第六話 王都からの手紙
その手紙が届けられたのは、シトシトと止まない雨の降る午後だった。
朝から降り続いていた細かな雨は、昼を過ぎる頃には港町全体を薄い灰色に包み込み、世界を優しく、どこか切なく閉じ込めていた。
月灯り郵便店の窓ガラスにも、絶え間なく伝い落ちる雨粒が幾本もの筋を描いている。
リディアはカウンターの奥で、引き受けた一通の手紙に最後のひと雫のインクを走らせ終えたところだった。
「……これで、よろしいでしょうか」
向かいに腰掛けていた若い女性が、差し出された便箋を壊れ物でも扱うかのようにそっと受け取る。
夫が遠い町へ出稼ぎに向かうことになり、その見送りの際に渡したい──胸が張り裂けそうな思いを言葉にしてほしいという切実な依頼だった。
女性は何度も何度も文章をなぞり、やがてぽっと頬を染めた。
「こんなふうに……ずっと、お伝えしたかったんです」
「でしたら、きっとお相手の心に届きますわ」
「ありがとうございます……!」
愛おしそうに便箋を胸元へと抱きしめる姿を見送りながら、リディアは静かに息を吐き出した。
途端に、店内に重厚な静寂が満ちていく。
壁に掛けられた時計の、刻むような針の音だけが、やけに鮮明に部屋の中に響いていた。
その時だった。
からん、と硬質な音を立てて扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
いつもの微笑みを浮かべて顔を上げたリディアは、だが、一瞬にしてその息を呑んだ。
そこに立っていたのは、見慣れた穏やかな港町の住人ではなかったからだ。
雨を弾く濃紺の重厚な外套。
滴を滴らせながらも、寸分の狂いもなく伸ばされた背筋。
そして胸元に刻まれた、眩いばかりの王家の紋章。
リディアの表情が凍りついた。血の引く音が胸の奥で聞こえる。
「……何か」
男性は一歩足を踏み入れると、恭しく深々と頭を下げた。
「リディア・エヴァンス様とお見受けいたします」
「……はい」
「王都より参りました」
その一言で、すべてを悟るには十分すぎた。
指先から急速に熱が奪われ、氷のように冷たくなっていく。
男性は静かに懐へ手を差し入れ、一通の封書を取り出した。
重厚感のある上質な紙。
そして、禍々しいほどの存在感を放つ赤い封蝋。
見間違えるはずもない。
かつて狂おしいほどにその身を捧げ、繰り返し目に刻み込んできた紋章が、そこにはっきりと刻み込まれていた。
「アルベルト王太子殿下より、書状をお預かりしております」
瞬間、周囲のあらゆる音が途絶えた気がした。
リディアの指先は震え、すぐには手を伸ばすことすらできない。
ただ、ただ凝視する──その鮮血のような赤い封蝋を。
あの息詰まる王宮にいた頃の自分なら、こんな手紙を突きつけられれば、心を乱しながらも誰よりも真っ先に破り開いていただろう。
何を求められているのか。
どのような完璧な返答を用意すべきか。
誰の顔色を伺い、どう動けば傷つかずに済むのか。
脳裏を駆け巡る無数の思考に、身を削り投じるのが日常だった。
けれど──今の自分は、もうあの頃の自分ではない。
「……ありがとうございます」
絞り出すようにそう応え、リディアは掠れる指先で手紙を受け取った。
使者はそれ以上、余計な言葉を一切口にしなかった。
「お返事は、急ぎません」
冷ややかなその一言だけを空間に残し、男性は足早に店を去っていった。
重い扉が閉まる。
からん、と寂しげにベルが鳴り響く。
そして再び、しんと静まり返る店内。
リディアはただじっと、手の中にある重苦しい封書を見つめ続けていた。
◇ ◇ ◇
手紙を開封することができたのは、使者の足音が雨の音へと消えてから、随分と時が流れてからのことだった。
カウンターの奥。
いつも自分が心を取り戻すその机に腰掛け、魔法羽根ペンを静かに脇へと置く。
大きく、深く呼吸を繰り返し、震える指先で封蝋を裁ち切った。
滑らかな便箋を開く。
そこに躍っていたのは、予想していたよりも遥かに素っ気なく、短い筆跡だった。
王宮の文書局がかつてない混乱に陥っていること。
外交上の重要書簡において、重大な不備が相次いでいること。
無能な王太子の補佐官たちだけでは、もはや収拾がつかないこと。
そして──。
他ならぬリディアの、卓越した能力と経験を必要としていること。
最後に、高圧的なまでの強い筆致でこう締めくくられていた。
『可能な限り早く、王都へ戻ってほしい』
読み終えたあとも、リディアは凍りついたように便箋を畳むことができなかった。
窓の外では、変わらず冷たい雨が打ちつけ続けている。
ぽつ、ぽつと、不協和音のようにガラスを叩く音が胸を削る。
「……そう、ですか」
漏れ出た呟きは、自分でも恐ろしいほどに感情の起伏がない、平坦なものだった。
込み上げる怒りすらなかった。
突き上げてくる悲しみも湧かない。
ただ──。
胸の奥底で眠っていた呪縛のような記憶が、濁った水のようにゆっくりと蠢き出していく。
──国のためです。
──王家のためです。
──あなたにしか、期待できないのですから。
その言葉を、どれほどの犠牲を払って聞き続けてきただろう。
そしてそのたびに、傷ついた心を押し殺して頷いてきたのだ。
心が擦り切れていても。
幾夜も眠れぬまま机に向かっても。
自分自身の本当の気持ちがどう叫んでいようとも。
必要とされることこそが自分の価値であり、期待に応えることだけが生きる意味なのだと信じ込んでいた。
それが、私に課された抗えぬ役目だったから。
「……お困りなのね」
愚かにも、思考が反射的にそちらへと傾く。
あの王宮が。
混乱する文書局が。
途方に暮れる外交官たちが。
きっと私がいなくて困り果てている。
私がかつてのように身を削って戻れば、すべてを救ってあげられるかもしれない──。
そう考えた、まさにその瞬間だった。
リディアの指先がぴたりと止まった。
──戻れば、助けになる。
それは本当に、私が望んでいることなの?
私の心が、血を流しながら求めている答えなの──?
「……」
胸を刺す問いかけに、答えは闇の中へと消えていった。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。
世界を濡らす雨は、ようやくその勢いを潜めていた。
静かに店を閉める準備を進めていたリディアは、ガラス越しに佇むひとつの人影に目を留めた。
濡れて黒さを増した外套。
湿った石畳の上に、佇む影。
傘も差さず、ただ雨に打たれるがまま立っている。
リディアは切なさに胸を締めつけられながら、思わず小さく苦笑した。
「ヴィクトル様」
扉を開けると、彼は影のある瞳をほんの少しだけ陰らせ、眉を寄せた。
「……閉店後だったか」
「まだ大丈夫ですよ」
「いや」
ヴィクトルは固い視線を店の看板へと向けた。
そこには既に、本日の営業終了を示す札が返されている。
「出直す」
「待ってください……!」
感情が揺さぶられ、反射的に彼を呼び止めていた。彼が振り返り、まっすぐにこちらを見つめ返す。
リディアの胸が跳ねる。ほんのわずかな迷いの後──。
「……温かいお茶を、淹れますから」
そう絞り出すように告げた。
ヴィクトルは言葉を返さなかった。
ただ、深く静かに、一度だけ頷いた。








