。
(これ以上問い詰めてこない?……どうやら、本気で怒っているわけではないらしい。ここで下手に議論を伸ばして墓穴を掘るのは野暮というものだ)
俊樹はあからさまに安堵の息を吐き出した。
「俺の言っている事はほ、本当だからな。分かってくれて助かるよ。じゃあ俺は大学があるから!」
俊樹は疑いの目を向けられていることを肌で感じつつも、これ以上の追及から逃れるようにして、慌ただしく玄関から飛び出していった。
+++
バタン、とドアが閉まる音を聞き届けた後、リビングに一人残された紬は、ダイニングテーブルの上の手漉き和紙のノートを開いた。
万年筆を手に取り、ゆっくりとペンを走らせる。
『人には誰しも、決して他者には見せられない隠しておきたい暗い欲望がある。その「ほころび」を咎めるのではなく、受け入れることもまた、共に生きるということなのだろうか』
紬は、自分に言い聞かせるように言葉を書き留め、夫の不完全さを倫理的に許そうと努めた。
しかし、ペンを持つ手は微かに震えていた。
(でも……あの動画のタイトル。『教え子の誘惑』に『親友の婚約者』……)
夫の心の中に、あれほど露骨でディープな「不倫願望」が黒い渦のように巻いていたという事実は、紬の胸の奥に小さな、しかし鋭い引っかかりとして深く刺さったままだった。
一度は許そうと決めたものの、彼が抱える底なしの欲望の輪郭に触れてしまった以上、かつてのように夫を信じ切ることはできるだろうか。
静まり返ったリビングに、秋の冷たい風が窓の隙間から吹き込む。
事態は一見収束したかに見えたが、この日を境に、夫婦の間には決定的なぎこちない空気が漂い始めるのだった。




