第1話 秘密の趣味
「現代におけるデジタルタトゥーは、単なる情報の残骸ではありません。それは不可逆的な生の痕跡――私はこれを『不可視の傷痕』と定義しています」
静之宮大学の大講堂。大正期に建てられた重厚なレンガ造りの空間で、ステンドグラスから差し込む光を背に受けて、鰐淵俊樹は教壇から学生たちを見下ろしていた。
アイロンの効いたオーダーメイドのシャツに、仕立ての良いアンコンジャケット。洗練された身なりの若き准教授の言葉に、満席の学生たちが熱心にペンを走らせる。
「特に生成AIがもたらす『模倣された共感の限界』について考察する必要があります。AIがどれほど巧みな共感プロンプトを出力しようとも、そこには身体性が伴っていない。つまり、擬似的な温もりでは他者を真に救済し得ないという、生命倫理の臨界点が存在するのです」
最前列に座る女子学生たちが、うっとりとした羨望の眼差しを俊樹に向けている。
(俺のプレゼンは今日も完璧だ。このもっともらしいカタカナ語の羅列で、学生やメディアを酔わせる麻薬として脳に注ぎ込んでやるよ)
俊樹は内心でほくそ笑みながら、さらに声を張り上げた。
「どれほど口当たりの良い言葉を並べても、身を削る覚悟や本物の体温、すなわち誠実さが伴わなければ、真に他者を救うことはできません」
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「……カカシ自身の体には体温がないため、誰も暖めることができない」
閑静な住宅街にあるデザイナーズマンションの一室。
自宅アトリエで、妻の鰐淵紬は手漉き和紙のノートに綴られた自作の絵本『おしゃべりなカカシとこごえる森』を静かに読み直していた。
「カカシは自らの体を崩して焚き木となり、言葉ではなく自らの身を削って森の仲間を暖める……」
飾り気のない生成りのリネン服を着た紬は、ぽつりと呟いた。
彼女が紡ぐ素朴で温かい物語の根底には、他者への痛みや人間味を重んじる深い倫理観や道徳心があった。しかし、その思索を最も身近で搾取し、薄っぺらな学術用語に変換して講義で消費しているのが、他ならぬ夫の俊樹であった。
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「先生、一つ質問してもよろしいでしょうか?」
大講堂で、眼鏡をかけた真面目そうな男子学生が挙手をした。
「構いませんよ。何でしょう?」
「AIの共感に身体性が欠如しているという点は理解できました。ですが、人間の共感自体も他者の痛みを完全にトレースすることは不可能です。先生の仰る『身を削る覚悟』とは、情報社会において具体的にどのようなアクションを指すのか、もう少し掘り下げてお聞きしたいのですが」
俊樹の口角が、ほんのわずかに引きつった。
(ちっ、面倒なところを突いてきやがって。そこから先の深い哲学なんて俺が知るわけないだろうが。それは全部、紬のノートの受け売りなんだから)
「……良い質問ですね」
俊樹は柔和な笑みを貼り付けたまま、堂々とした態度で答える。
「しかし、それは非常にカント的、かつ現象学的な古典的問いに回帰してしまいます。本講義のテーマである『メディア・エシクス』の範疇からは少し逸脱しますので、次回のゼミでディスカッションのテーマとして扱うことにしましょう」
「あ……はい、ありがとうございます」
男子学生は納得しきれない様子で引き下がった。
(ふう、危ない危ない。適当な専門用語で煙に巻いておけば、こいつらは勝手に高尚な議論だと錯覚して納得するからこれでいい)
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「相変わらず、学生受けの良い鮮やかな講義ですね、鰐淵先生」
講義を終え、准教授室の並ぶ廊下を歩いていた俊樹に、同僚の御子柴怜准教授が声をかけてきた。
「ええ。時代のニーズに応え、分かりやすく伝えるのが先端学部の使命ですから。御子柴先生も、たまには見学にいらっしゃいますか?」
「お時間があれば。ただ、私は地道な一次資料の精読で忙しいので。先生の使われる最先端なお言葉は、私には早すぎるようで……」
あからさまな皮肉だった。
「手厳しいですねぇ。しかし、私のような学部の広告塔としての役割も重要ですよ」
「ええ、仰る通りです。では失礼します」
御子柴は鋭い視線を向け、足早に去っていった。
(ちっ、頭の固い実証派め。地味なフィールドワークしかできない分際で、俺のメディア露出を嫉妬しているだけだろうが)
俊樹は舌打ちをして、自身の准教授室のドアを開けた。
室内には、俊樹が見栄で集めたデザイナーズ家具やブランド小物が所狭しと並んでいる。革張りのソファに深く腰掛け、ネクタイを乱暴に緩めた。
「はあ、疲れた。今日もそれっぽく立ち回ることが出来た。俺のイケオジ教授路線も板についてきたし。それにしても、あんな愚にもつかない質問に付き合うのも楽じゃない」
俊樹はスマートフォンを取り出し、慣れた手つきでブラウザのブックマークを開いた。画面に表示されたのは『ムフフな動画王国』という有料アダルト動画サイトだ。
「さてと、今日のストレス発散といきますか」
(妻の紬とは、教授への昇格や世間体を気にして結婚したに過ぎない。愛情なんて、とうの昔に冷めきっている)
俊樹はサイトの検索窓に『不倫』『既婚』と打ち込んだ。
(教会で神の前に愛を誓い、役所には婚姻届という公的な契約書を出した。その強固な縛りがあるからこそ、妻への裏切り行為には強烈な背徳感とスリルがある。結婚してからこんな性癖に目覚めるとはな)
画面には無数の動画サムネイルが並んでいる。
「おっ、新作が出てるじゃないか。『教え子の誘惑に負けた既婚教授〜秘密の個人講義〜』……たまらないねぇ。こっちの『真面目な人妻が理性を見失う午後2時のホテル街』も捨てがたい。どちらを買うべきか悩むところだ」
(俺は男を捨てたわけじゃない。いつでも本気を出せば、さっき最前列で俺を熱心に見ていた女子大生の一人や二人、簡単に手玉に取る自信はある)
俊樹はニヤリと笑い、画面をスクロールし続けた。
(だが、昨今のコンプライアンスは厳しすぎる。俺は倫理学の准教授だ。スキャンダルは教授昇格への致命傷になる。憧れはあるが、今はそこまで現実でリスクを冒すには代償があまりにも釣り合わない)
「今は、この動画たちで我慢するしかない。なんせ俺は賢い人間だからな。バカみたいに現実でリスクを背負うなんてことはしない」
俊樹は迷うことなく高額な動画の購入ボタンをタップした。
サイトのマイページには、すでに購入済みの動画履歴がずらりと並んでいる。その数は優に百本を超えていた。
(安全な密室から、他人の堕落を覗き見る。これが一番楽に欲望を満たせる)
誰にも知られることのない秘密の悦楽。空き時間を見つけては動画を購入し視聴する依存状態に陥っていることを、俊樹自身は「限られた大人の特権」だと信じて疑っていなかった。




