第3話 ハッカーの脅迫
「おい、見たか?あのハッカー、またSNSで声明出してるぞ!」
「マジで?うわ、本当だ。完全に実況中継じゃん」
静之宮大学・先端メディア共創棟のラウンジは、朝から異様な熱気に包まれていた。
全面ガラス張りの開放的な空間には、講義前の学生たちが三々五々に集まっている。普段なら課題の進捗や就職活動の話題で持ちきりになるはずの彼らだが、今日ばかりは全員が一つの話題に釘付けになっていた。
「あの『ムフフな動画王国』にハッキング仕掛けた奴だろ?『玄武』って名乗ってるらしいぜ」
「ダッサ。でもやってることはエグいよな。ユーザーの個人情報丸ごとブッこ抜いて、運営に身代金要求してるんだろ?」
「そうそう。今、匿名アカウントで『運営が誠意を見せないなら、全会員の本名と購入履歴を暴露する』ってカウントダウンを始めてる」
「エッグ!そんなの公開されたら、買ってた奴ら社会的に死ぬじゃん!」
「まあ、俺たちには関係ないけどなー。あそこ、高級志向で動画一本の値段が異常に高いから、使ってるのって金余らせてるオッサンか、よっぽどの性癖持ちだけだろ」
「絶対見たいわー。政治家とか芸能人とかがエグい性癖持ってたら最高に笑えるよな」
学生たちがスマートフォンを覗き込み、ゲラゲラと下世話な笑い声を上げている。
ムフフを利用していなかった彼らにとって、この前代未聞の個人情報漏洩事件は対岸の火事であり、格好の暇つぶしのネタに過ぎなかった。
しかし、その歓談の輪から少し離れた自動販売機の陰で、鰐淵俊樹は一人、激しい動悸に襲われていた。
(笑い事じゃない……!こいつら、事の重大さが全く分かっていない!)
仕立ての良いアンコンジャケットの背中は、すでにびっしょりと冷や汗で濡れていた。
俊樹のスマートフォンにも、学生たちが見ているのと同じSNSの画面が表示されている。
ハッカーは匿名SNSで犯行声明を出し、状況を実況し始めていた。確かに身代金を要求する脅迫文と、運営側への挑発がリアルタイムで書き込まれている。
「個人情報を餌にして、要求額は五百万ドル……約七億五千万円だと?」
俊樹は震える指で画面をスクロールした。
(ムフフよ頼む、払ってくれ!七億だろうが十億だろうが、さっさとハッカーに金を払って解決してくれ!)
俊樹はこれまでに、エロサイトに大金を落としてきた。購入した百本以上の動画は全て、『隣の若妻と交わした禁断の誓い』や『新婚初夜の裏切り』といった、自分の立場や世間体からは到底考えられない、ディープな不倫・浮気系のジャンルばかりだ。
もしハッカーが脅迫通りに情報を暴露し、自分の本名とそんな恥ずかしい購入履歴が全世界に公開されたらどうなるか。
(俺は先端学部の准教授だぞ……。メディアにも顔を出して、高尚な倫理学を語っているんだ。そんな俺が、裏で人妻との不倫モノを買い漁っていたと知れたら、教授昇格どころか、大学に居られるはずがない……!)
九重学部長の軽蔑しきった顔が脳裏を過る。
理事会の厳しい追及。
学生たちの侮蔑の眼差し。
そして、全てを失って路頭に迷う自分の姿。
「ひっ……!」
想像しただけで喉が干上がり、短い悲鳴が漏れそうになる。
俊樹は慌てて口元を覆い、自分を笑い飛ばしているかのように響く学生たちの声から逃れるように、足早にラウンジを立ち去った。
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「――したがって、このケースにおける情報発信者の責任は……」
午前中の講義。大講堂の教壇に立つ俊樹は、口から自動的に学術用語を紡ぎ出しながらも、頭の中は完全に別のことで占められていた。
(ハッカーと運営の交渉はどうなった?もう一時間以上経っている。そろそろ決着がついたはずだ)
学生たちがノートパソコンの画面に向かっている隙を突き、俊樹は教卓の陰でこっそりとスマートフォンを取り出した。
講義の休憩のたびに、ネット上の情報は次々と更新されていく。震える指でSNSの画面をリロードする。
タイムラインの一番上に、『玄武』の新しい投稿が表示された。
『ムフフな動画王国の運営は、我々の要求を完全に拒否した』
「……なっ!?」
俊樹は思わず声を上げそうになり、咄嗟に咳払いをして誤魔化した。
最前列の女子学生が不思議そうな顔を向けたが、俊樹はそれに構う余裕すらなく、画面に釘付けになった。
『彼らは顧客のプライバシーよりも、自分たちの懐を守ることを選んだようだ。愚かな選択だ。交渉は決裂した』
(ば、馬鹿な!要求を断っただと!?)
俊樹の視界がぐにゃりと歪んだ。
(お前ら、それでもセキュリティとプライバシーを売りにしてきた企業か!会員の人生が懸かっているんだぞ!高い金を取って『プライバシー厳守』を謳っていたくせに、いざという時に七億すらケチるなんて詐欺じゃないか!俺のような上客を見捨てる気か!)
怒りと絶望がない交ぜになり、胃袋がギリギリと締め付けられる。
さらにタイムラインを追うと、ネット民たちの無責任な歓喜の声が溢れ返っていた。
「うおおおおお!運営突っぱねた!祭りの始まりだあああ!」
「エロに屈服させる側は、テロには屈しないってか?ぎゃはは」
「ハッカーさん、早くデータ見せてください!有言実行頼む!」
(やめろ……!焚きつけるな!これは犯罪だぞ!他人のプライバシーを面白半分で覗き見ようとするなんて、お前らに倫理観はないのか!)
講義で『不可視の傷痕理論』などと高尚な言葉を振りかざし、妻のアイデアを盗んでまで名声を築き上げてきた俊樹だったが、いざ自分が傷を負う立場になると、気が気ではなくなり、完全に講義どころではなくなっていた。
「先生?次のスライドをお願いします」
学生の声にハッと我に返る。
「あ、ああ、そうですね。次に行きましょう」
俊樹は引きつった笑顔を浮かべ、震える手でパソコンのマウスを操作した。
しかし、スクリーンに映し出された文字は全く頭に入ってこない。
(どうなる?これからどうなるんだ?ハッカーは本当に情報を公開するのか?それとも別の要求を突きつけるのか?)
今後の予想できない展開に対して、俊樹には防衛するすべもなかった。
講義中だというのに冷や汗が止まらず、息をするのすら苦しい。
(助けてくれ……誰か、この悪夢を終わらせてくれ……!)
教壇の上から見下ろす学生たちの無邪気な顔が、いつか自分を嘲笑う悪魔の顔に変わるのではないかという恐怖に苛まれながら、俊樹はただなす術もなく途方に暮れていた。




