第四話 〜音の天才〜
「サッカーやらない?」
放課後。
音楽室。
俺の言葉に、
少女の指が止まった。
それまで流れていたピアノの音が、
ぷつりと消える。
「…………」
少女はゆっくり振り返った。
長い黒髪。
整った顔。
昔とほとんど変わっていない。
天宮奏。
小学四年生のとき。
俺にピアノをやめさせた女。
いや。
正確には、
こいつが悪いわけじゃない。
勝手に俺が心を折られて、
勝手にやめただけだ。
「久しぶりに話しかけてきたと思ったら」
奏が言う。
「何?」
「だから、サッカー」
「聞こえてる」
「じゃあ――」
「意味が分からないって言ってるの」
ですよね。
*
話は10分前に遡る。
「で?」
水城先輩が俺を見る。
「誰を誘うんだ?」
放課後。
サッカー部。
現在の部員、
三人。
二年生の水城直人先輩。
俺。
そして、
『走る天才』朝倉隼人。
廃部を回避するには、
最低でも試合ができる人数が必要。
十一人。
つまり、
あと八人。
「何人か心当たりあります」
「サッカー経験者?」
「ほとんど未経験だと思います」
「……大丈夫なのか?」
水城先輩が不安そうな顔をする。
「でも、全員普通じゃないです」
「普通じゃない?」
「はい」
俺は言った。
「天才です」
沈黙。
「……神谷」
「はい」
「お前、そういう勧誘方法する宗教とかじゃないよな?」
「違いますよ!」
「天才を集めてます、って結構怖いぞ」
「俺もそう思う」
隼人が頷く。
「お前は黙ってろ」
「で、誰から誘うんだ?」
頭の中に、
何人かの顔が浮かぶ。
水泳。
野球。
勉強。
将棋。
ピアノ。
俺が何かを始めるたび、
その先にいた人間たち。
その中で、
同じ中学校にいるやつ。
「……一人いる」
「誰?」
「天宮奏」
「天宮?」
隼人が少し考える。
「ああ!」
何だ。
知ってるのか。
「一年でめっちゃ可愛いって言われてる子!」
そっちかよ。
「お前そんな子と知り合いなの?」
「小学校の頃、同じピアノ教室だった」
「え?」
隼人の目が細くなる。
「なんだよ」
「蓮」
「だから何だよ」
「お前、女子とピアノ習ってたの?」
「そこ?」
そのとき。
「へえ」
後ろから声がした。
振り返る。
白石澪が立っていた。
「澪!?」
「何?」
「いつからいた?」
「天宮奏って言ったあたり」
一番聞かれたくないところからじゃねえか。
「ふーん」
澪が俺を見る。
「可愛い女の子をサッカー部に誘うんだ」
「なんだよ、その言い方」
「別に」
「部員集めだぞ」
「私は何も言ってないけど?」
「顔が言ってる!」
隼人がニヤニヤしている。
腹立つな、こいつ。
「それで」
水城先輩が話を戻した。
「天宮って子は何の天才なんだ?」
俺は答える。
「音です」
「音?」
「一回聴いた曲を、ほとんどそのまま弾けます」
「絶対音感ってやつ?」
「それだけじゃないと思います」
昔のことを思い出す。
先生が弾いた曲。
奏は楽譜を見ていなかった。
ただ、
聴いていた。
それだけ。
なのに。
次の瞬間には、
ほとんど同じ音がピアノから流れた。
「俺が三ヶ月練習した曲を」
俺は言う。
「あいつ、一回聴いただけで弾いたんですよ」
「それでピアノやめたの?」
隼人が聞く。
「……うん」
「メンタル弱っ」
「うるせえ!」
澪が笑っている。
「でも」
水城先輩が聞いた。
「その音の才能が、サッカーで何になるんだ?」
「…………」
俺は黙った。
「考えてないのかよ!」
「いや、何かありますって!」
「何かって何だよ!」
分からない。
正直、
俺にも分からない。
でも。
「隼人だってそうだったじゃないですか」
「俺?」
「こいつ、サッカーなんてやったことなかった」
「まあな」
「でも走らせたら、とんでもない武器になった」
誰も追いつけないボールに、
隼人だけが追いついた。
サッカーが上手いわけじゃない。
シュートなんて壊滅的。
それでも、
『走る』という一つの才能だけで、
サッカーの中に居場所ができた。
「だから」
俺は言った。
「奏にも何かあると思うんです」
「何が?」
「それは……」
少し考える。
「やってみないと分かりません」
水城先輩が笑った。
「適当だな、お前」
「でも、見てみたいんですよ」
音の天才が、
サッカーボールを蹴ったらどうなるのか。
「行ってきます」
俺は立ち上がった。
すると。
「私も行く」
澪が言った。
「なんで?」
「見たいから」
「何を?」
「蓮が女の子を口説くところ」
「勧誘だよ!」
*
そして現在。
俺は、
天宮奏と向かい合っていた。
その少し後ろには、
澪と隼人。
結局、
二人ともついてきた。
「それで?」
奏が俺を見る。
「どうして私なの?」
「人が足りない」
「他を当たって」
「それだけじゃない」
「じゃあ何?」
俺は奏を見る。
「お前、天才だから」
「…………」
奏の眉が動いた。
後ろから、
「告白みたい」
と隼人の声が聞こえた。
直後。
「痛っ!」
たぶん澪に何かされた。
無視しよう。
「私、サッカーやったことないけど」
「知ってる」
「ルールもよく知らない」
「俺も最近始めた」
「じゃあ、なんで私なの?」
「分からない」
「……帰っていい?」
「待って!」
まずい。
俺は慌てて続ける。
「でも、隼人を見て思ったんだ」
「朝倉君?」
「こいつ、サッカーめちゃくちゃ下手なんだよ」
「おい」
「シュートなんて全然入らない」
「蓮?」
「でも、速い」
隼人を見る。
「こいつ、50メートル6秒11なんだ」
奏が少し驚く。
「速……」
「だろ?」
なぜか隼人が得意げだ。
「それだけで、サッカーでも武器になった」
俺は続ける。
「だから思ったんだ」
「何を?」
「サッカーって、サッカーが上手いやつだけでやるものじゃないのかもしれない」
走る。
見る。
考える。
蹴る。
止める。
いろんなものが、
一つの場所に集まっている。
「だったら」
俺は奏を見る。
「音の天才が入ったらどうなるのか、見てみたい」
奏は何も言わなかった。
「俺さ」
俺は少しだけ視線を落とす。
「昔、お前のピアノ聴いて、ピアノやめたんだよ」
「……知ってる」
「え?」
「急に来なくなったから」
「ああ……」
恥ずかしい。
「俺、お前には絶対勝てないって思った」
奏は黙って聞いている。
「隼人にもそうだった」
走ることをやめた。
水泳でも。
野球でも。
勉強でも。
同じだった。
「俺、天才を見るたびに逃げてきたんだ」
「…………」
「でも」
昨日、
隼人とサッカーをした。
「初めて思った」
「何を?」
「勝たなくてもいいのかもしれないって」
奏の目が、
少しだけ動いた。
「俺が隼人より速くなくても」
俺は言う。
「隼人の速さを使えばいい」
隼人が俺を見る。
「俺がお前より音楽できなくても」
音楽室を見る。
ピアノ。
楽譜。
俺が一度、
諦めたもの。
「お前が俺よりすごいなら、一緒にやればいい」
「一緒に……」
「俺が天才になるんじゃなくて」
少し笑った。
「天才と一緒にやればいいんだ」
言ってから、
自分でも少し不思議だった。
昔の俺なら、
絶対にそんなことを言わなかった。
一番になりたかった。
誰よりもすごくなりたかった。
天才になりたかった。
その気持ちは、
今も変わっていない。
だけど。
サッカーなら。
少しだけ、
違う答えがある気がした。
「だから」
俺は奏を見る。
「一回だけ来てくれない?」
「…………」
「入らなくていい」
「…………」
「見学だけでいいから」
奏はピアノへ視線を戻した。
しばらく、
何も言わない。
長い。
めちゃくちゃ長く感じる。
やっぱり無理か。
そう思ったとき。
「……一回だけ」
「え?」
「見学だけなら」
俺は顔を上げた。
「マジ!?」
「声大きい」
「いつ来る!?」
「近い」
「明日!?」
「だから近いって」
「じゃあ明後日!」
奏がため息をつく。
でも。
少しだけ、
笑っていた。
「分かった」
「よっしゃ!」
思わず拳を握る。
まだ、
仲間になったわけじゃない。
サッカーをするとも言っていない。
ただの見学。
それでも。
俺が今まで逃げてきた天才が、
初めて。
俺のいる場所へ、
来ようとしている。
「じゃあ、明後日な!」
俺は音楽室を出る。
「蓮」
後ろから澪に呼ばれた。
「ん?」
「嬉しそうだね」
「そりゃそうだろ。一人増えるかもしれないんだぞ」
「ふーん」
「……なんだよ」
「別に」
またそれだ。
隼人が俺の肩を叩く。
「蓮」
「何?」
「お前、大変そうだな」
「何が?」
「いろいろ」
「意味分かんねえよ」
二人が先に歩いていく。
俺はもう一度、
音楽室を見る。
『音の天才』天宮奏。
まだ、
サッカーとは何の関係もない。
音楽室から出てくるかどうかすら、
分からない。
でも。
明後日。
その才能が初めて、
サッカーの世界を見る。
俺はまだ知らない。
その『音』が、
ピッチの上で何を生み出すのかを。
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