第七話 飾らない言葉
淹れ立ての二人分の紅茶から、揺らめく白い湯気が立ち上っている。
けれどリディアは、自分のカップへ指を伸ばすことすらできずにいた。
向かいに座るヴィクトルは、最初から何ひとつ問い詰めてはこなかった。
その押しつけがましくない優しく重厚な沈黙が、今の傷ついたリディアにはたまらなく愛おしく、ありがたかった。
言葉で飾らなくていい。
無理に強がらなくていい──そう包み込んでくれているように思えたから。
やがて静寂に耐えかねたように、リディアは机の上に置き去りにしていた手紙へと手を伸ばした。
「……今日、王都から使者が参りました」
ヴィクトルの強い視線が、一瞬で手紙へと突き刺さる。
「アルベルト王太子殿下からの、書状です」
その名を口にした途端、彼の鋭い瞳の奥に、揺らめくような感情の光が走った。
「……戻ってこい、と?」
「……ええ」
「命令か」
「いいえ」
リディアは寂しげに首を振る。
「形式の上では……懇願に近い要請です」
「……そうか」
吐き出された低く掠れた声。
けれどそこには、隠しきれない重苦しい感情が滲んでいた。
リディアは引き裂かれそうな思いで便箋を見下ろす。
「王宮が……とても困っていらっしゃるようなのです」
「何に」
「文書局の混乱や、外交関係の破綻など」
「だから、お前が必要なのだと?」
「……はい」
ヴィクトルは再び沈黙した。
その沈黙の重みに耐かねるように、リディアは言葉を紡ぐ。
「私が戻れば……彼らを助けてあげられるのかもしれません」
その言葉が空気中に解き放たれた、まさにその瞬間──。
ヴィクトルが弾かれたように顔を上げた。
「……行くのか」
放たれた問いかけは、あまりにも短く、そして切なかった。
リディアの喉が詰まり、すぐに言葉を返すことができない。
「……分かりません」
胸の内を吐き出すように、正直に告げる。
「戻りたいわけでは……決して、ないのです」
「なら──」
「でも!」
リディアはすがりつくように言葉を探した。
「困っている人がいると知ってしまったら、救うべきではないかと……自分の存在価値をそこに探してしまうんです」
あまりにも愚かで、惨めな自分。
惨酷に婚約を破棄され、捨てられた。
無能だと蔑まれ、必要とされなくなったからこそ、傷つきながらこの王都を去ったはずなのに。
それなのに今さら、相手が困っていると知っただけで、またあの地獄へ戻ろうと揺れている。
「私にしかできないことなのだとしたら……っ」
「リディア」
名を呼ばれ、弾かれたように顔を上げた。
ヴィクトルの瞳は、激しい衝動に揺れていた。
その必死な表情を見つめ、リディアは息を呑む。
彼は今、間違いなく──。
『行かないでくれ』と。
私を縛りつけ、引き止める言葉を叫ぼうとしていた。
けれど。
ヴィクトルは力なく唇を噛み締め、言葉を呑み込んだ。
痛々しいほどの短い沈黙。
そして彼は、拒絶するように視線をわずかに逸らした。
「……いや」
「ヴィクトル様……?」
「違う」
何が彼をそこまで苦しめているのか分からず、リディアは胸を痛めて首をかしげる。
ヴィクトルは胸の奥底から絞り出すように、重い息を吐き出した。
「……俺が言うべきことではない」
「……」
「『行くな』とお前を縛りつける資格など……俺にはないのだから」
リディアは息を詰まらせ、言葉を失った。
彼の言葉に込められた、切ないほどの痛みを理解しようと必死に思考を巡らせる。
そして思い出したのだ。
彼の悲痛な父親のことを明かしてくれた、あの日の記憶を。
──お前が真に望む人生を選べばいい。
そう突き放されても。
ヴィクトル自身、何を選んで生きればいいのか、暗闇の中でずっと迷い続けていたのだ。
気づけば重い仮面を被せられ、公爵という地位に縛り付けられていた。
戦えと言われれば血を流して剣を振るい。
守れと言われれば身を賭して守った。
誰かに強制されたわけではないとしても、己の意志で未来を選び取ったという実感など、何ひとつ持てずに生きてきた男なのだ。
「俺は」
ヴィクトルが低く、魂を揺さぶるような声で囁く。
「ずっと……己の意志で選ばなかったことを、死ぬほど後悔している」
リディアの胸が、激しく跳ね上がった。
「だから」
彼は真っ直ぐにリディアの瞳を見つめ返した。
「お前にまで……誰かのための選択を強いるようなことだけは、絶対にしたくない」
その一言は、リディアの削られた心の一番深い場所に、激しく突き刺さった。
情熱的に「行くな」と抱きしめられるよりも。
身勝手に「ここにいてくれ」と乞われるよりも。
どんな言葉よりも切なく、残酷なほどに愛おしかった。
ヴィクトルは逃げ場を塞ぐように、リディアを強く見つめつづける。
「……行きたいのなら、行けばいい」
リディアは小さく息を呑んだ。胸が熱く苦しい。
「……止めないのですか」
「止めない」
「……本当に?」
「ああ」
寸分の揺らぎもない、力強い声だった。
けれど──。
ほんのわずかに震え、白くなるほど強く握り締められた彼の右手に、リディアの目は釘付けになった。
行かせたくなどないのだ。本当は、手放したくなどない。
けれど──自分の愛のために、彼女の未来と選択を奪うことだけは絶対にしたくない。
溢れ出すその無言の叫びが、言葉以上に痛いほどリディアの胸を打った。
ヴィクトルは静かに告げた。
「だが」
一度言葉を切り、苦痛に満ちた瞳でリディアを射抜く。
「誰かの役に立つからという、そんな自己犠牲の理由だけで行くというのなら」
リディアの瞳が見開かれる。
「……もう一度、自分の心に問い直せ」
静まり返る店内。
窓の外を叩いていた雨音は、いつの間にか完全に途絶えていた。
「……役に立つから」
リディアは溢れ出る涙を堪えるように、その言葉を繰り返した。
「そうだ」
「……それだけを理由にしてはいけませんか」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
苦しげに瞳を伏せ、それから──。
「いけないとは言わない」
地の底から響くような、掠れた低い声。
「だが……お前はそれで、本当に幸せなのか?」
その不意の問いかけに。
リディアは胸を突かれ、言葉を失った。
幸せ──?
自分自身の幸せなどというものを、今まで一度でも考えたことがあっただろうか。
誰かの役に立つこと。
求められた期待に完璧に応えること。
都合の良い存在であり続けること。
それさえ出来ていれば、己の存在を許してもらえるのだと信じ込んでいた。
自分が幸せかどうかなんて──考えることすら許されない無価値なものだと思い知らされてきたのに。
「お前は」
ヴィクトルの揺るぎない声が、鼓膜を揺らす。
「本当は……何をしたい?」
たったそれだけの、あまりにもシンプルな問い。
けれどその瞬間──。
リディアの心の中で固く閉ざされていた何かが、音を立てて激しく崩れ去った。
これまで。
何をすべきかばかりを問われてきた。
何ができるのかばかりを搾取されてきた。
何を求められているのかを、血を吐く思いで考え続けてきた。
けれど──。
「あなた自身が、何をしたいのか」と。
自分の意志を尋ねてくれた人など、これまでの人生のどこにも存在しなかったのだ。
「私は……っ」
溢れ出そうとする感情に喉が詰まり、声にならない。
ヴィクトルは焦らせることなく、ただじっと彼女の返答を待っていた。
その温かい眼差しが、かえって痛いほど胸を締めつける。
「……分かりません」
やがて、絞り出すように溢れ出た。
「分からないのです……っ」
「そうか」
「でも……!」
リディアは激しく上下する胸元に、震える手を強く押し当てた。
「王都へ戻ることを想像したとき……私の心は、少しも喜んでいませんでした」
ヴィクトルの瞳が、かすかに揺れる。
「むしろ……っ」
リディアは涙に濡れた瞳で、溢れ出る本心を必死に言葉に変えた。
「苦しくて……心が押し潰されそうになったのです」
生まれて初めて、自分自身の真実の感情を認めた瞬間だった。
「また、あの冷たい場所へ戻らなければならないのだと思ったら……」
誰も自分を見てくれない王宮の無機質な長い廊下。
呼吸をすることすら忘れるほど積み上がった書類の山。
終わりのない搾取と、冷酷な依頼。
そして──誰かの都合の良い期待に応えるためだけに、自分を殺し続けていたあの頃の自分。
「……息ができなくなって、死んでしまいそうでした」
すべてを吐き出してしまった途端。
不思議なほどに、胸の重荷が軽くなっていくのを感じた。
ヴィクトルは何も言わず、ただ静かにその魂の叫びを受け止めてくれている。
「……私は」
リディアは視線を窓の外へと向けた。
雨上がりの港町。
濡れた街灯が、闇の中に温かな光の粒を灯している。
明日になればまた、愛おしい人々がこの店を訪れるだろう。
先立たれた愛しき人へ、届かぬ手紙を綴りたい人。
遠く離れた家族へ、溢れる愛を伝えたい人。
愛する人へ、どうしても口にできない切ない想いを届けてほしいと願う人。
この場所では。
誰も彼女に、完璧な王太子妃としての犠牲など求めはしない。
誰も彼女の能力を、当然のように奪い取ろうとはしない。
リディアが心を込めて紡いだ言葉を。
誰もが宝物のように愛おしく、胸に抱きしめてくれるのだ。
「……ここに、いたいです」
気づけば、心の奥底からの願いが唇を突いて出ていた。
消え入りそうな、小さな声。
けれど、それは紛れもなく彼女自身の魂から溢れ出た言葉だった。
「私は……この場所で、生きていきたい」
ヴィクトルは静寂の中で、じっと彼女を見つめている。
リディアは彼を真っ直ぐに見返し、もう一度、はっきりと告げた。
「王都へなど……絶対に戻りたくありません!」
その瞬間。
長年胸の奥底に澱んでいた呪縛が、解き放たれて消えていくのが分かった。
恐ろしかった。
これまでの自分なら、誰かの期待を裏切るような選択をする自分が恐ろしくてたまらなかったはずだ。
誰かを困らせてしまうかもしれない。
「無責任だ」と失望されるかもしれない。
それでも──。
溢れる恐怖に身を震わせながらも、リディアの心には不思議なほど一点の後悔もなかった。
「……戻りません」
ヴィクトルはしばらくの間、愛おしさと切なさが混ざり合った瞳で彼女を見つめつづけていた。
やがて──。
「……そうか」
とだけ、低く深く頷いた。
たったそれだけの、短い返答。
なのに──リディアの瞳から、ボロボロと温かい涙が溢れ出してきた。
「私……これで、良いのでしょうか」
縋るように、震える声で尋ねる。
「誰が決めることだ?」
「……っ」
「お前自身が望み、決めたのなら……それがすべての正解だ」
その言葉に、リディアは深く深く涙を零しながら目を伏せた。
そして、込み上げる愛おしさに耐えかねるように、小さく微笑んだ。
「ヴィクトル様」
「何だ」
「……ありがとうございます」
「感謝されるようなことなど、俺は何もしていない」
「いいえ」
リディアは愛おしさを込めて首を振った。
「あなたは……私に一番大切なものをくださいました」
何を、とは口にしなかった。
ヴィクトルもまた、それを尋ねることはしなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
ヴィクトルの温もりが去ったあとの静かな店内で。
リディアはひとり、机に向かっていた。
王太子から届いた、あの呪われた手紙を脇へと押しのける。
そして、真っ白で新しい便箋を一枚、目の前に広げた。
握りしめた魔法羽根ペン。
いつものように、誰かの思いを代わりに紡ぐためではない。
他でもない──自分自身の心と人生のために。
ペン先を静かに、紙のうえへと降ろす。
何度も指先が迷った。
王宮で叩き込まれた、もっと完璧で丁寧な礼節の言葉があるかもしれない。
角を立てず、波風を立てない巧みな表現。
相手の自尊心を傷つけず、怒らせない言い回し。
断りながらも、都合の良い関係だけを繋ぎ止めるような文章。
かつてのリディアなら、そんな心にもない偽りの完璧な手紙を易々と書いただろう。
けれど──今の彼女は、もう違う。
「……正しさで自分を飾る文章なんて、もういらない」
誰に聞かせるでもなく、力強く呟く。
そして、再びペンを握り直した。
溢れる感情を確かめるように、一文字、一文字、魂を込めて刻んでいく。
『アルベルト王太子殿下』
そこまで書き進め、一瞬だけ呼吸を整えてから、迷いなく続けた。
『このたびのご要請、確かに拝読いたしました』
形式通りの、冷ややかな挨拶。
そして──逃げ場を断つ、次の一文。
『しかしながら、私が王都へ戻ることは、金輪際お受けいたしかねます』
ペン先が止まる。
言い訳のような理由を並べ立てるべきだろうか。
王宮での酷い待遇が。
過酷すぎた仕事量が。
理不尽に突きつけられた婚約破棄の傷が──と。
恨み言なら、幾らでも吐き捨てることができた。
けれど、そんなものは本当の理由などではないのだ。
リディアは深く、深く胸いっぱいに息を吸い込んだ。
『私は現在のこのささやかな生活を、他ならぬ自分自身の意思で選び取りました』
その一文を刻みつけた瞬間、指先が激しく震えた。
己の意志で生きるという、恐ろしいほどの歓喜と覚悟に震えていた。
『月灯り郵便店で誰かの想いに寄り添うことも、この愛おしい港町で生きていくことも、私自身が心から望んで選んだ道です』
そして最後に、すべての過去に別れを告げるように。
『どうか、ご理解いただけますようお願い申し上げます』
最後の一滴まで意志を込めて、署名を記す。
リディア・エヴァンス。
書き終えた。
リディアはしばらくの間、完成した手紙をじっと見つめていた。
かつての自分が頼っていたような、完璧で隙のない外交文書などではないかもしれない。
王宮の人間が見れば、失礼だと眉をひそめるかもしれない。
けれど──。
「これでいい……これが、私の答え」
生まれて初めて、心からそう誇ることができた。
誰かに褒められるためでもない。
優秀だと評価されるためでもない。
これは──他ならぬ自分自身が選び取った、私だけの言葉なのだから。
ふと窓の外を仰ぐと、雲の切れ間から神々しいまでの月光が差し込んでいた。
雨に濡れた石畳を、淡く美しい光が優しく照らし出している。
リディアはゆっくりと立ち上がり、月明かりの差す窓辺へと歩み寄った。
王都へは、二度と戻らない。
自分自身の足で立ち、自分の人生を生きていく。
この選択の先に、どんな過酷な運命が待ち受けているかは分からない。
王太子の怒りを買い、追いつめられるかもしれない。
平穏な暮らしが脅かされるかもしれない。
それでも──胸を刺すような恐怖を抱えながらも、リディアの心には一片の後悔も存在しなかった。
机の上には、静かに横たわる一通の拒絶の手紙。
その傍らには、いつも誰かの想いを救ってきた魔法羽根ペンがある。
けれど今夜。
そのペンが紡ぎ出したのは──誰かのための犠牲の言葉ではない。
初めて手に入れた、リディア自身の人生を切り開くための、愛と意志の言葉だった。
──私は、戻りません。
その強く切ない決意が、ついに彼女を、長すぎた過去の呪縛から解き放ったのだった。








