↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捨てられた花嫁は「魔法の手紙屋」を開きました ~公爵様、あなたへの恋文だけは代筆できません~  作者: あとりえむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/16

第十話 残された言葉

王太子がルナール港を去ってから、十日ほどが過ぎた。


あの日以来、王都から新たな使者が訪れることはなかった。


月灯り郵便店には、いつものように人々が訪れている。


遠くで働く息子への手紙。

故郷を離れた友人への便り。

亡き夫に宛てた、出すことのできない言葉。


リディアは今日も、訪れる人々の思いに耳を傾けていた。


「これで、よろしいですか?」


書き上げた手紙を差し出すと、向かいに座っていた老婦人は何度も頷いた。


「ええ。これでいいわ」


目元をそっと拭う。


「もっと早く、書けばよかった」


「そう思われることも、ありますよね」


「息子が王都へ出てから、もう十年になるの」


老婦人は苦笑した。


「喧嘩したまま別れたから。意地を張ってしまってね」


「……」


「今さら何を書けばいいのか、分からなくなってしまったのよ」


リディアは静かに微笑んだ。


「今、書かれたことを伝えればいいと思います」


「今?」


「はい。もっと早く書けばよかった、と」


老婦人は少し驚いた顔をした。

それから、ゆっくりと便箋を見つめる。


「それだけでいいのかしら」


「それが一番伝えたいことなら、きっと大丈夫です」


リディアは頷いた。


老婦人はしばらく黙っていた。

やがて。


「ありがとう」


そう小さく笑った。


その笑顔を見送りながら、リディアは自分の机を整える。


言葉は不思議だ。

長い文章を書かなければ伝わらないこともある。

けれど。

たった一言でしか伝えられないこともある。



その時、扉のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


振り返る。

そこに立っていたのは、ヴィクトルだった。


「ヴィクトル」


リディアは笑顔を浮かべた。

しかし。

彼の表情を見て、その笑みはすぐに消える。


「何かありましたか?」


ヴィクトルは一瞬だけ黙っていた。

そして。


「相談がある」


そう言った。


◇ ◇ ◇


店の奥。

紅茶を置いた机の上に、ヴィクトルは数枚の書類を広げた。


「北の鉱山の件だ」


リディアはすぐに思い出した。

坑道の崩落事故。

幸い死者は出なかったが、複数の作業員が怪我をしたと聞いている。


「あの後、調査を続けていた」


ヴィクトルの声は低かった。


「事故の原因は、坑道の補強不足だった」


「補強不足……」


「ああ。本来なら、数年前に大規模な補修を行う予定だった」


「予定だった?」


「実行されなかった」


リディアは眉を寄せる。


「なぜですか」


ヴィクトルは、一枚の帳簿を示した。


「予算が別の用途へ回された」


「別の用途?」


「採掘量を増やすための設備投資だ」


静かな部屋に、紙をめくる音だけが響く。


「坑道の安全を確保するよりも、採掘量を増やした」


「……誰が決めたのですか」


「そこが問題だ」


ヴィクトルは別の書類を取り出した。

古い紙だった。何度も開かれたのだろう。端が少し傷んでいる。


「これは?」


「先代公爵──父の命令書の写しだ」


リディアはその言葉に目を瞬いた。


「ヴィクトルのお父様が?」


「ああ」


ヴィクトルは紙を見つめた。


「補修計画を延期し、採掘を継続するよう命じている」


「……」


「この命令書が根拠になっていた」


リディアは文書へ視線を落とす。

そこには確かに、正式な形式で命令が記されていた。


坑道の補修を延期すること。

現在の採掘量を維持すること。

収益の低下を避けること。


そして最後に。

先代アシュフォード公爵の署名がある。


「お父様が書かれたものなのですか?」


「分からない」


ヴィクトルは即答した。


「写ししか残っていない」


「原本は?」


「見つからない」


リディアは顔を上げた。


「見つからない?」


「ああ」


「では、これが本当にお父様の命令だったのか、確認できないのですね」


「そうだ」


ヴィクトルは静かに頷いた。


「だが、この写しは公爵家の正式な記録として保管されていた」


「誰が保管したのですか」


「当時の文書管理官だ」


「その方は?」


「すでに亡くなっている」


リディアは再び文書を見る。

写し。

原本はない。

しかし、長い間、誰も疑わずに公爵家の記録として扱ってきた。


「ヴィクトルは……」


リディアは慎重に尋ねた。


「お父様が、このような命令を出したと思われますか?」


「分からない」


すぐには否定しなかった。それが、リディアには少し意外だった。


「父はただ優しい人間だったわけではない」


ヴィクトルが言った。


「領主だった。利益を考えることも当然あった」


「はい」


「だから、あり得ないとは言えない」


彼は文書を見つめる。


「ただ」


そこで言葉を切った。


「……違和感がある」


「どのような?」


「父なら、もっと別の方法を探した気がする」


その声には、確信よりも迷いがあった。

だから、リディアはすぐに答えなかった。


「他に、お父様が書かれた文書はありますか」


「ある」


「私に見せていただけますか」


ヴィクトルがこちらを見る。


「心語筆記士として?」


「……はい」


リディアは正直に頷いた。


「ですが……私の力で、偽造かどうかを判断することはできません」


「分かっている」


「誰が書いたかも分かりません」


「ああ」


リディアは目の前の紙を見る。


「ただ、もし、この文書を書いた方が、お父様ではないのなら」


ゆっくりと言葉を選ぶ。


「何か、違いを感じられるかもしれません」


ヴィクトルは少し考えた後に短く答えた。


「分かった。持ってくる」


◇ ◇ ◇


翌日。

ヴィクトルは、大きな革鞄を抱えて店へやって来た。


「……多いですね」


リディアは思わず呟いた。


「書庫にあったものを持ってきた」


「全部ですか?」


「父の直筆と確認できるものだけだ」


それでも、机の上には相当な量の文書が積まれた。


個人的な手紙。

領地の役人へ宛てた指示。

税についての覚書。

村の代表者から届いた嘆願書への返答。

そして、鉱山に関する文書。


「これを全部?」


「無理か」


「いいえ、読んでみます」


その日。

二人はほとんど言葉を交わさなかった。


リディアは一枚ずつ、慎重に紙へ触れていく。

先代公爵の文字。

力強い筆跡。整っているとは言い難い。けれど、迷いなく書かれている。


心語筆記士として紙に触れると、そこには断片的な感情が残っていた。


怒り。

焦り。

安堵。

時には、疲労すら感じることがある。


しかし、どの文書にも共通するものがあった。


リディアは、何枚目かの手紙を読み終えた時、小さく息を吐いた。


「……素敵な方だったのですね」


ヴィクトルが顔を上げた。


「会ったこともないのに?」


「はい」


リディアは少し笑った。


「文章と、残された思いからしか分かりませんが」


一枚の書類を指す。

それは、鉱山で働く作業員が怪我をした際の補償について書かれた文書だった。


「ここに補償金のことが書かれています」


リディアは指を置く。


「ああ」


「でも、金額だけではありません」


読み返す。


『家族の生活に不足がないよう、状況を確認せよ』


短い一文だった。


「この言葉に、その方らしさがある気がします」


リディアは微笑んだ。


ヴィクトルは黙っている。


「規則だから書いているのではなく、実際に困っている人がいることを考えていると思います」


「……父は、そういう人だった」


ヴィクトルが小さく呟いた。


リディアは顔を上げる。


「ご存じなのですね」


「子供の頃は、理解できなかった」


ヴィクトルの視線が遠くなる。


「父はよく、領地の村へ行っていた」


「視察ですか?」


「そうだ」


彼は少し笑った。


「だが、俺には散歩にしか見えなかった」


「散歩?」


「あちこちで立ち止まり、村人と話す」


──困っていることはないか。

──今年の冬は越せそうか。

──何か変わったことはないか。


「同じようなことを何度も聞くんだ」


「きっと大切なことだったのでしょうね」


「当時の俺には分からなかった」


ヴィクトルは一枚の紙に触れた。


「父は言っていた。帳簿だけを見ていても、人の暮らしは分からない、と」


静かな声だった。


リディアは何も言わなかった。

その言葉をヴィクトルが今も覚えていることが、何となく嬉しかった。


「ヴィクトルも似ていると思います」


「俺が?」


「はい」


「そうは思わない」


「なぜですか」


「父ほど人当たりが良くない」


「それは、そうかもしれません」


「……」


「あ」


リディアは慌てて口元を押さえた。


「失礼しました」


「正直だな」


「嘘はつけませんので」


ヴィクトルが呆れたように息を吐く。

しかし、その口元にはわずかな笑みがあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

t_title_novel.png
t_novel_ainado.png t_novel_at.png t_novel_ws t_novel_saihate.png
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。