第7話 出会い
秋の風が冷たい閑静な住宅街。鰐淵俊樹は一人、絶望に打ちひしがれながら歩いていた。
(どうして俺がこんな目に遭わなければならない。俺は選ばれた人間のはずだ)
だが、その名声の基盤は、すべて妻である紬の才能を盗み出した砂上の楼閣だった。
自身の破滅の足音が迫る中、俊樹の心は、あの出会いの頃へと遡っていく。
+++
六年前。
静之宮大学文学部の重厚な赤レンガ造りの旧棟。
俊樹は、薄暗い廊下を重い足取りで歩いていた。
彼は羽衣大学大学院で博士後期課程まで進んだものの、これといった学術的成果を出せず、研究に行き詰まっていた。同期や後輩が次々と画期的な論文を発表して評価されていく中、彼にあるのは「自分にはオリジナリティがない」という強烈な劣等感だけだった。
なんとか飲み友達の薄いつてをたどり、この伝統ある静之宮大学の文学部助手のポストに潜り込むことには成功したが、任期切れの足音は確実に近づいていた。
(何か、何か目新しいテーマはないのか……。このままでは俺の研究者生命は終わってしまう)
焦燥感を胸に秘めながら、俊樹は九重宗一郎教授の部屋のドアをノックした。
「入りたまえ」
重低音の声に促され、俊樹は愛想の良い笑顔を貼り付けて入室する。
白髪をオールバックにした九重教授は、革張りの椅子に座り、一冊の薄い本を開いていた。
「九重先生、次回の講義資料をお持ちしました」
「ご苦労。……鰐淵くん、少しこれを見てくれないか」
九重が机の上に置いたのは、素朴なタッチで描かれた自費出版の絵本だった。表紙には『ちいさなガラスのとり』、作者名に「むぎ」と記されている。
「絵本、ですか?」
「うむ。孫へのプレゼントにね。書店の隅で見つけたんだ。作者は全くの無名だが、ここには本質的な人間の倫理が描かれている」
九重は感心したように目を細めた。
「体が透明なガラスでできた小鳥が、触れ合う相手の体温や痛みを感じるたびに、体に小さく美しいヒビが増えていく……。痛みを分かち合い、心の傷を受け入れることで自我を形成し、さらに他者を愛するということ。見事な現象学的な他者論の具現化だよ」
俊樹は適当に中身をパラパラと捲り、愛想笑いを浮かべながら相槌を打った。
「ええ、素晴らしいですね。まさに道徳律の美しい寓話です」
(なんだこの甘っちょろい善人趣味は。老いぼれの童話趣味に付き合わされるこっちの身にもなってくれ)
内心ではそう嘲笑していた俊樹だったが、九重は鋭い視線を彼に向けた。
「鰐淵くん。君の書く論文は、海外の最新トレンドやカタカナ語は綺麗に並んでいるが、どこか上滑りしているように感じる。この絵本のような、血の通った『人間味』や『他者への痛み』が決定的に欠けているのだよ。学問の誠実さとは、そういう本質的な問いからしか生まれない」
「……肝に銘じます」
俊樹は神妙な顔で頭を下げたが、内心の苛立ちは頂点に達していた。
(誠実さだの本質だの、そんな地味なことで評価される時代じゃないんだよ!俺に必要なのは、メディア受けするキャッチーな『新しい思想』なんだ!それさえあれば……)
+++
同じ頃、都内のデザイン事務所でアシスタントとして働く一人の女性がいた。
名を紬といった。飾り気のない生成りのリネン服に身を包み、黙々と装丁のレイアウト作業をこなす彼女は、職場でも目立たない存在だった。
だが、彼女の鞄の中には常に手漉き和紙のノートが入っていた。
紬は仕事の合間や休日の静かな喫茶店で、そのノートに言葉のゆらぎや哲学的な問いを丹念に書き留めることを日課としていた。
(テクノロジーがどれほど発達して便利になっても、表現の根底には他者への痛みや温もり、人間味といった倫理が必要不可欠なはずだわ)
その信念のもと、彼女は「むぎ」というペンネームで、優しいタッチの絵本を自費出版し続けていた。
しかし、世間の風は冷たかった。
学生時代、純粋に人の心のぬくもりを信じて制作した作品を、現代アート界隈のシニカルな批評家に「浅はか」「時代遅れのヒューマニズムだ」と鼻で笑われた傷が、彼女の心には深く残っていた。
世間的には「売れない無名作家」。自分の素朴な言葉が誰かに届く日が来るのだろうかという不安を抱えながらも、紬は決して筆を折ることなく、独自の表現論と思索を深め続けていた。
+++
秋の深まりを感じるある日。
静之宮大学の学内カフェは、昼下がりの学生たちで賑わっていた。
大学院時代の恩師に挨拶をするため、母校を訪れていた紬は、コーヒーの入った紙コップを手に、空いている席を探して歩いていた。
一方の俊樹も、そのカフェの隅の席で頭を抱えていた。
パソコンの画面には白紙のドキュメントが広がっている。
(駄目だ、何も思い浮かばない。一次研究の泥臭いフィールドワークなんて俺には向いてない。どっかからアイデアが降ってこないだろうか……)
苛立ち紛れに席を立とうとした俊樹は、通路を歩いてきた紬と不意にぶつかってしまった。
「あっ!」
「痛っ……申し訳ありません」
紬の手から紙コップが滑り落ち、同時に小脇に抱えていた数冊の絵本と、手漉き和紙のノートが床に散乱した。
「こちらこそ、前を見ていなくて」
俊樹は慌てて床にしゃがみ込み、散らばったものを拾い集めようとした。
その時、開いた状態で落ちていたノートのページが、俊樹の目に飛び込んできた。




