第6話 キャンパスからの逃走
学食ラウンジの喧騒は、もはや制御不能な熱狂へと変わっていた。
「おい、わざわざ何十ギガもデータ落とさなくていいぞ!有志がもう検索用のミラーサイト作ってる!」
「マジで!?仕事早すぎだろ!」
「すげえ、これならスマホからでも一発で調べられるじゃん!」
俊樹の耳に飛び込んできたのは、死刑宣告にも等しい言葉だった。
世界中の野次馬やエンジニアによって、メールアドレスや本名を入れるだけで、その人物の購入動画履歴が即座に閲覧できる検索ミラーサイトが次々と作られ、SNSは完全なお祭り騒ぎに発展していたのだ。
(け、検索サイトだと……?)
「あ、あぁ……」
俊樹の口から、情けない呻き声が漏れた。
(終わりだ。俺の輝かしいキャリアが、俺の高尚な倫理学が、下劣な文字列と共に全世界に晒されるだと……!)
「なあ、これ面白すぎない?知ってる奴の名前入れてみようぜ!」
すぐ近くのテーブルで、男子学生が悪魔のような提案をした。
「いいね!まずはウザい教授陣からいくか。ほら、いつも偉そうに倫理とか語ってるあの先生とかさ」
「あー、先端学部の鰐淵先生?メディア出てるし、もしあんなお堅い人がエグい動画買ってたら超ウケるんだけど!」
「よし、入れてみるわ。ワニブ……」
ビクッと、俊樹の肩が大きく跳ねた。
(やめろ……検索するな!頼む、やめてくれ!)
学生がスマートフォンのキーボードをタップする音が、俊樹の耳には死へのカウントダウンのように響いた。
もし今、目の前で自分の名前が検索され、あの恥ずかしい性癖リストが学生の画面に表示されたら。彼らはどういう反応をするだろうか。爆笑し、スクリーンショットを撮り、たちまち学内中に拡散するに違いない。尊敬を集めていた若き准教授の虚像は、一瞬にして地に堕ちる。
「あ、あれ……鰐淵先生……?」
不意に、別の学生が自販機の陰に立つ俊樹の姿に気がついた。
俊樹は限界だった。学生に自分の名前を検索される前に、ただ黙って大学を後にした。
「先生?どうしたんですか、顔真っ青ですよ」
声をかけられたが、返事をする余裕などない。俊樹は逃げるようにラウンジを飛び出し、講義の資料もそのままに、キャンパスの出口へと向かって小走りから全力に変わり、走り出した。
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(ハァッ……ハァッ……ハァッ……!)
秋の高く澄んだ空の下、ケヤキ並木が続く静之宮大学のキャンパスを、俊樹はなりふり構わず走り抜けた。
行き交う学生たちが、血相を変えて走る若き准教授を不思議そうに振り返るが、今の彼に体面を気にする余裕は微塵もなかった。額からは脂汗が滝のように流れ落ち、仕立ての良いアンコンジャケットは乱れきっている。
(逃げなきゃ……。早くこの場から逃げないと……!)
どこへ逃げればいいというのか。ネット上に公開された情報は、世界中どこにいても俊樹を追い詰める。しかし、今はとにかく誰の目にも触れない場所に隠れたかった。
大学の正門を抜け、閑静な高級住宅街へと続く道を足早に歩いていたその時。
――ブルルルッ!
スーツのポケットの中で、スマートフォンがけたたましく振動した。
「ひっ!」
俊樹は短い悲鳴を上げ、ビクンと体を震わせてその場に立ち止まった。
(なんだ!?大学からか?九重学部長か?それとも、もう俺の秘密を知った学生からか!?)
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。恐る恐るポケットからスマートフォンを取り出し、ひきつった目で画面を覗き込んだ。
表示されていたのは、妻の紬からのメッセージ通知だった。
(……紬?)
俊樹は荒い息を吐きながら、メッセージのアプリを開いた。
『今夜は冷えるから、夕飯はホワイトシチューにしようと思うのだけど、早く帰れそう?』
画面に並んだ、あまりにも日常的で平和な言葉。
それを見た瞬間、俊樹の頭の中が真っ白になった。
(シチュー……?シチューだと……?)
自分の社会的地位が、名声が、そして間近に迫っていた教授昇格という未来が、今まさに音を立てて崩れ去ろうとしているというのに。自分がどれほどの地獄の釜の底でもがいているかを知りもしない妻は、呑気に今夜の夕食の心配をしている。
その圧倒的な温度差が、俊樹の孤独感をさらに際立たせた。
「ふざけるな……。何がホワイトシチューだ……っ!俺の頭の中はすでに真っ白だ!」
俊樹はギリッと奥歯を噛み締め、スマートフォンを強く握りしめた。
妻にこの事態を相談できるはずもない。「自分は裏で女子大生との不倫動画を買い漁っていた」などと、どうして言えるだろうか。
自分は常に選ばれた人間であり、妻の才能を搾取してまで築き上げた虚飾の城の主だったはずだ。それが今、自らの卑小な欲望のせいで、音を立てて崩れ去ろうとしている。
「どうして……どうして俺がこんな目に……。俺はただ、大人の嗜みを楽しんでいただけなのに……」
誰にぶつけることもできない怒りと絶望に塗れながら、俊樹はただ一人、誰もいない住宅街の道端で項垂れるしかなかった。




