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捨てられた花嫁は「魔法の手紙屋」を開きました ~公爵様、あなたへの恋文だけは代筆できません~  作者: あとりえむ


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第十二話 小さな町の記録商

ラングフォード侯爵の名が浮かび上がってから、ヴィクトルは以前にも増して忙しくなった。


月灯り郵便店を訪れる時間も減った。

けれど、まったく来なくなったわけではない。


「お疲れではありませんか?」


夕方。

リディアが紅茶を差し出すと、ヴィクトルは椅子に座ったまま小さく息を吐いた。


「少し」


「少し、ですか」


「ああ」


「本当は?」


「……かなり」


素直な答えに、リディアは思わず笑った。


「笑うな」


「申し訳ありません」


「謝っている顔ではない」


「ふふ、そんなことはありません」


ヴィクトルは不満そうに眉を寄せたが、紅茶を一口飲むと、それ以上は何も言わなかった。


以前の彼なら、疲れていることすら口にしなかっただろう。

大丈夫だと言い、問題ないと答えて、一人で何もかも抱え込んでいたはずだ。


少しずつではあるけれど、ヴィクトルは変わり始めている。

それが分かるから、リディアは嬉しかった。


「何か分かりましたか?」


尋ねると、ヴィクトルの表情が仕事のものに戻った。


「ああ」


机の上に書類を置く。


「ラングフォード侯爵家から派遣された、文書整理協力者について調べた」


「先日見つかった記録の方ですね」


「そうだ」


ヴィクトルは一枚の紙を取り出した。


「名前はアーネスト・ベルマン」


「ご存命ですか?」


「生きている」


リディアは思わず身を乗り出した。


「では、お話を聞けるのですね」


「問題は」


ヴィクトルが言葉を続ける。


「十年以上前に侯爵家を辞めていることだ」


「辞められた?」


「ああ。その後の記録がほとんどない」


リディアは眉を寄せた。


「行方不明なのですか」


「そこまでではない」


「では?」


「王都を出ている」


ヴィクトルは地図を広げた。

アシュフォード公爵領から王都へ続く街道。そして、その途中にある小さな町。


「ここだ」


「ベルクの町……」


「古い知人を頼って、ここで帳簿係をしているらしい」


「会いに行かれるのですか?」


「ああ」


ヴィクトルは迷いなく答えた。


「本人から聞く」


「……私も」


リディアは言いかけて、口をつぐんだ。

ヴィクトルがこちらを見る。


「何だ」


「いいえ……」


「遠慮せずに言え」


「私も一緒に行きたいと思ったのですが……」


リディアは少し言葉を濁す。


「でも、これはヴィクトル様の領地の問題ですし」


「だから?」


「私がついて行く必要は……」


「ある」


即答だった。


「え?」


「お前にも文書を見てもらいたい」


ヴィクトルは当たり前のように言った。


「ベルマンが何か残している可能性がある。一人の意見だけで判断するより、お前がいた方がいい」


それは、とてもヴィクトルらしい理由だった。

けれどリディアには、それだけではないような気がした。


「分かりました」


彼女は微笑む。


「では、ご一緒します」


◇ ◇ ◇


ベルクの町は、王都とルナール港の中間にあった。

大きな町ではない。街道を行き交う商人たちが休息するための、小さな宿や商店が並んでいる。

馬車が町へ入った頃には、すでに日が傾き始めていた。


「ここです」


ヴィクトルの護衛の一人が示した先には、小さな帳簿商の店があった。

看板には、『ベルマン記録商』と書かれている。


「記録商?」


リディアが尋ねる。


「古い帳簿の整理や、契約書の写しを作る仕事だ」


「なるほど……引退した書記官には、向いている仕事かもしれないですね」


馬車を降りる。

店の扉を開けると、古い紙の匂いがした。


「いらっしゃい」


奥から出てきた老人が、こちらを見た。

白髪に、細い体。しかし、その目だけは鋭かった。


「……アシュフォード公爵」


ヴィクトルの姿を見て、老人の表情が変わる。


「私に何か御用でしょうか」


「アーネスト・ベルマン氏か」


「そうですが」


「話を聞きたい」


老人はしばらく黙っていた。

そして、リディアへ視線を移す。


「そちらの女性は?」


「リディア・エヴァンスです」


名乗ると、ベルマンの眉がわずかに動いた。


「……あの心語筆記士」


「ご存じなのですか?」


「王都では有名ですから」


老人は短く答える。

しかしその声には、何か別の感情が混じっているように思えた。


「何について話せばよろしいでしょうか?」


「二十年前の、公爵家の文書整理についてだ」


その瞬間、ベルマンの顔から表情が消えた。


「……」


「ラングフォード侯爵家から、公爵家へ派遣されていたな」


「昔の話です」


「だから聞きに来た」


ヴィクトルの声は静かだった。


「覚えていることを話してほしい」


ベルマンは扉の外を見た。

街道を歩く人々。何気ない夕方の町。


しばらくして。


「店を閉めましょう」


そう言った。


◇ ◇ ◇


店の奥には、小さな応接室があった。

ベルマンは自分で紅茶を淹れたが、誰も手をつけない。


「二十年前」


老人が口を開いた。


「アシュフォード公爵が亡くなられた後、公爵家は大変な混乱でした」


ヴィクトルは黙って聞いている。


「先代公爵は、多くのことをご自分で決める方でした」


「父らしいな」


ヴィクトルが小さく呟く。


「ええ」


ベルマンは少しだけ笑った。


「そのため、亡くなった後に整理すべき文書が山ほどあった」


「侯爵家は、なぜ人を派遣した?」


「ラングフォード侯爵が申し出たのです。先代公爵とは旧知の仲だったから、と」


「それで、お前が来たのか」


「はい」


「派遣されたのはお前だけか?」


「いえ、私を含めて三人です」


「他の者の名前は覚えているか」


ベルマンは頷いた。


「私と、ダグラス・フェイン。そして」


そこで老人の言葉が止まる。


「もう一人は?」


「……ロバート・グレイ」


ヴィクトルが紙へ名前を書き留める。


「その三人で文書を整理した?」


「はい」


「問題の命令書も?」


ベルマンの顔が強張った。


「……どの命令書ですか」


「北の鉱山の採掘継続命令」


沈黙。

長い沈黙だった。

リディアは、老人の手がわずかに震えていることに気づいた。


「覚えていません」


やがてベルマンは答えた。


「二十年前のことです」


「本当か?」


ヴィクトルの声が低くなる。


「ええ」


「原本はどこにある」


「知りません」


「お前が保管庫へ入れた記録が残っている」


「写しを持ち込んだことまでは覚えています」


「誰から受け取った?」


「……」


「ベルマン!」


「覚えていないのです」


老人は繰り返した。

その時、リディアは初めて口を開いた。


「ベルマンさん」


老人がこちらを見る。


「私は、心語筆記士です」


「ええ、知っています」


リディアは静かに続けた。


「人の言葉の内側を紐解いて、それを文字として綴ります」


老人の表情が少し動く。

リディアは机の上に置かれた老人の手を見た。


「今、あなたは、とても怖がっていらっしゃいます」


ヴィクトルがこちらを見る。

ベルマンは、何も答えない。


「私たちは、あなたを責めるために来たのではありません」


「……」


「二十年前のことを覚えていないと言うのなら、それでも構いません」


リディアはゆっくり言った。


ヴィクトルが少しだけ眉を動かす。

しかし、彼女は続けた。


「でも、もし」


老人の目を真っ直ぐに見つめる。


「覚えているのに話せない理由があるのなら、その理由だけでも教えてください」


部屋の中が静かになる。

しばらく誰も動かなかった。


やがて、ベルマンは目を閉じた。


「……帰ってください」


「ベルマン」


「帰ってください……」


老人の声が震えていた。


「私は、もう何も知りません」


ヴィクトルが立ち上がる。


「帰ってください!」


突然、老人が声を荒げた。


「二十年前のことです! 終わったことだ!」


「終わってなどいない」


ヴィクトルの声が、老人の悲痛な声を遮った。


「北の鉱山で、人が怪我をした」


ベルマンが顔を上げる。


「二十年前の、その命令書が原因になっている」


「……」


「父が、本当にその命令を出したのか知りたい……ただ、それだけだ」


ヴィクトルは言った。


ベルマンはヴィクトルを見つめた。

その目に、一瞬だけ何かが浮かぶ。

後悔か。あるいは、長い間押し込めていた記憶か。


しかし、老人は首を振った。


「……何も知りません」


そして今度は静かな声で言った。


「帰ってください」


◇ ◇ ◇


「何か隠していますね」


店を出た後、リディアは小さく呟いた。


「ああ」


ヴィクトルの表情は険しかった。


「だが、証言を強要することはできない」


「はい」


「今の状態では、無理やり話させても証拠にならない」


「そうですね」


二人は町の宿へ向かった。すでに護衛が部屋を取っている。

夕食の後、リディアは自室の窓から外を眺めていた。


ベルマンは何を恐れているのだろう。

二十年前、何があったのか。

問題の命令書について、彼は明らかに何かを知っている。けれど、話せない。


「……」


その時、窓の外に一人の男が見えた。

宿の前を歩いているだけだ。しかし視線は何度も、帳簿商の店の方向へ向いていた。


気のせいかもしれない。

けれど、リディアは妙な不安を覚えた。

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