第十一話 浮かび上がる影
日が傾き始めた頃。
リディアの手が、一枚の文書の上で止まった。
「……」
「どうした」
ヴィクトルがすぐに気づく。
リディアは答えなかった。
目の前にあるのは、問題となっている採掘継続の命令書の写しだった。
今日一日、彼女は先代公爵の直筆文書に触れてきた。何十枚も。
そして今。改めて、この文書へ触れる。
紙に指先を置いた瞬間。
胸の奥に、冷たいものが残った。
「リディア?」
「……違います」
小さく呟いた。
「何がだ?」
「分かりません」
リディアは正直に答えた。
「でも……」
もう一度、目を閉じる。
先ほどまで触れていた文書を思い出す。
そこには、迷いがあった。怒りがあった。責任を負う覚悟があった。
そして、必ず誰かの存在があった。
目の前の文書には、それがない。
ただ、何かを押し通そうとする意志だけが残っている。
「この文書を読んでも、ヴィクトルのお父様を感じられません」
ヴィクトルの目が動く。
「すみません、曖昧な言い方ですよね」
「いや」
「私の力は、誰が書いたかを教えてくれるものではありません」
「分かっている」
「これは写しですから……原本に触れたわけでもありません」
リディアは紙を見る。
「……ああ」
「写した人の感情が残っている可能性だってあります」
だから、これは証拠にならない。そう言おうとした。
しかし、ヴィクトルが静かに言った。
「それでもいい」
「え?」
「最初から、証拠にするために見せたわけじゃない」
彼は文書を見る。
「俺が知りたかったのは、父が、本当にこんな命令を出したのかということだ」
リディアは黙った。
「もちろん、お前の言葉だけで答えを決めるつもりはない」
「はい」
「だが」
ヴィクトルの視線が文書へ落ちる。
「調べる理由にはなる」
その言葉に、リディアはゆっくり頷いた。
◇ ◇ ◇
「一つ、おかしなことがあります」
翌朝。ヴィクトルが公爵家の文書目録を持ってきた時だった。
リディアは、問題の命令書について書かれた記録を見つめていた。
「何だ」
目録の一行を指して答える。
「この命令書、原本が存在した記録がありません」
「何?」
「写しが保管された記録しかないんです」
ヴィクトルが身を乗り出す。
「写しだけ?」
「はい」
「原本を受け取って写したのでは?」
「その可能性もあります」
リディアは頷く。
「でも通常、公爵家の重要な命令書なら、原本がどこへ保管されたか記録されますよね?」
「ああ」
「少なくとも、写しだけが突然保管庫に入ることは」
「ない」
ヴィクトルの声が低くなった。彼は目録を奪うように確認する。
「……この記録の日付」
「はい」
「父が亡くなった後だ」
リディアは頷いた。
「ですが、だからといって、偽造とは限りません」
「分かっている」
「誰かが、亡くなる前の文書を後から整理しただけかもしれません」
「ああ」
「でも」
二人の視線が重なる。
写ししかない。原本の保管記録もない。
そして、先代公爵本人の直筆文書と比べた時、リディアが感じた違和感。
「調べる価値はあります」
「ああ」
ヴィクトルは短く答えた。
「当時、この文書を保管庫へ入れた人間を調べる」
「記録は残っていますか?」
「分からない。だが、探す」
彼はすぐに立ち上がった。
その声には、久しぶりに見せる強い決意があった。
◇ ◇ ◇
調査は、すぐには進まなかった。
古い記録を調べるには時間がかかる。
当時の役人の多くはすでに引退し、亡くなった者もいる。
それでも、ヴィクトルは領地の古い帳簿を調べさせた。
その間、リディアもできる範囲で文書を確認した。
そして三日後。
「リディア、見つかった」
ヴィクトルが店へ入るなり言った。その表情は険しい。
「何がですか?」
「当時の文書管理記録だ」
机の上に一冊の帳簿が置かれる。
「問題の命令書が保管庫に入れられた日が分かった」
「いつですか」
「父が亡くなってから、二か月後」
リディアは息を止めた。
「二か月」
「ああ」
「でも、それ自体はおかしくありません」
「そうだ」
ヴィクトルは頷く。
「だが、問題は持ち込んだ人間だ」
帳簿の一行を指す。
そこには、名前ではなく役職だけが書かれていた。
『侯爵家より派遣された文書整理協力者』
リディアは眉を寄せた。
「侯爵家?」
「ああ」
「どちらの侯爵家ですか」
ヴィクトルは答えなかった。
一瞬、その名を口にすることを躊躇ったように見えた。
やがて。
「ラングフォード侯爵家だ」
リディアは初めて聞く名だった。
「ヴィクトルのお父様と関係があった方ですか?」
「王都での父の政治的な協力者だった」
低い声だった。
「では、なぜ文書整理を?」
「父が亡くなった直後、公爵家の人間が足りなかった」
ヴィクトルの声が硬くなる。
「侯爵家から、一時的に人員を借りていた」
リディアは帳簿を見る。
父が亡くなった後、混乱していた公爵家。そこへ派遣された、侯爵家の人間。
そして、原本の所在が不明な「先代公爵の命令書の写し」を保管庫へ持ち込んだ。
「まだそれだけでは、侯爵家が偽造したとは言えませんね……」
リディアは言った。
「ああ」
「本当に、以前から存在していた文書を整理しただけかもしれない」
「そうだ」
「でも」
リディアは帳簿を見つめる。
「この文書によって、誰が利益を得たのでしょう」
ヴィクトルが目を細め、持ってきたもう一枚の書類を机に置いた。
「採掘量が増えた年から、鉱山の取引先が変わっている」
「取引先?」
「ああ」
「どこへですか?」
「王都の商会だ」
リディアは書類を見る。
聞いたことのない商会名。
「この商会に問題が?」
「直接はない」
ヴィクトルは首を振った。
「だが、役員の一人がラングフォード侯爵家と関係がある」
静寂。
少しずつ、離れていたものが繋がり始めていた。
もちろん、まだ線にはなっていない。
侯爵家の協力者が文書を整理した。その後、鉱山の採掘が増えた。侯爵家と関係のある商会が利益を得た。
それだけだ。偶然かもしれない。偶然でないかもしれない。
「まだ急ぐのは危険ですね」
リディアが言った。
ヴィクトルが顔を上げる。
「急いで答えを決めれば、見たいものだけを見ることになります」
ヴィクトルは黙っている。
「ヴィクトルのお父様のことも、侯爵家のことも、きちんと調べましょう」
しばらくして、ヴィクトルが小さく息を吐いた。
「ああ……証拠が見つかるまでそうする」
その声は、先ほどよりも少しだけ落ち着いていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ヴィクトルが帰った後も、リディアは一人、店の奥に残っていた。
机の上には、先代公爵の文書の複写が置かれている。
その中の一枚を手に取る。
(ヴィクトルのお父様の言葉には、どれも関わる人々への想いが詰まっている……)
リディアは静かに指先を置いた。
紙に残された感情は、もう薄い。
それでも、強い意志だけは感じられる。
「……消えないんですね」
小さく呟く。
誰かが残した言葉は、時が経てば薄れていく。
紙は傷み、インクも褪せる。
けれど、完全に消えるとは限らない。
別の誰かが覚えている。
写しを取っている。
あるいは、その言葉によって、人生を変えられた人がいる。
だから。
真実を隠すために、一枚の紙を消したとしても、すべてを消すことはできないのかもしれない。
リディアは目を閉じた。
最初。ヴィクトルの父への手紙を書き始めた時。
彼女はただ、届かなかった言葉を形にする仕事をしていた。
今は違う。
誰かが残した言葉を、もう一度、探そうとしている。
それが、正しいことなのかは分からない。
この先、どんなものが見つかるのかも。
それでも、リディアは思った。
言葉には、誰かの心を救う力だけではない。隠された真実へ続く道を照らす力もあるのだと。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
王都のある邸宅。
暖炉の前に、一人の男が立っていた。
報告書を読んでいた手が、ゆっくりと止まる。
『アシュフォード公爵が、先代公爵の鉱山に関する旧文書を調査中』
短い報告だった。
男は何度か、その一文を読み返した。
「……誰が、調べている」
「公爵自身と」
報告を持ってきた男が答える。
「心語筆記士の女だそうです」
暖炉の火が揺れた。
「女?」
「以前、王太子殿下の婚約者だった、リディア・エヴァンスという伯爵令嬢です」
男はゆっくりと目を細めた。
「……心語筆記士」
その言葉を、低く繰り返す。
「何を知っている」
「まだ分かりません」
「調べろ」
声は静かだった。
しかし、逆らうことのできない冷たさがあった。
「そして……」
男は暖炉の火へ視線を向ける。
「余計なものが残っていないか、もう一度確認しろ」
報告役の男は深く頭を下げ、部屋を出ていく。
一人残された男は、燃える炎をしばらく見つめていた。
やがて、低く呟く。
「今さら、何が分かるというのだ」
その男──ラングフォード侯爵は、誰もいない部屋で薄く笑った。
しかし、その目は少しも笑ってはいなかった。








