第十三話 消された原本
翌朝。
ヴィクトルたちが再び帳簿商を訪れると、店は閉まっていた。
「留守でしょうか」
護衛が扉を叩くが、返事はない。
「……昨日、今日も店を開けると言っていました」
リディアが呟く。
ヴィクトルが周囲を見る。
「裏を確認しろ」
護衛が回り込み、数分後。
「公爵様!」
声が上がった。
二人が裏手へ向かうと、そこには開け放たれた裏口があった。
室内には誰もいない。
机の上には整理途中だった帳簿。そして床には、破れた紙が散らばっていた。
護衛が室内を調べる。
争った形跡はない。金品も残っている。
しかし、ベルマン本人だけがいなくなっていた。
「逃げたのでしょうか」
リディアが尋ねる。
「……可能性はあるな」
ヴィクトルは即答しなかった。
その時。
「こちらを」
護衛の一人が、小さな箱を持ってきた。机の引き出しの奥に隠されていたらしい。
古い木箱。鍵は開けられていた。
「中身は?」
ヴィクトルが尋ねる。
「空です」
「何かが入っていた?」
「恐らく」
リディアは箱を見つめた。
蓋の内側に、紙が擦れた跡がある。何度も何かを出し入れしていたような形跡だった。
「……持ち去ったのかもしれませんね」
昨夜のベルマンの表情が頭から離れなかった。
あれは、何かを守ろうとしている人の顔ではなかった。
何かを隠し続けることに疲れた人の顔だった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
町の外れにある宿から、一通の手紙が届いた。
宛名は、アシュフォード公爵。
「誰からだ」
ヴィクトルが封を確認する。差出人の名はない。
「ベルマンさんでしょうか」
リディアが言い、ヴィクトルは封を開く。
中には短い手紙が一枚だけ入っていた。
『町を出ます。
二十年前、私は間違いを犯しました。
しかし、今さら告白しても誰も救われません。
だから、これだけはお伝えします。
探すなら、原本ではありません。
原本は最初から存在しなかった。
探すべきものは、命令書が持ち込まれる前に消えた文書です。
先代公爵が最後に、北の鉱山について指示された文書があるはずです。』
手紙を読み終えて、誰もすぐには口を開かなかった。
「原本が最初から存在しなかった……」
リディアが小さく繰り返す。
「ああ」
「では、あの写しは……最初から写しとして作られた」
ヴィクトルの目が冷たくなる。
「誰かが、父の命令書であるように見せかけるために」
リディアは手紙の続きを見た。
でも、そこにはもう一つ、重要な言葉がある。
「消えた文書」
「父が最後に、北の鉱山について書いたもの」
「はい」
「それを探せと言っている」
ヴィクトルは手紙を握りしめた。
「……父は、最後に何を書いたのだ」
その問いは、誰に向けたものでもなかった。
◇ ◇ ◇
公爵領へ戻った二人は、すぐに古い記録を調べ始めた。
先代公爵の晩年。亡くなる直前の数か月。
北の鉱山について書かれた文書。手紙、帳簿、報告書。何でもよかった。
しかし。
「ありません」
何度確認しても、見つからない。
「不自然ですね……」
リディアが呟いた。
机の上には、いくつもの文書目録が広がっている。
「何がだ?」
リディアは言葉を選んで続ける。
「先代公爵様は、鉱山について、定期的に指示を書かれていました」
「そうだな」
「なのに、亡くなる直前の半年間だけ、ほとんど記録がない」
ヴィクトルの手が止まる。
「……確かに」
「何も書かなかったとは考えにくいです」
「ああ」
むしろ、事故や補修の問題が起き始めていた時期なら、何らかの判断を残していてもおかしくない。
いや、先代公爵の性格を考えれば、何も残さなかった方が不自然だった。
「消された」
ヴィクトルが低く言った。
「まだ断定は……」
「分かっている」
ヴィクトルは言葉を遮った。
「だが、消えている」
それは確かだった。
存在しないことを証明するのは難しい。
しかし、あるはずのものがない。それもまた、調べるべき事実だった。
◇ ◇ ◇
「ここです」
数日後。
リディアが古い書庫の一角を指した。
公爵家の書庫ではない。領地の役所に残された、古い行政記録の保管庫だった。
「ここに何か?」
「先代公爵様の文書ではありません」
「では何だ」
「北の鉱山から送られた報告書です」
リディアは一冊の帳簿を開いた。
鉱山の管理者が、公爵家へ定期的に送った報告の控え。その中に一通だけ、奇妙な記録があった。
『先代公爵閣下より書面を受領』
日付は、先代公爵が亡くなる三週間前。
「書面」
ヴィクトルが呟く。
「内容は?」
「書かれていません。受領したという記録だけです」
リディアは次のページをめくった。
その後、北の鉱山では予定されていた坑道補修の準備が始まっている。
木材の発注。作業員の追加雇用。採掘量の一時的な調整。
「……父の命令を受けて、補修をするつもりだった」
ヴィクトルが言った。
「はい、その可能性が高いです」
しかし、そこから先の記録が途切れている。
先代公爵の死。公爵家の混乱。そして、補修計画の中止。
代わりに、採掘継続命令書の写しが現れる。
リディアはゆっくりと息を吐いた。
「これが、消えた文書につながるのではないでしょうか」
ヴィクトルを見る。
「ああ」
ヴィクトルの表情が変わっていた。
悲しみでも、怒りでもない。その二つが入り混じったような、静かな表情。
「父は、補修を命じていた」
彼が呟く。
「まだ証明はできません……でも」
リディアは続ける。
「少なくとも、採掘を継続する命令だけを出していたとは考えにくくなりました」
ヴィクトルは帳簿を見つめる。
「これで終わりではない……むしろ、ここからだ」
◇ ◇ ◇
その夜。王都のラングフォード侯爵邸。
「ベルマンが消えました」
報告を聞いた侯爵は、しばらく何も言わなかった。
「探しているのか?」
「はい」
「消える前に、手紙を送った可能性があります」
侯爵の視線が冷たくなる。
「あと……木箱が一つ、空になっていたとのことです」
侯爵はゆっくりと椅子から立ち上がった。
窓の外、王都の夜景を見つめる。
「……二十年も経っている」
低い声だった。
「なぜ今さら」
拳が静かに握られる。
「先代公爵は死んだ。文書も消えた。それでも……」
窓ガラスに映る自分を見つめる。
「人間の記憶だけは、消えない」
侯爵は振り返った。
「ベルマンを探せ」
「はっ!」
「それから」
一度、言葉を止める。
「北の鉱山に関する古い記録を、もう一度確認しろ」
「すべてですか?」
「ああ、残っているものがあるなら……アシュフォード公爵より先に見つけろ」
侯爵の声は低く、静かだった。
◇ ◇ ◇
月灯り郵便店。
閉店後。リディアは一人で便箋を整理していた。
そこへ、ヴィクトルが訪れた。
「まだ仕事をしていたのか」
「◇ ◇ ◇
ヴィクトルこそ」
「俺は今来た」
「ふふ、そうですね」
「何だ、いえ」
リディアは笑った。
そして、一枚の便箋を手に取る。
「今日、思ったことがあるんです」
「何だ?」
「手紙は」
少し考える。
「誰かに届くために書くものだと思っていました」
「違うのか」
「もちろん、それもあります」
リディアは言った。
「でも、届かなくても残ることがあるんですね」
ヴィクトルが黙って聞いている。
「先代公爵様が最後に書いた文書も」
まだ見つかっていない。
「もし、誰かが読んでいたなら」
その人の記憶には残っているかもしれない。
「もし、写しが作られていたなら」
どこかに残っているかもしれない。
「そして」
リディアはヴィクトルを見つめた。
「その言葉によって何かが変わったのなら……その結果もまた、残っているはずです」
「だから……」
小さく微笑んだ。
「きっと見つかります」
ヴィクトルはしばらく答えなかった。
やがて。
「……そうだな」
短く言う。
「父の言葉なら」
その声は、どこか遠い昔を思い出しているようだった。
「簡単に消えるようなものではない」
リディアは頷いた。
窓の外には、静かな夜の港が広がっている。
消された文書。
消えた証言。
二十年前の混乱。
誰かが隠そうとした真実。
まだ、何も証明されてはいない。
それでも、探すべきものは見えてきた。
先代公爵が最後に残した言葉。
それが見つかれば、二十年前から続いていた嘘が初めて形を持つ。
リディアは白い便箋を見つめた。
そこにはまだ何も書かれていない。
けれど、いつか誰かが言葉を書く。
そして書かれた言葉は、思っているよりもずっと長く、誰かの人生に残り続けるのかもしれなかった。








