第八話 〜もう打てない〜
翌日。
昼休み。
俺は校舎裏へ向かった。
昨日と同じなら、
黒崎はここにいる。
階段を下りて、
校舎の角を曲がる。
カキン!
聞こえた。
やっぱり。
いた。
ネットの前。
黒崎大河。
一人で、
バットを振っている。
俺はすぐには声をかけなかった。
少し離れた場所から、
その姿を見る。
黒崎がボールを拾う。
軽く上へ投げる。
構える。
振る。
カキン!
鋭い打球が、
ネットへ突き刺さる。
上手い。
やっぱり、
上手い。
でも。
昨日感じた違和感。
今日は、
近いから分かる。
黒崎が、
次のボールを拾う。
左手で。
ボールを上げる。
左手でバットを握る。
そして。
振る。
カキン!
「……片手?」
思わず、
声が出た。
黒崎の動きが止まった。
ゆっくり、
こっちを見る。
「…………」
「よ」
「何してんの」
「昨日、見えたから」
「何が」
「お前が打ってるの」
黒崎は、
バットを下ろす。
「帰れ」
「分かった」
「……え?」
「いや、邪魔したし」
俺は校舎へ戻ろうとする。
昨日みたいに、
無理に聞くのは違う気がした。
「事故」
後ろから声がした。
俺は止まる。
「え?」
黒崎は、
俺を見ていなかった。
自分の右手を見ていた。
「小六のとき」
右手を開く。
指を動かす。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
途中で、
動きが鈍くなる。
「チャリで転んだ」
「…………」
「右手から地面ついて、骨と神経やった」
黒崎が、
ゆっくり手を握る。
でも。
完全には握れない。
「日常生活は普通にできる」
「うん」
「でも、強く握れない」
俺は、
地面のバットを見る。
「だから……」
「両手じゃ振れない」
黒崎が答えた。
何を言えばいいのか、
分からなかった。
俺が野球をやめたあと。
こいつに、
そんなことがあったなんて知らなかった。
「野球部は?」
少し迷って、
それだけ聞いた。
「入ろうとはした」
「したんだ」
「最初はな」
黒崎は、
ネットを見る。
「でも無理だった」
投げる。
捕る。
打つ。
野球は、
手を使う。
「監督には、できること探そうって言われた」
黒崎が言う。
「周りも気遣ってくれた」
「…………」
「でも」
少しだけ、
間が空いた。
「前と同じようにはできなかった」
それ以上、
黒崎は言わなかった。
俺も聞かなかった。
俺は。
天才じゃないと思って、
野球をやめた。
こいつは。
違う。
やめたくて、
やめたわけじゃない。
たぶん。
それだけは分かった。
「だから」
黒崎が言う。
「天才とか言われんの、嫌いなんだよ」
「…………」
「今の俺に言って、何になるんだよ」
昨日の言葉。
二度と俺を天才って呼ぶな。
ようやく、
意味が分かった。
「分かった」
俺は言った。
「もう言わない」
黒崎が、
少しだけ俺を見る。
「……そうして」
チャイムが鳴る。
昼休み終了。
黒崎が、
左手でバットを持つ。
「戻るぞ」
「先行く」
「なんで?」
「一緒に戻る意味ないだろ」
「あるだろ、同じ一年なんだから」
「クラス違うだろ」
「途中まで同じだろ」
「ウザ」
いつもの黒崎に戻っていた。
少しだけ、
安心した。
*
放課後。
「朝倉! そこ!」
「おう!」
水城先輩から、
隼人へパス。
強い。
でも。
隼人なら届く。
「よっ!」
追いついた。
そのまま隼人が、
ボールを蹴ろうとして。
「うおっ!」
空振り。
「…………」
「今のはボールが悪い!」
「ボールのせいにすんな!」
俺が叫ぶ。
奏が、
小さく笑う。
「朝倉君、走るところまではすごいのに」
「そこからもすごいから!」
「違う意味でね」
「天宮!?」
奏が正式に入部して、
部員は四人。
今日も、
二対二。
まだまだ少ない。
だけど。
少しずつ。
本当に少しずつだけど。
サッカー部らしくなってきている。
「もう一回!」
隼人がボールを拾おうとする。
その前に。
コロコロ。
ボールが、
グラウンドの外へ転がっていった。
「やべ」
ちょうどそこを、
誰かが歩いている。
「大河!」
黒崎だった。
足元に、
サッカーボールが止まる。
「ごめん!」
隼人が手を上げる。
「蹴り返して!」
「自分で取りに来い」
「遠い!」
「知らん」
俺も近づく。
「悪い大河。蹴って」
「お前もうこっち来てんじゃん」
「せっかくだし」
「何がせっかくだよ」
黒崎が、
面倒くさそうにボールを見る。
「適当でいい?」
「いいよ」
「じゃあ」
黒崎が、
一歩下がった。
そして。
右足を振った。
バンッ!!
「え?」
俺の横を、
ボールが通過する。
一直線。
そのまま。
ゴール横のネットへ、
突き刺さった。
バサッ!
「…………」
黒崎が、
ボールを見る。
俺も見る。
水城先輩が、
黒崎を見る。
「今の」
水城先輩が近づいてくる。
「君が蹴った?」
「そうですけど」
「サッカー経験は?」
「ないです」
「マジ?」
「体育くらいです」
水城先輩の目が、
変わった。
あ。
これ。
俺を初めて見たときより、
食いついてる。
「もう一回蹴ってみて」
「嫌です」
「一回だけ!」
「なんでですか」
「見たい」
「俺は見せたくないです」
「頼む!」
「先輩」
俺が止めようとする。
でも。
水城先輩は、
黒崎の事情を知らない。
ただ。
今の一蹴りを見て、
純粋に興味を持っている。
黒崎が、
俺を見る。
「何この人」
「サッカー馬鹿」
「お前に言われたくないだろ」
「俺はまだサッカー馬鹿じゃない」
「まだって何だよ」
水城先輩が、
ボールを持ってくる。
「一回だけ!」
「…………」
黒崎がため息をつく。
「本当に一回だけですよ」
「よし!」
水城先輩が、
少し離れる。
「転がすぞ」
「はい」
トン。
ボールが転がる。
さっきより、
少し速い。
黒崎の目が、
ボールを追う。
その目を見て。
俺は、
昔を思い出した。
バッターボックス。
ピッチャーの手から、
ボールが離れる。
黒崎は、
最後まで目を離さない。
速くても。
遅くても。
曲がっても。
そして。
芯を捉える。
黒崎が踏み込む。
右足を振る。
バンッ!!
ボールが、
一直線に飛んだ。
ガンッ!
ゴールポスト。
「惜っし!」
隼人が叫ぶ。
でも。
黒崎は、
隼人を見ていなかった。
自分の右足を見ていた。
「…………」
「黒崎?」
水城先輩が呼ぶ。
返事がない。
黒崎は、
まだ自分の足を見ている。
何かを、
確かめるみたいに。
「もう一回」
黒崎が言った。
「え?」
水城先輩が聞き返す。
「もう一回、ください」
今度は。
水城先輩が笑った。
「おう!」
ボールを置く。
「次、ちょっと浮かせるぞ」
「はい」
水城先輩が、
ボールの下を蹴る。
ポンッ。
地面から浮く。
黒崎へ向かう。
高さが変わる。
タイミングも変わる。
黒崎の目が、
ボールを追う。
一歩。
踏み込む。
右足を振る。
その瞬間。
黒崎には。
何が見えていたんだろう。
俺には分からない。
でも。
あとで黒崎は、
このときのことを、
こう言った。
久しぶりだった。
飛んでくるものを見る。
どこへ来るのか。
どこを叩けばいいのか。
考えるより先に、
身体が分かる。
ここだ。
そう思える場所がある。
そこへ。
足を振る。
バンッ!!
完璧な音。
ボールが、
ゴールへ飛ぶ。
今度は。
クロスバーの下。
ネットが、
大きく揺れた。
バサッ!
ゴール。
誰も、
すぐには喋らなかった。
黒崎も。
動かなかった。
ただ。
ネットの中に転がるボールを、
見ていた。
その顔を。
俺は知っていた。
小学生の頃。
速い球を、
完璧に打ち返したとき。
誰より遠くへ、
ボールを飛ばしたとき。
黒崎は。
いつも、
あんな顔をしていた。
少しだけ目を見開いて。
そのあと。
嬉しそうに、
笑う。
「…………」
黒崎が、
小さく息を吐いた。
右手を見る。
握れない。
今度は、
右足を見る。
「大河?」
俺が呼ぶ。
「……何」
「いや」
言うのをやめた。
笑ってる。
なんて。
今は言わなくていい。
黒崎が、
もう一度ボールを見る。
「もう一球」
「お?」
水城先輩が笑う。
「さっき一回だけって」
「いいから」
「よし!」
「先輩嬉しそうですね」
「そりゃな!」
もう一球。
今度は、
少し横へ。
黒崎が追う。
蹴る。
外れる。
「クソ」
もう一球。
バンッ!
ゴール右。
「今のは当たり悪い」
もう一球。
「おい大河」
俺は笑う。
「帰るんじゃなかったの?」
「うるさい」
黒崎は、
ボールから目を離さない。
「今、いいところだから」
その言葉に。
俺は、
何も返せなかった。
なんとなく。
分かったから。
黒崎は今。
久しぶりに。
夢中になっている。
*
「はぁ……」
黒崎が、
息を吐く。
結局。
一回どころか、
十球くらい蹴っていた。
「面白いだろ?」
水城先輩が聞く。
「別に」
「めちゃくちゃ蹴ったじゃん」
「神谷うるさい」
「俺何も言ってない!」
「顔がうるさい」
どういう顔だよ。
水城先輩が、
黒崎の肩を叩く。
「なあ」
「何ですか」
「サッカー部、入らない?」
「…………」
俺は、
何も言わなかった。
水城先輩は、
黒崎の事情を知らない。
だから。
ただ、
サッカーをやってほしいと思っている。
「人数足りないんだよ」
「それは神谷から聞きました」
「初心者でも全然いい」
「…………」
「俺が教える」
水城先輩が笑う。
「さっきのキック、もっと上手くなるぞ」
黒崎が、
黙る。
断る。
そう思った。
昨日なら。
間違いなく、
即答していた。
でも。
今日は違った。
黒崎が、
ゴールを見る。
ネットの中に、
さっき自分が蹴ったボールがある。
「……考えときます」
「え?」
俺が声を出す。
「何」
「いや」
「何だよ」
「昨日、絶対やらないって」
「考えるだけ」
黒崎が睨む。
「入るとは言ってない」
「分かってる」
「絶対勘違いすんなよ」
「してないって」
「あと」
黒崎が、
水城先輩を見る。
「さっきの」
「ん?」
「浮かせたやつ」
「うん」
少しだけ間が空く。
「明日もできます?」
水城先輩が笑った。
「いくらでも」
「じゃあ」
黒崎は、
鞄を持つ。
「……暇だったら来ます」
そのまま、
グラウンドを出ていった。
誰も追いかけない。
「蓮」
隼人が、
俺の横に来る。
「大河、来るかな」
「さあ」
「来るだろ」
「分かんないって」
俺は、
黒崎の背中を見る。
でも。
一つだけ。
昨日までとは、
違う。
昨日の黒崎は、
サッカーなんて見ていなかった。
今日の黒崎は。
帰る直前まで、
何度も。
ゴールの中のボールを、
振り返っていた。
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