第5話 全世界公開
あの大規模なサイバー攻撃のニュースが世間を騒がせてから、一週間が経過していた。
静之宮大学・先端メディア共創棟の准教授室で、鰐淵俊樹は優雅に深煎りのコーヒーを口に運んでいた。
「やはり、俺は運がいい。底辺の連中の悪ふざけなど、俺の完璧な人生を脅かすには至らない」
俊樹は革張りのソファに深く腰掛け、満足げに鼻を鳴らした。
ハッカーがダークウェブで個人情報を売り出してから一週間が経ったが、結局のところ買い手は現れなかった。データ量が膨大すぎる割に、クレジットカードの決済情報そのものが含まれていなかったため、誰も手を出さず入札がゼロで終わったのだ。
一時は、三億円もの資金を集めるクラウドファンディングが立ち上がり、自分の情報が買われてしまうのではないかと気をもんでいた俊樹だったが、それも完全に頓挫した。SNSでのお祭り騒ぎも数日で鎮火し、今やすっかり落ち着きを取り戻している。ネットの住人たちは、もうみんながこの事件を忘れかけていた。
(所詮は一時の熱狂だ。誰も三億円なんて大金を出して、他人の性癖リストを買う物好きはいなかったというわけだ)
俊樹は心底安堵し、勝利の美酒に酔うような気分だった。
彼が守るべき「若き准教授」としての地位も、間近に迫った教授への昇格も、何一つ傷つくことなく保たれている。
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午前の講義を終え、俊樹が准教授室を出て廊下を歩いていると、前方から重厚な気配が近づいてきた。
白髪をオールバックに撫で付け、銀縁の丸眼鏡をかけた威厳ある佇まい。伝統的な文学部出身で、新設学部の初代学部長を務める九重宗一郎だった。
「おお、鰐淵くん。丁度良かった」
「九重学部長。お疲れ様です」
俊樹は即座に背筋を伸ばし、人当たりの良い完璧な笑顔を作って一礼した。
「君もニュースで見ただろうが、例の低俗なネットの騒ぎも、ようやく落ち着いたようだな。まったく、他人のプライバシーを面白半分で売り買いしようとするなど、現代のデジタル空間はいかに倫理が欠如しているかという証左だ」
カントなどの古典的人間論を絶対的な規範とする老教授は、苦々しい顔でそう吐き捨てた。
「仰る通りです、学部長。テクノロジーの進化に人間の道徳が追いついていない。あれはまさに『模倣された共感』すら持ち合わせない、情報の暴力と呼ぶべき現象です」
俊樹が、妻の紬から盗んだアイデアをそれらしい学術用語でコーティングして返すと、九重学部長は深く頷いた。
「うむ。だからこそ、君のように本質的な哲学を持ち、メディアを通じて正しく発信できる人材が我が学部には必要なのだ。来月の、新設学部開設記念シンポジウム……君の教授昇格を決定づける校内最終選考プレゼンでもある。大いに期待しているよ」
「身に余る光栄です。ご期待に沿えるよう、準備を進めております」
「頼んだぞ。我が学部の看板である君には、あのような低俗なスキャンダルなど無縁だろうから、私も安心して任せられる」
九重学部長はそう言って、俊樹の肩をポンと叩き、歩み去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俊樹は内心でガッツポーズをした。
(よし……!学部長からの絶大な信頼は揺るいでいない。あの事件が風化した今、俺の教授昇格は完全に盤石だ!)
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昼休み。
足取りも軽く、俊樹はメディア共創棟の開放的な学食ラウンジへと向かった。
すれ違う学生たちに爽やかな笑顔を振りまきながら歩いていたが、ふと、周囲の空気が妙にざわついていることに気がついた。
「おい、これマジかよ……」
「うわ、頭おかしいだろあのハッカー!」
「やばいやばい、これ完全なテロじゃん!」
昼休みの休憩中だというのに、食堂でスマートフォンを見る学生たちが、異様な熱気と共に急に騒がしくなっていた。
先週までの、どこか他人事の面白半分の空気とは違う。もっと直接的で、暴力的な興奮が満ちている。
(なんだ……?何が起きている?)
不穏な空気を感じ取った俊樹は、自動販売機の陰に立ち止まり、近くの学生たちの会話に聞き耳を立てた。
「買い手がつかなかったからって、逆ギレして全部タダでバラ撒いたらしいぞ!」
「マジで!?じゃあ誰でも見放題ってこと?」
「ああ。北欧のクラウドサイトとか、海外の匿名ストレージに全データ無料公開だってよ!」
その瞬間、俊樹の心臓がドクンと嫌な音を立てて大きく跳ねた。
「……無料、公開だと?」
俊樹は震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、慌ててSNSの画面を開いた。
タイムラインは、先週とは比べ物にならないほどのパニックと狂騒に包まれていた。
学生たちの言う通りだった。ハッカーの『玄武』は、ダークウェブでのオークションに入札が一切なかったことで、運営に無視された上に金にもならず、プライドを激しく傷つけられたらしい。
そして、個人情報の買い手が現れなかったことにやけくそになり、海外のサイトに『ムフフな動画王国』のテラバイト級の全データを無料で公開してしまったのだ。
「ば、馬鹿な……。そんなこと、一円の利益にもならないじゃないか……!」
俊樹の顔面から、スッと血の気が引いていくのが分かった。顔面は文字通り蒼白になっていた。
金目的のハッカーが、金にならない嫌がらせに走るなど、俊樹の浅はかな計算には全く入っていなかった。
「おい、俺もうデータ落とせたぜ!圧縮ファイルで数十ギガあるけど」
「マジ!?ちょっと中身見てみようぜ!」
「うわ、すげえ。メールアドレスと本名と、購入した動画のタイトルが全部リストになってる!」
すぐ近くのテーブルから聞こえてきた学生の声に、俊樹は息を呑んだ。
終わった。
完全に終わった。
今まさにこの瞬間、世界中の誰もが、自分の本名と、あの『既婚ベテラン教師。清楚な教育実習生を寝取る背徳録』などという恥ずかしい不倫・浮気系動画の大量の購入履歴を、無料で閲覧できる状態になってしまったのだ。
(おしまいだ……。俺の、俺の人生が……!)
足元がぐらりと揺れた。
つい数分前まで確信していた「若き准教授」としての輝かしい未来も、学部長からの期待も、教授昇格への切符も、すべてが指の間からサラサラと零れ落ちていく感覚に、俊樹はただ口をパクパクとさせることしかできなかった。




