第2話 個人情報漏洩ニュース
夜。静之宮大学からほど近い、閑静な高級住宅街。ケヤキ並木沿いに建つデザイナーズ低層マンションの一室に、鰐淵俊樹は帰宅した。
ここは俊樹が「若き准教授」という世間体と見栄のためだけに無理をして選んだ物件である。
「ただいま」
「おかえりなさい」
リビングでは、妻の紬がダイニングテーブルに向かっていた。生成りのウール製カーディガンを羽織り、ほぼノーメイクの彼女は、手漉き和紙のノートにペンを走らせている。
俊樹は手にした紙袋から、スタイリッシュな箱を取り出してテーブルに置いた。
「これ、今日のシンポジウムで配った余りだ。『影浦クラフトクラッカー&エシカルスイーツ』。環境配慮型素材を使っているとかで、メディア受けが良いんだよ」
「ありがとう。後でいただくわ」
紬は短く礼を言い、すぐにノートへと視線を戻した。
俊樹は鼻を鳴らし、妻の肩越しにノートを覗き込む。そこには、森の住人たちが不思議な手紙をやり取りする童話の草稿が書かれていた。
「またそんな落書きをしてるのか。いい加減、現実を見たらどうだ? お前の描く甘っちょろい善人趣味じゃ、一円にもならないぞ」
俊樹の冷笑に対し、紬は静かに顔を上げた。
「私はお金のために描いているわけじゃないわ。……このお話の中ではね、読んだ瞬間に文字が消えてしまうインクでお手紙を書くの」
「消えるインク? 馬鹿馬鹿しい。データとして永続しないものに価値なんてない。現代は情報の時代だぞ」
「そうね。でも、手紙が残らないからこそ、受け取った相手は言葉や表情を深く心に刻み込もうとするわ。記録として保存されることと、記憶に残り続けることは別物よ。忘れ去られることへの恐れを手放すからこそ、想いは永遠になるの」
紬の何気ない言葉に、俊樹の脳内でスパークが走った。
(記録に残らないからこそ、記憶が永遠になる……? 待てよ、この発想を『スナップチャット』などの消滅型メディアや、『GDPR(忘れられる権利)』の議論にすり替えればどうなる? 『完全記録社会における忘却の尊厳』として、『エフェメラル・アーカイブの現象学』というタイトルで一本論文が書けるじゃないか!)
俊樹は「くだらん」と吐き捨てながらソファに腰を下ろし、自身のスマートフォンを取り出して素早くそのアイデアをメモ帳に打ち込んだ。
(お前の幼稚な落書きを、俺が一流の学術理論に昇華させてやってるんだ。感謝しろよ)
妻を見下しながら、その才能に寄生して自身の名声を築いているという自覚は俊樹には全くない。
紬は、スマホをいじる夫の背中を静かな瞳で見つめていた。
彼女はかつて、温かい家庭や子供を持つことを望んでいた。しかし俊樹は「今は先端学部の立ち上げ期で極めて重要な時期だ」「教授昇格が決まって研究基盤が盤石になってから」と言い訳を重ね、先送りにし続けてきた。
実際は、自身の昇進と世間体、そして遊びへの散財を最優先し、育児コストを嫌っただけなのだが、紬はそれを黙って受け入れている。夫婦の間に、かつての愛情はすでに存在していなかった。
+++
翌日。静之宮大学の准教授室。
講義の合間の空き時間、俊樹はいつものように淹れたてのコーヒーを片手に、スマートフォンでネットニュースを眺めていた。
ふと、IT・セキュリティのカテゴリにあった大々的な見出しに目が止まる。
『大手有料アダルト動画サイト、大規模なサイバー攻撃で会員情報が漏洩か』
「……は?」
持っていたコーヒーカップが小さく揺れた。記事をタップする指が僅かに震える。
記事には、サイト名こそ伏せられているものの、「過去の名作揃い踏み」「高セキュリティを謳う高級サイト」と書かれている。間違いない。『ムフフな動画王国』だ。
(嘘だろ……)
記事によれば、クレジットカード情報こそ無事だったものの、ユーザーID、登録メールアドレス、氏名、そして「購入・ストリーミング再生履歴の全ログ」が盗まれたらしい。
「ば、馬鹿な! あそこはプライバシー厳守が売りのサイトだったはずだぞ!」
俊樹は慌てて個人のメールボックスを開いた。
受信トレイには、昨夜の深夜に送られた一通のメールがあった。差出人は『ムフフな動画王国』サポートセンター。
『外部からの不正アクセスに関するお詫びとパスワード変更のお願い』
本文には、「一部のサーバーに外部からの不正アクセスを検知・遮断しました。二次被害防止のためパスワード変更をお願いします」という、定型文のそっけない文章が並んでいるだけだった。
「これだけか?ふ、ふ、ふ、ふざけるな!!」
俊樹はスマホをデスクに放り投げた。
(俺の購入履歴が漏れたってことか? 『教え子の誘惑に負けた既婚教授』だの『背徳のPTA役員会』だの、あんなディープな不倫モノや浮気モノのタイトルが、俺の本名と紐付いて盗まれたとでもいうのか?)
想像しただけで血の気が引いた。もし自分の名前と購入履歴が公になり、そんな恥ずかしい性癖が世間にバレたら、学生や同僚に顔向けできず大変なことになる。
古典的で厳格な九重学部長の顔が浮かぶ。不祥事には容赦のない理事会の目もある。教授昇格目前の今、そんなスキャンダルが出れば一巻の終わりだ。
俊樹は部屋の中をうろうろと歩き回った。
しかし、数分後、彼はふと立ち止まり、ネクタイを締め直した。
(いや、待てよ。落ち着け。そもそもハッカーの目的はなんだ? 金だろう。こんな個人のリストなんて、世間にバラ撒いたところで一円の利益にもならないじゃないか)
そうだ、と俊樹は自分に言い聞かせるように呟いた。
(企業を脅して身代金を取るのがハッカーの常套手段だ。ムフフ側だって、顧客の信用を失えば倒産だ。裏でハッカーに金を払って、揉み消すに決まっている)
それに、流出したデータはテラバイト級だという。世界中に何百万人といる会員の中から、自分の名前がピンポイントで掘り起こされる確率など、天文学的な数字だ。
「そうだ、大丈夫だ。ハッカーはそんな利益にならないことはしない。俺は運がいい人間なんだ。こんなところで足元をすくわれるわけがない」
俊樹は大きく深呼吸をし、鏡に向かっていつもの爽やかな「若き准教授」の笑みを作って開き直った。
「まったく、人騒がせなニュースだ。俺には関係のない世界の話だよ」
そう嘯いて、彼は次の講義の資料を手に取った。
しかし、その強がりの裏側で、彼の胃の腑には冷たい鉛のような不安が重く沈んだままだった。この情報漏洩が、己の虚飾に満ちた人生を根底から破壊する真の地獄の序章に過ぎないことを、この時の俊樹はまだ知る由もなかった。




