第12話 広まる噂
澄み切った秋晴れの空とは裏腹に、鰐淵俊樹の心には重くどんよりとした暗雲が立ち込めていた。
静之宮大学・本校地キャンパス。
大正・昭和の面影を残す赤レンガ造りの大講堂へ続くケヤキ並木を、俊樹はいつものように歩いていた。
普段であれば、すれ違う学生たちから向けられる羨望や尊敬の眼差しを全身に浴び、仕立ての良いアンコンジャケットの胸を張って優雅に歩くところだ。しかし、今日の彼は違った。
「ねえ、あれ……鰐淵先生じゃない?」
「マジだ。見た?昨日の検索サイト……」
「見た見た。やばくない?あの先生、結婚してるのに不倫モノとか好きらしいよ……引くわー」
ケヤキ並木を歩く俊樹の耳に、学生たちのヒソヒソとした囁き声が、まるで鋭い針のように突き刺さる。
通り過ぎる学生たちの何人かは、手元のスマートフォンを覗き込んでは顔を見合わせ、口元を隠してクスクスと下世話な笑いを漏らしていた。
(バレている……!こいつら、絶対にあの検索データベースで俺の名前を調べやがったんだ!)
俊樹の背筋に、氷を滑らせたような悪寒が走った。
額から脂汗が滲み出し、綺麗にスタイリングされたウェーブヘアの根元がじっとりと湿っていく。
一部の学生とはいえ、すでに「気鋭の若手倫理学者」が裏で卑小な不倫・浮気系動画を買い漁っていたという事実は、学内に確実に伝播し始めていた。
(どうする?どうすればいい?このままじゃ、俺が築き上げてきた完璧な准教授の仮面が完全に剥がれ落ちてしまう!)
俊樹は必死に口角を上げ、爽やかな笑顔を貼り付けようとしたが、顔の筋肉が引きつってうまく笑えない。
周囲のすべての視線が、自分を嘲笑い、蔑んでいるように感じられる。針のむしろを歩かされているような極度の緊張感の中、俊樹は足早に先端メディア共創棟の准教授室へと逃げ込もうとした。
しかし、その足止めをするかのように、スーツのポケットでスマートフォンが短く振動した。
ビクッと肩を跳ねさせ、震える手で画面を確認する。
大学の内線システムからのメッセージ通知だった。差出人は『九重宗一郎学部長』。
『鰐淵くん、急ぎで確認したいことがある。すぐに学部長室まで来たまえ』
その無機質な文字列を見た瞬間、俊樹の心臓は文字通り凍りついた。
(終わった……学部長の耳にも入ったのか……!)
九重学部長は、カントや現象学などの古典的人間論を絶対的な規範とする、伝統的で厳格な学者だ。不祥事や不誠実な振る舞いを何よりも嫌う。
そして何より、彼こそが俊樹を「次期教授候補」として強力に推してくれている最大の理解者であり、絶対的な権力者であった。
もし彼に見限られれば、教授昇格への道は完全に絶たれる。
俊樹は鉛のような足を引きずりながら、文学部の旧棟にある学部長室へと向かった。
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「失礼いたします、学部長。お呼びでしょうか」
学部長室の重厚なマホガニーの扉をノックし、俊樹は恐る恐る室内に足を踏み入れた。
室内には、クラシック音楽が静かに流れ、壁一面を覆う書棚には難解な哲学書が隙間なく並んでいる。
革張りの執務机の奥で、白髪をオールバックに撫で付けた九重宗一郎が、銀縁の丸眼鏡の奥から鋭い視線を俊樹に向けていた。
「うむ。掛けたまえ」
重低音の声に促され、俊樹は逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、来客用のソファに浅く腰を下ろした。
「単刀直入に聞こう。例の、いかがわしい動画サイトの個人情報流出騒動についてだ」
九重の言葉に、俊樹の喉がヒュッと鳴った。
「学生たちの間で、君の名前がその流出リストに載っているという噂が広まっているようだが……これは事実かね?」
九重の顔は険しく、その声には静かな怒りと失望が滲んでいた。伝統的な倫理を重んじる彼にとって、次期教授候補である愛弟子がそのような低俗なスキャンダルに塗れるなど、学部の品位を揺るがす重大な問題であった。
(どう切り抜ける?ここで嘘をつけば、後で調べられた時に完全に首が飛ぶ。事実を認めた上で、正当化するしかない!)
俊樹は膝の上で拳を強く握り締め、今朝、妻の紬に対して使ったのと同じ「言い訳」のロジックを、脳内でフル回転で組み立てた。
「……お耳汚しをしてしまい、誠に申し訳ありません。結論から申し上げますと、リストに私の名前があるのは事実です」
「なんと……真実であったか。まぁ、人間である以上、男である以上、本能がある以上、そういったものを見るのはアレだ、仕方ない。しかしだね、既婚者の君が浮気だの不倫だののタイトルしかリストに載ってないそうじゃないか。そこが問題なんだ」
九重が机をドンと叩く。
「誤解です、学部長!決して個人的な享楽のためではありません!」
俊樹は身を乗り出し、悲痛な表情を作って声を張り上げた。
「私はメディア・エシクスを研究する者として、現代のネット空間における人間の倒錯した情動や、罪悪感のメカニズムを学術的に分析する必要がありました。あれは……次の論文のテーマを探すための、いわば社会学的なフィールドワークだったのです!」
早口でまくしたてる俊樹の額からは、滝のように汗が流れ落ちている。
「匿名性が担保されたと錯覚した空間で、人間がいかに倫理のタガを外すか。それを知るための、あくまで『勉強教材』としての調査に過ぎません。私自身、あのサイトの低俗さには辟易しておりました!」
九重は目を細め、目の前で必死に弁明する俊樹をじっと見据えた。
その視線は、俊樹の薄っぺらい言葉の裏にある「虚栄」を見透かそうとしているかのようだった。
「……調査目的、か」
長い沈黙の後、九重は深くため息をついた。
「百歩譲って、君の学問的探求心から出た行動だとしよう。しかし、あのようなセキュリティの甘い不道徳なサイトに、本名で登録するなど脇が甘すぎるのではないか?結果として、君は学生たちの格好の好奇の的となり、我が学部の品位に泥を塗ることになりかけているのだぞ」
「おっしゃる通りです。私の危機管理能力の欠如でした。深く反省しております……!」
俊樹は深々と頭を下げた。
九重は疑ったままの険しい顔を崩さなかったが、一応の釈明としては受け取ったようだった。彼自身、最新のネットトレンドやサイバー犯罪の実態には疎く、俊樹の「フィールドワーク」というもっともらしい専門用語に押し切られた部分もある。
「鰐淵くん。君は我が新設学部の看板であり、教授への昇格が間近に迫っている身だ。これ以上の醜聞は、大学の理事会も黙ってはいないだろう」
九重は冷ややかな声で釘を刺した。
「今後の言動には、くれぐれも注意するように。……下がっていい」
「はい……!肝に銘じます!」
俊樹は逃げるように立ち上がり、学部長室を後にした。
ドアを閉めた瞬間、極度の緊張の糸が切れ、俊樹はその場にへたり込みそうになった。
(乗り切った……なんとか首の皮一枚で繋がった……!)
だが、彼の心に安堵はなかった。
学部長を騙し通せたとしても、学生たちの嘲笑の目は消えない。自分の築き上げてきた完璧な虚像が、今まさに足元から崩れ去ろうとしているという恐怖が、俊樹の精神を確実に削り取っていった。




