第8話 才能の搾取
そこには、丁寧な文字でこう綴られていた。
『自らの身を削る痛みが伴わなければ、その温もりは誰の心も救えない』
さらに、その隣のページには、『おしゃべりなカカシとこごえる森』というタイトルで、カカシが自らの体を崩して焚き木となる構図のスケッチが描かれていた。
俊樹の脳内で、凄まじい火花が散った。
(……なんだこれは?この「痛みを伴う温もり」という視点。これを、生成AIの出力に当てはめて、難解な言葉で装飾すれば……『模倣された共感の限界』として一本の完璧な論文が書けるじゃないか!)
震える手でノートを拾い上げた俊樹は、続いて絵本の表紙に目を落とした。
『ちいさなガラスのとり』。作者名「むぎ」。
先日、あの頭の固い九重教授が「本質的な人間の倫理」だと絶賛していた絵本だった。
俊樹はバッと顔を上げた。
目の前で申し訳なさそうにしている、華奢でノーメイクに近い女性。
「あの……すみません。ノートを……」
「これ、あなたが書かれたんですか?」
俊樹の声は、興奮で微かに上ずっていた。
「え?あ、はい。ただの思いつきを書き留めているだけの落書きですけれど……」
紬が恥ずかしそうに目を伏せた瞬間、俊樹の顔に、いつもの「完璧で人当たりの良い爽やかな好男子」の笑顔が貼り付いた。
「素晴らしい。本当に素晴らしい洞察です。お詫びと言ってはなんですが、もしお時間があれば、コーヒーをおごらせてください。それに少しお話を伺えませんか?」
俊樹は強引に紬を自分の席へと誘い、新しいコーヒーを買い与えた。
席に向かい合うと、俊樹は身を乗り出して紬の思索を次々と聞き出した。
「テクノロジーの発展の中で、人間の不完全さや『ほころび』の中にこそ、他者を受け入れる余白がある……。驚きました。あなたのその『人間味と倫理の共生』という視点は、非常に先鋭的です」
俊樹は、先ほど九重教授から言われたばかりの言葉を、そっくりそのまま自分の言葉のように語った。
「僕は倫理学を研究している鰐淵俊樹といいます。長年、この学術界には真の人間味が欠けていると危惧していました。ですが、あなたのノートを拝見して希望の光を見ました。あなたの豊かな発想力は、現代社会が最も必要としているものです!」
紬の目が、驚きと喜びで見開かれた。
自分の作品や思想は「浅はか」と冷笑され続けてきた。世間の誰にも評価されない無名の表現論を、目の前にいる知的で洗練された若手研究者が、これほどまでに熱心に、そして深く理解し、全肯定してくれている。
(私の表現の奥底にあるものを、こんなに正確に掬い取ってくれる人がいたなんて……)
紬の胸に、かつてないほどの温かい感情が広がっていった。彼女は俊樹を「自分の感性を一番熱心に評価し、理解してくれる唯一の理解者」だと、完全に信じ切ってしまったのだ。
紬の頬が微かに紅潮するのを見ながら、俊樹はテーブルの下で密かに拳を握り締めていた。
(ビンゴだ。この女は使える。俺には絶対に生み出せない独自の視点とアイデアを、無尽蔵に湧き出させる泉だ)
俊樹は、紬の目を真っ直ぐに見つめながら、さらに甘く優しい声を紡ぎ出す。
(このまま手元に囲い込んでしまえばいい。こいつの幼稚な言葉を、俺が小難しい学術用語でコーティングして世に出してやる。そうすれば、俺は一流の学者として名声を欲しいままにできる……!)
純粋に理解者を求めていた無名の絵本作家と、他者の才能を搾取する寄生先を探していた底の浅い助手。
二人の思惑は全く別の方向を向いたまま、ここから残酷でいびつな交際が幕を開けることとなるのだった。
+++
学内カフェでの運命的な出会いから数ヶ月後。
俊樹と紬は、大学からほど近いマンションで同棲生活を始めていた。
紬にとって、俊樹は自分の無名な表現論や感性を「世界で一番熱心に評価し、深く理解してくれる唯一の理解者」であった。彼となら、温かい家庭を築けると信じ切っていたのだ。
しかし、俊樹の視点は全く異なっていた。助手としての任期が迫り、研究に行き詰まっていた彼にとって、紬は自身の「アイデア供給源」に他ならない。他の誰かに彼女の才能を見つけられる前に、都合のいい発想の泉として手元に囲い込むための同棲であった。
深夜。寝室から紬の規則正しい寝息が聞こえてくるのを確認すると、俊樹は音を立てずにベッドを抜け出し、薄暗いリビングへと向かった。
ダイニングテーブルの上には、紬が日中書き留めていた手漉き和紙のノートが置かれている。
俊樹はスマートフォンを取り出し、カメラのシャッター音を消すアプリを立ち上げた。
「さて、今日の収穫は……」
ノートのページを捲ると、そこには『夜の海をてらす影のあかり』の新しい草稿が書かれていた。
(『大きな正義や華やかな光ほど、その足元に深い影と弱者を取り残してしまう』……か。相変わらず甘ったるい表現だが、使えるな)
パシャ、パシャと、俊樹はノートの全ページをスマートフォンで撮影していく。
その後、書斎のパソコンの前に座り、撮影した画像をモニターに映し出した。
(俺には一次研究を行うような泥臭い能力はない。だが、この素朴な言葉を『権威ある学術用語』に翻訳する能力なら誰にも負けない)
俊樹はネットの学術辞書や現代思想のデータベースを開き、紬の言葉を次々と変換していく。
「『光の死角』は……そうだな、『不可視領域』にしよう」
「『見落とされがちな弱者への眼差し』は……よし、『スペクタクルの周縁倫理』だ」
カタカタとキーボードを叩く音が、深夜の部屋に響く。
難解なカタカナ語や専門用語でコーティングされた文章は、元の温かみを完全に失い、冷たく高尚な現代アートの批評理論へと姿を変えていった。
「完璧だ。この『スペクタクルの周縁倫理』を引っ提げて学会に臨めば、俺は次世代のメディア倫理学者として不動の地位を築ける」
俊樹は画面を見つめながら、卑小で滑稽な笑みを漏らした。




