第4話 リスト販売開始
講義が終わるや否や、鰐淵俊樹は逃げるように大講堂を後にした。
秋口だというのに、仕立ての良いアンコンジャケットの下は嫌な汗でべったりと張り付いている。准教授室へと続く廊下を早足で歩きながら、彼は何度目かも分からない深呼吸を繰り返した。
「鰐淵先生」
不意に背後から声をかけられ、俊樹はビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、地味なスーツに身を包んだ実証派の同僚、御子柴怜准教授が立っていた。分厚い洋書を小脇に抱え、鋭い視線を俊樹に向けている。
「み、御子柴先生……。お疲れ様です。何か御用でしょうか?」
「いえ、大したことではありません。ただ、ネットでの騒動が随分と大きくなっているようですね。あの有料動画サイトの情報漏洩事件です」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。俊樹は口角を引きつらせながら、必死に平静を装う。
「ああ、ええ。ネットのニュースで見ました。困ったものですね」
「ええ、全くです。企業側のセキュリティ意識の低さもさることながら、ハッカーが情報を人質に取って大衆を煽る構造。まさに、先端メディアの倫理的欠陥を表す格好のケーススタディですね」
「……」
「次回の『メディア・エシクス』の講義では、個人の尊厳が売買されるこの事件を扱うのですか?我がユニバーシティを代表する先生の鮮やかな切り口を、ぜひ拝聴したいと思いまして」
御子柴の言葉には、あからさまな皮肉が混じっていた。
(うるさい!こっちはそれどころじゃないんだ!そんな事件を取り上げたら、俺自身がバイバイユニバーシティになってしまうだろうが!)
内心のパニックを隠し、俊樹は曖昧な作り笑いを浮かべた。
「ええ、まあ……。非常に興味深い事象ではありますが、まだ情報が錯綜していますからね。確かな事実が出揃ってから、検討しておきましょう」
「そうですか。先生の『不可視の傷痕』理論が、現実の被害者たちにどう適用されるのか楽しみにしております。では、失礼します」
御子柴が静かな足音を立てて去っていく。
その後ろ姿を睨みつけながら、俊樹はギリッと奥歯を噛み締めた。
(実証派の堅物め。もし俺の名前が漏れたら、あいつは真っ先に俺を嘲笑うに違いない。絶対に、絶対にバレるわけにはいかないんだ……!)
+++
その日の夜。
閑静な高級住宅街にあるデザイナーズマンションに、俊樹は疲労困憊で帰宅した。
普段なら外で酒を飲んで帰るところだが、今日は真っ直ぐ帰らざるを得なかった。誰かと会話をする余裕すら残っていなかったからだ。
「あなた、おかえりなさい」
リビングに入ると、妻の紬がダイニングテーブルに座っていた。生成りのリネン服を着た彼女の手元には、いつもの手漉き和紙のノートが開かれている。
紬の視線の先にある壁掛けテレビでは、ネットのサイバー攻撃に関するニュースが静かに流れていた。
「あなた、ネットで大きな情報漏洩があったみたいね。さっきからニュースでずっとやっているわ」
「……ああ。みたいだな」
俊樹はネクタイを乱暴に緩めながら、短い返事だけを返した。
「被害に遭った人たちは大丈夫かしら。個人の大切な情報を盗まれて、それが公の場に晒されるかもしれないなんて……。個人的な秘密を暴かれて、どれほど怖い思いをしているかと思うと、胸が痛むわ」
純粋に他者を思いやる紬の言葉が、今の俊樹には自分を責める刃のように聞こえた。
(綺麗事を言うな!怯えているのは俺なんだよ!お前のその甘っちょろい善人趣味が、今は無性に腹立たしい!)
「自業自得の連中だ!俺たちには何の関係もないだろう!」
不意に怒鳴り声を上げた夫に、紬は驚いたように目を丸くした。
「どうしたの?そんなに大きな声を出して……」
「うるさい!俺は疲れているんだ。どうでもいいくだらないニュースの話なんてするな!」
俊樹は紬を睨みつけると、足早にリビングを抜け出し、自分の書斎へと逃げ込んだ。
重厚なマホガニーのドアを背中で閉め、鍵をかける。
静まり返った書斎の暗闇の中で、俊樹は革張りのチェアに崩れ落ちた。
(関係ない……そうだ、関係ないはずなんだ。あのサイトが俺を見捨てるはずがない……それに警察も動いているはずだ。公開される前に犯人が捕まればいいんだ)
保身しか頭にない自分と、見ず知らずの他者の痛みに寄り添う妻。
その決定的な倫理観のコントラストに気づく余裕すらなく、俊樹はただ震えながら夜を明かした。
+++
さらに翌日。
俊樹の僅かな希望は、無残にも打ち砕かれた。
准教授室でスマートフォンを開いた俊樹の目に飛び込んできたのは、絶望的な見出しだった。
『ハッカー集団の玄武、ムフフの個人情報をダークウェブで販売開始』
(……売り!?運営との交渉を諦めて、ついにデータを売りに出したのか!?)
ハッカーはダークウェブでエロサイトの個人情報を売り始めた。
記事を読み進めると、そこには信じられない数字が並んでいた。
値段は二百万ドル(三億円)相当の暗号通貨らしい。
「さ、三億円……?いくらテラバイト級のデータとはいえ、そんな大金を出して個人の性癖リストを買う物好きがいるわけがない……!」
俊樹は震える声で呟いた。だが、ネット上のSNSを開くと、そこには彼の予想を超える狂騒が渦巻いていた。
SNSでは、この漏洩で困るであろう人が俊樹以外にもたくさんいると話題になり、大盛り上がりを見せていた。
「おい、三億円だってよ!誰か買ってくれー!」
「政治家とか芸能人のリストが含まれてたら、余裕で元が取れるんじゃね?」
「よし、みんなで金出し合って買おうぜ!クラファン立ち上げるわ!」
(クラウドファンディングだと……!?)
なんと、一部の悪ノリしたネット民たちが、この情報を買うためのクラウドファンディングまで立ち上げていたのだ。
冗談か本気か分からない狂気だった。だが、面白半分で一万円、二万円と寄付をする匿名のアカウントが後を絶たない。
「頭がおかしい……!こいつら、犯罪に加担している自覚がないのか!?」
俊樹はスマートフォンをデスクに叩きつけた。
世間は完全にこの炎上を楽しんでいる。他人の不幸を娯楽として消費する、悪意の連鎖。
もし本当に三億円が集まってしまったら?
もしどこかの物好きな富裕層が面白半分でリストを買い取って、ネットにばら撒いてしまったら?
(おしまいだ……。俺が積み上げてきた全てが、こんな下らないことで崩れ去る……!)
情報が信用できるはずもなく、俊樹はただ自分の名前が表に出ないことを祈るしかできなかった。
スタイリッシュなデザイナーズ家具に囲まれた准教授室で、若き倫理学者は一人、頭を抱えて低く呻き声を上げた。今後の予想もつかない展開に、彼は完全に途方に暮れていた。




