第八話 突然の来訪者
王都の冷徹な空気の中、その返事を受け取った男は、あまりの衝撃に長いあいだ言葉を失っていた。
「……戻らない……?」
低く掠れた声が、しんと静まり返った執務室の床にぽたりと落ちる。
窓の外には、薄暮に沈む王都の壮大な街並みが広がっていた。
寸分の狂いもなく整然と並ぶ無機質な建物。
遥か遠くに揺らめく重厚な城壁。
そして、そのすべてを冷酷に見下ろす偉大な王城。
アルベルトは、執務机の上に置かれた一通の手紙を、食い入るように見つめ続けていた。
何度目を擦り、繰り返し読み返しても、そこに刻まれた拒絶の言葉が変わることはない。
『このたびのご要請、確かに拝読いたしました』
丁寧で、寸分の隙もない完璧な書き出し。
かつて自分の隣で、息を潜めて控えていたリディアらしい、美しく整った文字。
しかし──。
『しかしながら、私が王都へ戻ることは、金輪際お受けいたしかねます』
その一文だけが、まるで鋭利な刃物のように強く、彼の視界を刺し貫いていた。
アルベルトは苦々しく眉を寄せる。
「……なぜだ」
誰に問うでもなく、一人呟いた。
返事など返ってくるはずもない。
当然だ。この広い執務室には今、彼ひとりしか存在しないのだから。
けれど、どれほど頭を巡らせても理解など到底できなかった。
王宮は今、かつてない深刻な混乱に陥っている。
外交文書の調整は滞り、各部署から押し寄せる不備だらけの書類は山をなし、些細な言葉の不一致から致命的な摩擦に発展しそうな交渉案件まで吐いて捨てるほど膨らんでいたのだ。
以前なら──。
リディアがいた。
彼女に丸投げしておけば、どんな難題も見事に収拾をつけてくれた。
気難しい相手の微細な感情を読み取り。
こちらの利益と自尊心を決して損なうことなく。
誰一人として不快にさせない完璧な言葉を選び抜き。
最も適切で、優雅な文章へと仕立て上げてくれたのだ。
だからこそ──。
当然のように戻ってくるものだと信じて疑わなかった。
婚約を破棄した。それは揺るぎない事実だ。
だが、彼女の持つ卓越した能力まで捨て去ったわけではないはずだ。
王家がこれほどまでに彼女を必要としているのだから、彼女だってそれを理解し、誇らしく戻ってくるはずだと──そう思い込んでいた。
「殿下」
控えめだが、どこか冷めた声に、アルベルトは不機嫌そうに顔を上げた。
いつの間に忍び込んできたのか。
重厚な扉の脇に、セレナが佇んでいた。
「失礼いたします」
「……ああ」
アルベルトは手紙から固い視線を外さない。
「何の用だ」
「少しだけ……お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「今は──」
忙しい。無駄な時間を取らせるなと追い払おうとして、不意に言葉が詰まった。
机の上には、山のように積み上がった書類が確かに彼を追い詰めている。
けれど──。
ここ数日、どれほど膨大な公務に没頭しようとも、脳裏からあの冷たい拒絶の手紙が離れてくれないのだ。
「……構わない」
苦々しく短く応じると、セレナは静かな足取りで室内に足を踏み入れた。
そして机のすぐ前まで進むと、そこに置かれた手紙へと視線を落とす。
「……リディア様からの、お返事ですか」
「ああ」
「お戻りには……ならないのですね」
「……なぜだと思う?」
抑えきれない焦燥感から、思わず尋ねてしまっていた。
セレナは一瞬だけ意外そうに目を丸くした。
だが、すぐに切なさの交じった眼差しで俯く。
「……私には、分かりかねます」
「お前ならどうする。王宮から乞われたら、戻るだろう」
「私、ですか?」
「ああ」
セレナは少しの間、沈思黙考した。
「……難しいところですね」
「何が難しいというのだ」
「はい」
彼女はどこか哀れむような、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「王宮から、これほど強く求められているのでしょう?」
「そうだ」
「でしたら……かつてのリディア様であれば、ご自身の身を削ってでも戻られたと思います」
「なら! なぜ今は拒絶する!?」
セレナはすぐには答えなかった。
その重苦しい沈黙に、アルベルトの苛立ちは限界に達する。
「何なんだ、その目は!」
「殿下」
静かな、あまりにも静かな声だった。
「ひとつだけ……不躾な問いをお許しいただけますでしょうか」
「言え」
「殿下が心から必要としていらっしゃるのは──」
セレナは一度深く呼吸を置き、まっすぐに王太子の瞳を見据えた。
「リディア様という『存在』ですか? それとも、リディア様が陰で差し出していた『都合の良い能力』ですか?」
アルベルトの顔から、一瞬にしてすべての感情が削ぎ落とされた。
「……何を言っている」
「失礼を承知で申し上げます」
セレナは一切怯むことなく続けた。
「殿下は、リディア様が戻りさえすれば、ご自分が抱えている今の面倒な問題がすべて解決すると……ただそう思っていらっしゃるだけではありませんか?」
「それは──!」
強く反論しようとして──喉の奥で言葉が壊れた。
確かに。
王宮の問題を片付けたい。
外交上の惨死を免れたい。
リディアが戻りさえすれば、自分は救われる。
そう……そう思っていた。
だが、それの何が間違っているというのだ?
「彼女は有能だ……!」
吐き捨てるように言い放つと、セレナはどこか諦めを含んだ瞳で小さく頷いた。
「ええ、恐ろしいほどに」
「王家に必要とされている!」
「はい」
「なら、戻ってきて当然だろう!」
「……殿下」
セレナの声が、悲痛な響きを帯びて部屋に落ちた。
「それは……リディア様ご自身が、心から望んでいらっしゃることでしょうか?」
アルベルトは言葉を失った。
望む──?
そんな抽象的なことを、ただの一度でも考えたことがあっただろうか。
リディアが何を望み、何を愛し。
どんな些細なことに微笑み、どんな場所で生きていきたいと願っていたのか。
──何ひとつ、知らない。
その残酷な事実に打ちのめされた瞬間、アルベルトは初めて、逃げるように目を伏せた。
「私は」
セレナが静かに告げる。
「殿下とリディア様の間にあったすべての過去を知る立場にはありません」
彼女は言葉を選ぶように、慎重に音を紡ぐ。
「ですが……あの過酷な婚約解消の日、リディア様は取り乱すこともなく、殿下を引き留めもしませんでした」
「……」
「悲しみに打ちひしがれているようにも……見えませんでした」
あの日──その光景はアルベルトの脳裏にも鮮明に焼き付いている。
確かに彼女は驚きに目を見張っていた。
けれど、涙の一滴すら流さなかった。
自分を責めることも、声を荒らげることもなく。
ただ……美しく、静かに深く頭を下げたのだ。
そして何事もなかったかのように、冷酷な婚約破棄を受け入れた。
あの時の自分は。
なんて物分かりのいい女なのだと安堵していた。
自分たちの立場を理解してくれたのだと。
王家の未来のための苦渋の決断だと、納得してくれたのだと思い込んでいた。
しかし──。
もし、違っていたのだとしたら?
納得したのではなく、ただ絶望し、心を閉ざしただけだったとしたら──?
「……私は」
アルベルトは手紙を力任せに握りしめた。便箋が悲鳴を上げて歪む。
「……私は、あいつの何を分かっていたというのだ……」
セレナはもう、何も答えなかった。
◇ ◇ ◇
三日後。
アルベルトは北方へ向かう馬車の中にいた。目的地は、遥か遠くのルナール港。
誰にも告げず、極秘裏に。
従えるのは最小限の護衛のみ。
国の象徴たる王太子が、地方の一零細港町を訪れるなど、本来ならば大不祥事にもなりかねない。
だが今回の道連れは、視察でも公務でもなかった。
自分でも、なぜこれほどなりふり構わず馬車を走らせているのか分かっていなかった。
身勝手な拒絶を撤回させ、説得するためか。
王太子の権力で連れ戻すためか。
それとも──。
ただ、彼女の瞳を見て話がしたいだけなのか。
流れていく窓の外の荒涼とした景色を眺めながら、アルベルトは懐から手紙を取り出し、擦り切れるほど読み返していた。
『私は現在のこのささやかな生活を、他ならぬ自分自身の意思で選び取りました』
その力強い一文を。
何度も、何度も。
己の意志で──。
あのように従順で、自分の意見など持たなかった彼女が、そんな強い言葉を刻むなど想像すらしていなかった。
いや──違う。
自分が彼女から言葉を奪い、己の意志を言えぬまでに追い詰め続けていたのではないか。
そう気づいた瞬間、胸の奥底がズシリと重く病み始めた。
◇ ◇ ◇
たどり着いたルナール港は、想像以上に小さく、貧しい町だった。
王都のような絢爛豪華さなどどこにもない。
狭く入り組んだ大通り。
潮風に晒されて傷んだ古い建物たち。
けれど──。
町全体には、王都には存在しない不思議な温もりと活気が満ちあふれていた。
港からは活気ある漁師たちの荒々しくも温かい掛け声が響き。
路地裏では子供たちが泥だらけになって笑い転げている。
誰もが生き生きと忙しそうに立ち働きながらも。
その表情はどこまでも穏やかで、満ち足りていた。
「……殿下。『月灯り郵便店』は、あの角の先にございます」
身を隠した護衛が指し示した先に、小さな佇まいの店があった。
素朴な白い壁。
澄み渡る空のような青い屋根。
窓辺には、愛らしく整えられた小さな鉢植えがいくつも並んでいる。
木製の看板には。
繊細に描かれた月と羽根ペンの絵。
そして──『月灯り郵便店』という柔らかな文字。
アルベルトは馬車を降り、吸い寄せられるようにその店を見つめた。
こんな場所で。
あの優雅で高貴だったリディアが暮らしているというのか。
王宮の重厚で眩い部屋でもなく。
煌びやかな絹のドレスを纏うこともなく。
こんな小さな、潮風の香る街角で。
激しい違和感と、どこか恐ろしいほどの敗北感が押し寄せてくる。
意を決して扉を押した。
からん、と鈴の音が愛らしく空間に響く。
「いらっしゃいませ」
耳に馴染んだ、愛おしい声。
けれど──かつて自分に向けられていたものとは、決定的に響きが違っていた。
顔を上げたリディアは、一瞬だけ信じられないものを見るように目を見開いた。
「……アルベルト殿下」
だがすぐさま、美しい動作で姿勢を正す。
「こんな遠方まで……ご足労いただき、恐れ入ります」
寸分の狂いもない、完璧なお辞儀。
けれど──。
以前の彼女を痛いほど縛り付けていた、あの悲壮な緊張感が嘘のように消え去っていた。
アルベルトはその決定的な変化に、息を呑む。
「……突然押しかけてすまない」
「いいえ」
「話が……したかった」
リディアはほんのわずかに逡巡するように瞳を揺らした。
そして──。
「承知いたしました」
静かに言葉を返した。
しかしその直後のことだった。
「リディアさんっ!」
店の奥から、弾むような無邪気な声が響き渡った。
振り返ると、小さな少女が嬉しそうに顔を覗かせている。
「お母さんがね、この手紙でバッチリだって言ってた!」
その手には、大切そうに握りしめられた一通の便箋。
リディアの瞳が、一瞬で見たこともないほど柔らかく緩んだ。
「本当? よかったわね」
「うんっ!」
少女は異様な雰囲気を纏うアルベルトの存在にすら気づかず、そのままリディアのドレスの裾に駆け寄る。
「今度はね、遠くのおばあちゃんにお手紙書くの!」
「そう。おばあさまへね」
「でも……なんて書けばおばあちゃん喜んでくれるかなぁ」
するとリディアは、花が咲くような愛おしい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、一緒に一番素敵な言葉を考えましょうか」
「うんっ!」
その弾けるような、心の底からの笑顔を──。
アルベルトは、生まれて初めて目にした気がした。
いや……リディアが笑う姿を見たことがないわけではない。
華やかな夜会では完璧な微笑みを絶やさなかった。
王宮の執務室でも、いつも穏やかに微笑んでくれていた。
しかし──。
今、目の前で幼子に向けられているその笑顔は、かつてのものとはあまりにも違っていた。
あまりにも自然で、嘘偽りがなく。
誰かの期待に応えるための完璧な仮面ではなく。
ただ……目の前の小さな命が喜んでくれたことが嬉しくて、溢れ出た本物の笑顔。
その輝きが、なぜだかアルベルトの胸を鋭く穿った。
「……殿下」
リディアの透き通る声で、弾かれたように我に返る。
「少々、お待ちいただけますでしょうか」
「……ああ」
彼はただ、頷くことしかできなかった。
「構わない……」
リディアは少女の小さな手を取り、奥の小さな机へと向かっていった。
残されたアルベルトは、逃げるように店内へ視線を巡らせる。
木の温もりのある壁には、色とりどりの小さなカードが何枚も飾られていた。
『ずっと言えなかった「ありがとう」を、ちゃんと届けられました』
『遠くのお母さんから、泣きながら返事が届きました』
『おかげで、大好きな人にプロポーズできました!』
拙い文字で書かれた、感謝の言葉たち。
その一枚一枚の下には、可憐な押し花が大切に添えられている。
救われた人々が、感謝を込めて置いて行ったものなのだろう。
アルベルトは固まったように、それらを見つめ続けた。
リディアはここで、一体何を紡いでいたのか。
失ってから、捨ててから初めて──彼はその意味を問い直していた。








