第13話 被害妄想の逆ギレ
学部長室の重厚なマホガニーの扉を背にし、鰐淵俊樹は大きく息を吐き出した。
どうにか九重学部長を丸め込むことには成功したが、アンコンジャケットの下のシャツは冷や汗でぐっしょりと濡れ、肌に不快に張り付いている。
(とにかく、これ以上ボロを出さないようにしなくては。後ろめたい気持ちを殺すんだ。堂々としていればいいんだ)
俊樹は乱れたネクタイを締め直し、無理やり口角を上げて廊下を歩き出した。
だが、角を曲がったところで、前方から歩いてくる人物と鉢合わせになり、俊樹の足がピタリと止まった。
地味なスーツに身を包み、分厚い洋書を小脇に抱えた実証派の同僚、御子柴怜准教授だった。
「これは鰐淵先生。随分と顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
御子柴の静かな声には、明らかな嘲りが混じっていた。
「み、御子柴先生……。ええ、少し次の講義の準備で立て込んでおりまして」
「なるほど。てっきり、随分と身体を張った『フィールドワーク』の事後処理に追われているのかと推察しておりましたよ」
ビクッと俊樹の肩が揺れる。御子柴は眼鏡の奥の鋭い目を細め、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
「学生たちの間では、専らの噂ですよ。メディア・エシクスを声高に語る新進気鋭の学者が、裏では低俗な動画サイトの熱心な顧客であったと。……いやはや、人間の欲望とは実に業が深いものです」
「ち、違います!あれはあくまで学術的な調査の一環であって……!」
「ええ、ええ。フムフムそういうことにしておきましょう。学部長もさぞや頭を抱えられたことでしょうね。伝統と格式を重んじる静之宮大学において、そのような不誠実なスキャンダルは致命傷になりかねない」
御子柴はゆっくりと俊樹に歩み寄り、すれ違いざまに肩越しに低く囁いた。
「私としては、教授への椅子を争い、切磋琢磨するはずだったライバルが自滅して減ってしまったようで、非常に残念に思っておりますよ。……では、講義の時間ですので失礼します」
静かな足音を立てて去っていく御子柴の後ろ姿を、俊樹はただ唇を噛み締めて睨みつけることしかできなかった。
言い訳は、学内では全く通用していない。完全に軽蔑され、見下されている。
その圧倒的な敗北感が、俊樹の自尊心をズタズタに引き裂いていった。
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午後。重厚な赤レンガ造りの大講堂。
俊樹は教壇の上に立ち、マイクを握りしめていた。
しかし、彼の目には、満席の大講堂に座る数百人の学生たち全員が、自分を嘲笑う悪魔のように見えていた。
「……現代におけるメディアの倫理的課題は、その不可逆性にあります。一度ネットの海に放たれた情報は……」
口から自動的に学術用語を紡ぎ出しながらも、声は上ずり、視線は定まらない。
(こいつら、ノートを取るふりをして、手元のスマホで俺の漏洩リストを見ているんじゃないか?)
(一番前の女子学生、今、隣の子と顔を見合わせて笑ったよな?俺の『教え子の誘惑』という購入履歴を思い出したに違いない!)
極度の疑心暗鬼に囚われた俊樹の精神は、すでに限界に近づいていた。
張り詰めた糸が切れるのは、ほんの些細なきっかけだった。
講義の中盤。客席の中央付近で、一人の男子学生がうつむき加減でニヤニヤと笑い声を漏らしているのが、俊樹の視界に飛び込んできた。
学生は手元のスマートフォンを机の下に隠し、肩を揺らしてクスクスと笑い続けている。
(あの野郎……!俺の目の前で、あの検索サイトを見て笑っていやがるのか!)
ブチッと、俊樹の脳内で何かが弾ける音がした。
「おい、そこの君!」
俊樹はマイクを通さずに、大講堂全体に響き渡るような地声で怒鳴りつけた。
突然の怒声に、数百人の学生たちが一斉に教壇へと視線を向ける。
「な、何がおかしい!人のプライバシーを踏みにじるような行為が、そんなに面白いか!」
俊樹は教壇から身を乗り出し、顔を真っ赤にしてその男子学生を指差した。
「君たちには倫理観というものがないのか!表情に出さずとも、心の中で私を嘲笑っているのだろう!ええ!?」
名指しされた男子学生は、ポカンと口を開けたまま硬直していた。
「え……あ、いや……先生、違います……」
「何が違う!隠していないで、その手元のスマホを見せてみろ!」
「すんません。でも……これ、ただのお笑い動画です……」
学生が恐る恐る掲げたスマートフォンの画面には、人気のお笑いコンビがコントをしている動画が再生されていた。
講義中に動画を見ていたことは確かに褒められたことではないが、俊樹の漏洩リストとは全く無関係だった。
「あっ……」
俊樹の喉から、間の抜けた声が漏れた。
大講堂は、文字通り水を打ったような静けさに包まれた。
見当違いの激昂。そして、「人のプライバシーを踏みにじるような行為」という、自ら墓穴を掘るような失言。
学生たちの視線が、驚きから、明確な冷笑と軽蔑へと変わっていくのが、俊樹には痛いほどに分かった。
「……あー、コホン。講義中の私語、およびスマートフォンの使用は慎むように。……では、次のスライドへ」
俊樹は顔から火が出るほどの羞恥心に苛まれながら、震える手でパソコンのマウスを操作した。
しかし、大講堂に流れる冷ややかな空気は、講義が終わるまで決して変わることはなかった。
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「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
講義終了のチャイムが鳴ると同時に、俊樹は逃げるように大講堂を飛び出した。
誰とも目を合わせず、真っ直ぐにメディア共創棟の男子トイレへと駆け込む。
一番奥の個室に飛び込み、内側から鍵をガチャリと閉める。
俊樹は便座に座り込み、頭を抱えて低く呻き声を上げた。
「くそっ……!なんで俺が、こんな惨めな思いを……!」
(終わった。完全に終わった。講義中にあんな取り乱し方をしてしまったら、もうごまかしはきかない)
恐怖と羞恥に震える手で、俊樹はポケットからスマートフォンを取り出した。
見たくもないのに、見ずにはいられない。
俊樹はブラウザを開き、静之宮大学の学生たちが集まる裏掲示板にアクセスし、検索窓に「鰐淵」と打ち込んだ。
画面に表示された結果は、俊樹を絶望の淵へと突き落とすには十分すぎるものだった。
『鰐淵先生、今日の講義で急にキレててマジで草』
『絶対自分のエロ動画リスト見られてると思って被害妄想起こしたんだろwwほぼ当たりだけどww』
『あんな偉そうにメディアエシクスとか語ってて、裏では倫理観を捨てたようなモノを買い漁ってたとかキモすぎ』
『御子柴先生のほうがよっぽどマシ。鰐淵は教授昇格とか絶対無理だろ、はよ辞めろ』
スクロールしても、スクロールしても、無数の罵詈雑言と嘲笑の言葉が溢れ返っている。
自分が長年、紬のアイデアを盗用してまで築き上げてきた「若き天才倫理学者」という虚像が、音を立てて崩壊していく。
「あ……あああ……」
俊樹の口から、もはや言葉にならない悲鳴のような呻きが漏れた。
個室の狭く冷たい空間の中で、俊樹はスマートフォンを握りしめたまま、ガタガタと震え続けた。
極度の疑心暗鬼と恐怖に苛まれ、彼の精神はすでに完全に擦り切れ、持ち直すことのできない限界へと到達していた。




