第九話 自分自身の人生
少女が嬉しそうに店を走り去った後。
リディアは静かに二人分の紅茶を淹れ、運んできた。
店の奥にある、小さな木製のテーブル。
アルベルトはそこに腰を下ろす。
「……変わったな」
抑えきれずに溢れ出た言葉に、リディアは少しだけ不思議そうに瞬きをした。
「そう……でしょうか」
「ああ。まるで……別人のようだ」
リディアは静かにカップを置く。
「自分では……よく分かりかねます」
「そうか……」
重苦しい沈黙が、ふたりの間に落ちる。
かつて王宮にいた頃なら。
リディアがすぐさま察して、完璧な話題を提供してくれたはずだった。
アルベルトが不快にならないように。
気まずい空気が流れないように。
だが今の彼女は、ただ静かに沈黙を守っている。
話すべき課題を抱えてやってきたのは、自分自身なのだと──そう知っているから。
「……手紙を、読んだ」
「はい」
「戻らないと……そう書いてあった」
「はい」
「理由を……聞かせてほしい」
リディアは少しの間、沈黙の中で思考を巡らせた。
「手紙に書いた通りでございます」
「ここで暮らすことを……己の意志で選んだと?」
「はい」
「……それだけか?」
問いかけた瞬間。
リディアの表情が、ほんの少しだけ揺らいだ。
怒りでも、怨嗟でもない。
ただ……困り果てたような、切ない微笑み。
「……それだけでは、理由になりませんか?」
アルベルトは胸を突かれ、息を詰まらせた。
それだけ──。
自分がこう生きたいと望むことが、理由としてどれほど尊く完璧であるか。
かつての自分なら、「そんな我が儘が通用するか」と一蹴していただろう。
「……王宮が、未曾有の混乱に陥っている」
アルベルトはあえて厳しい声を絞り出した。
「理解しております」
「お前が戻れば……すべてが解決するのだ!」
「……そうかもしれません」
「なら──!」
「殿下」
静かな、けれど決して揺らがない声に言葉を遮られた。
リディアはまっすぐにアルベルトの瞳を見据えていた。
かつて、こんな風に瞳を合わせることすら許さなかった彼女が。
常に伏せられ、言われるがままに頷いていた彼女が。
今はただ──己の固い意志を伝えるために、王太子を凛と見つめている。
「私は」
リディアが穏やかに紡ぐ。
「かつて王宮にいた頃も……国や王宮を救いたいという高尚な志で働いていたわけではありません」
アルベルトは不快そうに眉を寄せた。
「では……何のために身を削っていたというのだ?」
「殿下に……必要とされていたからです」
吐き出されたのは、あまりにも虚しく、切ない答えだった。
「私のような存在でも、誰かの役に立てるのなら……それが義務なのだと自分に言い聞かせておりました」
「それは──」
「けれど……それは間違っていたのだと、今ははっきりと分かります」
アルベルトは何も言えなくなる。
「誰かのために自分を捧げることが、悪いことだとは思いません」
リディアは慈しむように言葉を重ねる。
「ですが」
彼女は一瞬だけ瞳を伏せ、大切な言葉を探すように息を吸った。
「自分が本当はどうしたいのかを殺し、誰かの望む生き方だけをなぞり続けるのは……」
そこで彼女は、どこか哀しげに微笑んだ。
「あまりにも……悲しく、虚しい生き方でした」
アルベルトの視線が、力無く落ちた。
虚しい生き方──。
その言葉が、刃となって自分の胸に突き刺さる。
リディアにそんな絶望を抱かせたのは。
他ならぬ、自分自身だったのだから。
「……リディア」
「はい」
「俺は……っ」
喉が焼けつくように熱い。何を言えばいい?
今さら惨めに謝罪するのか?
それとも──すべてのプライドを捨てて、縋り付くように求愛するのか?
けれど、どれほど言葉を重ねたところで、過ぎ去った時間が戻るわけではない。
「……俺には、お前が必要なんだ」
結局のところ、口から飛び出したのはどこまでも己本位な求愛だった。
リディアは答えず、ただ静かに沈黙を守る。
「王宮にとっても……そして、俺自身にとってもだ!」
それは紛れもない本心だった。
彼女を失って初めて気づいたのだ。
何か重要な決断を下そうとするたび、無意識に隣の空白を探してしまう己の弱さに。
この言葉で、彼女を傷つけないだろうか。
この選択で、国を誤らせないだろうか。
リディアなら……どう思ってくれるだろうか。
導いてくれる灯台を失った船のように、自分は今、恐怖に怯えているのだと。
「頼む……戻ってきてくれ!」
リディアは静かに目を開け、悲しげに瞳を伏せた。
その表情を見た瞬間──アルベルトは自分がどれほど愚かな過ちを犯したかに気づかされた。
必要だ。戻ってきてくれ。
それは──彼女の心など微塵も顧みない、かつてと同じ無神経な搾取の言葉だ。
自分が困っているから。
自分が必要としているから。
だからお前の意思など殺して戻ってこいと──そう叫んでいるに過ぎないのだと。
「殿下」
リディアがゆっくりと、諭すように口を開いた。
「その『必要』というお言葉は──」
その声は、驚くほど優しかった。
だからこそ、アルベルトの胸を絶望的に引き裂いた。
「私をひとりの女として愛していらっしゃるという意味では……ございませんね?」
時が凍りついたかのように止まった。
アルベルトは弾かれたように顔を上げる。
リディアは穏やかに続けた。
「殿下がお求めなのは……『私』ではなく、『私という便利な役割』なのでしょう?」
「……ち、違う……っ!」
反射的に激しく否定した。
だが──。
「では……なぜ私でなければならないのですか?」
静かに問われ、アルベルトはぐうの音も出なくなった。
なぜ──?
王宮の混乱を収めるため。
面倒な外交書簡を片付けるため。
完璧な補佐。
自分を絶対に裏切らない安心感。
自分が間違えないための鏡──。
脳裏に浮かぶのは、どこまでも自分に都合の良い理由ばかり。
そこに「彼女そのものを愛しているから」という答えは、どこを探しても存在しなかった。
「私は以前」
リディアの透き通る声が響く。
「誰かに必要とされることだけが、生きている証なのだと思っておりました」
アルベルトは黙って、血を吐く思いで聞き続ける。
「だから……殿下に必要だと言っていただけるだけで、十分だったのです」
リディアは寂しげに微笑んだ。
けれど、その表情はどこか晴れやかでもあった。
「けれど──」
彼女はゆっくりと窓の外へと視線を向けた。
夕暮れに染まる美しい港町。
愛する家族のもとへ、笑いながら帰っていく街の人々の姿。
「今は……少しだけ違います」
リディアは慈しむように紡ぐ。
「必要とされるから一緒にいるのではなく──」
アルベルトは呼吸すら忘れ、その言葉を待った。
「『この人と一緒にいたい』と思える方と、共に歩んでいきたいのです」
その一言を聞いた瞬間。
アルベルトは、すべてを理解した。
あまりにも遅すぎた、決定的な敗北の理解だった。
リディアは──二度と、自分の元へ戻ってくることはない。
王太子妃という栄誉を失ったからではない。
追放された恨みがあるからでもない。
彼女は己の意志で選び取ったのだ。
王都ではない、このささやかな光の差す場所を。
王太子の隣ではない、自分自身の人生を。
そして──。
今、彼女が心から「一緒にいたい」と願う、誰かの存在を。
その「誰か」が誰であるのか。
名を問うまでもなく、アルベルトの脳裏には一人の男の姿が浮かんでいた。
この地を治める、孤独な公爵──ヴィクトル・アシュフォード。
彼が頻繁にこの港町を訪れているという噂は、王都にまで届いていた。
もはや何も尋ねる必要などなかった。
「……そうか」
ようやく絞り出せたのは、かすれたその一言だけだった。
リディアは何も言わず、ただ静かに佇んでいる。
「俺は……」
アルベルトは机の上に置いた、己の虚しい手を見つめた。
「お前が……これほどまでに己の足で立ち、変わってしまったことすら……知らなかった」
「変わったのでしょうか」
「……変わったさ」
即座に断言していた。
リディアが驚いたように目を瞬かせる。
「かつてのお前なら……」
アルベルトは胸を締め付けられながら言葉を探す。
「俺が命令すれば……泣きながらでも、従っていたはずだからだ」
リディアはどこか切なさの滲む笑みを浮かべた。
「そう……かもしれませんね」
「……すまなかった」
その不格好な謝罪が、気づけば自然と唇から零れ落ちていた。
リディアは静かに彼を見つめ返す。
「……何に対して、でございますか?」
問われ、アルベルトは詰まった。
身勝手な婚約破棄か。
彼女の心と能力を都合よく搾取し続けたことか。
彼女の苦しみに、ただの一度も気づこうとしなかった無知さか。
「……すべてだ」
結局、それしか言えなかった。
「俺は……お前という人間の本当の姿を、何ひとつ知ろうとしなかった」
リディアはしばらくの間、沈黙を守っていた。
やがて──。
「私もまた……殿下に本当の心を伝える努力を怠っておりました」
「……それでも」
「はい」
リディアは静かに、けれど力強く頷いた。
「それでも……もう、過ぎ去ったことです」
責め立てるような棘はない。
許しを乞うような甘えもない。
ただ……終わりを迎えた過去を、過去として静かに置き去る声。
それがアルベルトにとって、どんな罵倒よりも残酷に胸を刺した。
激しく怒り狂ってくれた方が、まだ救われたかもしれない。
恨み言をぶつけられた方が、償う余地を残せたかもしれない。
けれどリディアはもう、アルベルトに何ひとつ求めていないのだ。
だからこそ──自分がいかに決定的な宝物を失ってしまったのかを、突きつけられていた。
「……分かった」
アルベルトは重い腰を上げた。
リディアもまた、美しく立ち上がる。
「……二度と、戻れとは言わない」
「……ありがとうございます」
「ただ──」
重い扉の前で、アルベルトは一度だけ振り返った。
リディアが静かな瞳でこちらを見つめている。
「……幸せになれ」
その一言だけは。
自分のためでも、王家のためでもなく──初めて彼女自身のために贈ることができた言葉だった。
リディアは少しだけ息を呑み、驚いたように目を見開いた。
そして──。
心からの、美しい微笑みを浮かべた。
「……はい」
その輝くような笑みを見届け、アルベルトは悟った。
ああ──自分は一度だって。
彼女にこんな風に、心から笑ってほしいと願ったことすら無かったのだと。
◇ ◇ ◇
王太子の豪華な馬車が去り、静寂を取り戻した夕暮れの街角。
リディアはひとり、店の前に佇んでいた。
空は切ないほど美しい、淡い紫色のグラデーションに染まっている。
胸の中に満ちているのは、不思議なほど穏やかな静けさだった。
あの冷たい王都を去った日。
もう二度とアルベルトと向き合い、言葉を交わすことなどないと思っていた。
恨みも、憎しみも通り越して。
ただ……あの息詰まる場所へ戻りたくない一心だった。
そして今。
長すぎた私の過去が、ようやく本当の終わりを迎えたのだと感じていた。
「……幸せに、か」
ぽつりと呟いた声が、夕風に溶けていく。
自分が今、幸せなのかどうか──正直なところ、まだよく分からない。
けれど。
あの頃の自分よりもずっと、ここにいる今の自分が愛おしく、好きだと思えるのだ。
「リディア」
背後から響いた、低く重厚な声。
振り返ると、そこにヴィクトルが立っていた。
いつもの漆黒の外套。
けれど今日のその瞳には、どこか落ち着かないような揺らぎが浮かんでいた。
「……今、王家の馬車が出ていくのが見えた」
「……見ていらしたのですか」
「ああ」
「殿下がいらっしゃいました」
ヴィクトルの眉が、かすかにピクリと動いた。
「そうか」
彼はそれ以上、何も詮索しようとはしなかった。
リディアは少しだけ躊躇ったが──。
「……すべて、お話ししてまいりました」
「そうか」
「もう……戻ってきてほしいとは言われませんでした」
ヴィクトルはしばらくの間、沈黙を守っていた。
そして──。
「そうか」
今度の声は、先ほどよりもずっと柔らかく、温かかった。
その不器用な優しさに、リディアは思わずくすりと微笑んでしまった。
「……ヴィクトル様は、本当にそればかりですね」
「……何がだ」
「『そうか』……ばかりです」
「……他に、気の利いた言葉など思いつかん」
「ふふ、いいんです」
リディアは溢れる愛おしさに胸を熱くしながら笑った。
「それが……とても嬉しいのですから」
ヴィクトルが、濡れたような瞳でリディアをまっすぐに見つめ返す。
夕暮れの残光に照らされた彼の横顔は、いつになく穏やかで美しかった。
「……私、決めたのです」
リディアは彼から目を逸らさず、力強く紡いだ。
自分自身の魂に、誓いを立てるように。
「私は……ここに留まります」
ヴィクトルはゆっくりと、力強く頷いた。
「ああ」
そして──。
「知っている」
たったその一言が、リディアの胸の奥底を激しく揺さぶり、じんわりと温かな熱で満たしていく。
誰かに便利な存在として求められることとは違う。
誰かの都合で選び取られることとも違う。
ただ──私が私としてここに存在することを。
当たり前のように、愛おしそうに受け止めてくれる人がいる。
それが今のリディアにとって、涙が出るほど誇らしく、嬉しかった。
港から吹き抜ける優しい潮風が、ふたりの間を心地よく通り過ぎていく。
頭上で『月灯り郵便店』の看板が、からんと愛らしい音を立てて揺れた。
リディアは輝く夜空を見上げる。
もう──二度と過去を振り返り、怯える必要はない。
自分で選び取った、このささやかな場所で。
自分で決めた、私だけの人生の中で。
今、私はしっかりと自分の足で立っているのだから。
そして、そのすぐ隣には──。
まだ名前のつけられない愛おしい感情とともに、これからもずっと共にいたいと願う人が佇んでいた。
リディアは溢れ出る幸福感に包まれながら、もう一度だけ、静かに微笑んだ。








