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第一話 〜何者にもなれない〜

「7秒12!」


ストップウォッチを持った先生の声が、校庭に響いた。


中学一年の春。


俺はゴールラインを駆け抜けると、そのまま両膝に手をついた。


「はぁ……はぁ……」


悪くない。


いや、むしろ結構速いはずだ。


体育の授業で行われた50メートル走。


クラスの男子の中でも、7秒台前半なら速い方だ。


昔、走ることにハマっていた時期がある。


毎日のように走っていた。


走り方を調べて、少しでも速くなろうと練習した。


そのおかげか、今でもそれなりには走れる。


「神谷、速いじゃん!」


クラスメイトから声が飛んでくる。


「まあな」


少しだけ嬉しかった。


でも。


「次! 朝倉!」


先生が名前を呼んだ。


その瞬間。


クラスが少しざわついた。


「出た」


「何秒いくかな」


「朝倉って小学校の大会でも優勝してたんだろ?」


俺は息を整えながら、スタート地点を見る。


そこには、見慣れた男が立っていた。


朝倉隼人。


幼稚園からの親友。


そして。


俺が人生で初めて出会った、


『走る天才』。


「位置について」


隼人が腰を落とす。


「よーい――」


パンッ!


地面が弾けたように見えた。


「速っ!」


誰かが叫ぶ。


一歩。


二歩。


三歩。


そこから先は、もう走っているというより、飛んでいるようだった。


腕を大きく振っているわけでもない。


苦しそうな顔をしているわけでもない。


ただ、速い。


圧倒的に。


「6秒11!」


先生の声が響いた。


「うおおお!」


「やっば!」


「速すぎだろ!」


クラスが沸く。


隼人はゴールの先で振り返ると、


「よっしゃ!」


と拳を握った。


俺は自分の記録をもう一度見る。


7秒12。


そして隼人。


6秒11。


俺だって遅くない。


クラスの中なら十分速い。


だからこそ分かる。


こいつは違う。


「……相変わらずだな」


思わず笑った。


悔しくない、と言えば嘘になる。


でも、もう慣れていた。


俺は昔から知っている。


そこそこできることと、天才であることは違う。


*


俺は昔から、


何かの天才になりたかった。


きっかけなんて覚えていない。


有名になりたかったわけでもない。


金持ちになりたかったわけでもない。


ただ、


「お前、すげえな」


そう言われる人間になりたかった。


だから、いろいろやった。


最初は走ることだった。


幼稚園の頃、隼人に負けた。


悔しくて、何度も走った。


練習すればするほど速くなった。


運動会でも上位に入れるようになった。


でも、


隼人には一度も勝てなかった。


諦めた。


次は水泳。


小学一年生のときだった。


最初は結構うまかった。


少し練習すると、周りより速く泳げるようになった。


もしかしたら才能があるんじゃないかと思った。


でも、同じスクールに全国大会を目指している同い年の子がいた。


泳いでいる姿を見た瞬間、


「あ、違う」


と思った。


やめた。


小学二年生。


野球。


バットにボールが当たる感覚が楽しくて、今度こそいけると思った。


練習しているうちに、それなりに打てるようにもなった。


でも、初めて試合を見に行った少年野球チームに、とんでもないやつがいた。


俺と同い年なのに、外野まで簡単にボールを飛ばした。


やめた。


小学三年生。


勉強。


運動がダメなら頭だと思った。


勉強すれば、テストで90点以上は普通に取れるようになった。


100点を取ったことだってある。


嬉しかった。


だから母さんに頼んで塾にも通った。


そこで、一度教科書を読んだだけで内容をほとんど覚えてしまうやつに出会った。


やめた。


小学四年生。


ピアノ。


練習すれば、それなりには弾けるようになった。


先生にも褒められた。


その直後。


同じ教室に、先生の演奏を一度聴いただけで同じ曲を弾いてしまう女の子がいた。


やめた。


小学五年生。


絵。


小学六年生。


将棋。


中学に入ってからは、動画編集なんかもやってみた。


全部同じだった。


やれば、


そこそこできる。


少し続ければ、


人より上手くなることだってある。


周りから褒められる。


楽しくなる。


もしかしたら、と思う。


そして――


天才に出会う。


世界っていうのは、不思議なものだ。


自分が知らない世界に足を踏み入れると、


必ずそこに、


化け物がいる。


*


「蓮!」


帰り道。


後ろから肩を叩かれた。


振り向かなくても分かる。


「なんだよ、天才」


「誰が天才だよ」


隼人だった。


「6秒11が何言ってんだ」


「今日ちょっと遅かったけどな」


「……は?」


「小六のとき6秒02だった」


殴ろうかと思った。


「それ嫌味?」


「なんでだよ」


「俺7秒12なんだけど」


「十分速いじゃん」


「お前に言われると腹立つんだよ!」


隼人が笑う。


昔から変わらない。


こいつに悪気はない。


だから余計に腹が立つ。


「でもお前、変だよな」


「何が?」


「いろんなことやってんじゃん」


「……まあな」


「俺、走ることしかできねえぞ」


「それができるからいいんだろ」


即答した。


「一個あれば十分じゃん」


俺が欲しくて欲しくて仕方がないものを、


こいつは最初から持っている。


隼人は少し黙った。


「そういうもんかね」


「そういうもんだよ」


「ふーん」


そのとき。


「二人とも」


後ろから声がした。


俺たちが同時に振り返る。


白石澪。


こいつも幼稚園から一緒だ。


「また蓮が隼人に嫉妬してる」


「してねえよ」


「してる」


「してない」


「してる」


「して――」


「蓮」


澪が俺を見る。


「そういうところ、昔から変わらないよね」


「どういうところだよ」


「自分よりすごい人を見つけると、すぐやめるところ」


言葉が止まった。


隼人が、


「あー……」


と気まずそうに頭をかく。


「別にいいだろ」


俺は前を向いた。


「向いてないこと続けても時間の無駄だし」


「向いてないって、誰が決めたの?」


「俺」


「どうやって?」


「俺よりすごいやつがいる」


「それだけ?」


俺は足を止めた。


「それだけって……」


澪も止まる。


「蓮ってさ」


まっすぐ俺を見る。


昔から、こいつの目は苦手だ。


全部見透かされている気がする。


「一番じゃないと、天才じゃないと思ってる?」


「……当たり前だろ」


「じゃあ、世界で一番じゃない人は全員普通なの?」


「それは……」


答えられなかった。


澪は少しだけ笑った。


「変なの」


「うるさい」


また歩き出す。


隼人が俺の横に並んだ。


澪もついてくる。


三人で帰る。


幼稚園の頃から何度も繰り返してきた光景だった。


そのときだった。


ドンッ!


何かが道路脇のフェンスにぶつかった。


「うわっ」


見ると、サッカーボールが転がってきた。


近くの公園から飛び出してきたらしい。


「すみませーん!」


小学生くらいの男の子が走ってくる。


ボールは俺たちの少し前で止まった。


「蓮、蹴ってやれよ」


「なんで俺?」


「一番近いから」


「お前が蹴れよ」


「俺、サッカーやったことない」


「俺もないわ」


面倒くさい。


そう思いながら、ボールに近づいた。


公園を見る。


距離はそこそこある。


蹴れば届くだろう。


「ほらよ」


適当に右足を振った。


ボンッ。


「あ」


ボールは思ったより高く上がった。


まっすぐ公園へ飛んでいく。


「おお!」


隼人が声を上げた。


けれど。


ボールは少年の頭上を越えた。


「あっ、やべ」


その先にはサッカーゴールがあった。


誰もいないゴール。


ボールは一度地面に落ちる。


跳ねる。


そして、


ゴールの中へ吸い込まれた。


「……入った」


隼人が言った。


「偶然だろ」


俺は答えた。


「いや、でも結構距離あったぞ」


「だから偶然だって」


「蓮」


澪が俺を見ていた。


「なに?」


「今、どこ狙ったの?」


「は?」


「蹴るとき」


「どこって……」


思い出す。


少年がいた。


その少し後ろにゴールがあった。


ただ返そうとしただけ。


だから。


「……あの子の前」


「ふーん」


澪がボールの軌道を目で追う。


「何だよ」


「別に」


「なんだよ、その顔」


「何でもない」


絶対何かある顔だった。


「兄ちゃん!」


公園から男の子が叫んだ。


「サッカーやってるの!?」


「やってない!」


「うそ! めっちゃうまいじゃん!」


「偶然だよ!」


俺が叫び返す。


すると男の子は笑った。


「じゃあ、もう一回蹴ってよ!」


「は?」


少年がボールを蹴り返してきた。


ゴロゴロと転がってくる。


俺の足元で止まる。


「もう一回!」


「いやいや」


隼人がニヤニヤしていた。


「やってみろよ」


「お前まで何言ってんだよ」


「もう一回入ったら偶然じゃないだろ」


「入るわけないだろ」


俺はため息をついた。


そして、


もう一度ボールを見る。


白と黒の、どこにでもあるサッカーボール。


俺は今まで、いろんなものに触れてきた。


バット。


ラケット。


ピアノ。


絵筆。


将棋の駒。


参考書。


そのすべてを、


最後には手放してきた。


サッカーか。


やったことはない。


ということは――


まだ、


天才に出会っていない。


「……一回だけな」


俺はボールを置いた。


数歩下がる。


ゴールを見る。


さっきより少しだけ、


真剣に。


そして走り出した。


このときの俺は知らなかった。


この一蹴りが、


俺の人生を変えることを。


そして。


これまで俺が出会ってきた数え切れないほどの天才たちと、


もう一度出会うことになるなんて。


もちろん、


知るはずもなかった。

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