第十四話 最後に残した文書
先代公爵が最後に残した文書を探す。
そう決めてから、ヴィクトルは公爵領のあらゆる記録を調べ始めた。
公爵家の書庫。領主館の保管庫。鉱山の管理記録。役所に残された行政文書。
二十年前には存在していたが、現在は失われている文書。関係した人間の名。
その何もかもを、一つずつ洗い直していく。
しかし。
探している文書は、なかなか見つからなかった。
「ここにもありません」
リディアは古い目録をパタンと閉じた。
「そうか」
向かいに座るヴィクトルの返事は短い。疲れているのだろう。机の上には、すでに読み終えた帳簿が山のように積み上がっていた。
「ヴィクトル、少し休まれた方が」
「まだ大丈夫だ」
「……」
「ヴィクトルがその言葉を使う時は、大抵、大丈夫ではありません」
ヴィクトルがゆっくりと顔を上げる。
「誰に習った」
「経験です」
「余計な経験を積んだな」
「郵便店を営んでおりますので」
リディアはふわりと微笑んだ。
「人の『大丈夫』を聞く機会が多いんです」
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
それから。
「……少し休む」
珍しく素直に答えた。
リディアは目を丸くする。
「……何だ、驚くほどのことか」
「ええ、少し」
「失礼なやつだな」
軽口を叩くその口調には、以前ほどの硬さはなかった。
◇ ◇ ◇
「先代公爵様は、文書の控えを残す習慣がおありだったのですよね」
休憩のために淹れた紅茶を飲みながら、リディアは尋ねた。
「ああ」
「すべてですか?」
「重要なものは」
「では」
リディアは少し考えを巡らせた。
「公爵家の書庫になければ、受け取った側に控えが残っている可能性はありませんか?」
「北の鉱山のことなら、すでに調べた」
「鉱山だけではなくて……」
言葉の続きを待つように、ヴィクトルが顔を上げる。
「補修に関係した人たちです。木材を発注した商人、建築を請け負う予定だった業者、補修のために雇われた作業員」
リディアは指を折りながら数え上げる。
「先代公爵様が直接命令を出したのではなく、別の人を通じて指示を伝えていたなら」
「その記録が残っているかもしれない、か」
ヴィクトルが低く呟く。
「はい」
しばらくの間、彼は何も言わなかった。
そして。
「それは調べていなかった」
「まだ探す場所があるということですね」
「……お前は時々、とんでもないことを平然と言うな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
ヴィクトルは勢いよく立ち上がった。
「行くぞ」
「今からですか?休むとおっしゃられたばかりなのに」
「休憩は終わりだ」
「まだ紅茶を半分しかいただいていませんが」
「飲みながら行く」
「それは無理がありますよ」
リディアの抗議を背に、ヴィクトルはすでに扉へと向かっていた。
◇ ◇ ◇
最初の手がかりは、古い木材商の帳簿から見つかった。
北の鉱山の補修に使う予定だった支柱材の、大量の発注記録。日付は、先代公爵が亡くなる二週間前のものだった。
「やはり、補修を行うつもりだった」
ヴィクトルが帳簿を鋭い目で見つめる。
「はい」
「では、なぜ中止されたのだ」
木材商の店主は首を横に振った。
「私どもも分かりません」
店主は古い帳簿を指差す。
「急に取り消されたんです」
「誰が命じたのだ?」
「公爵家から来た方が」
「名前は覚えているか」
「二十年前ですから……」
店主は困ったように眉を下げた。
「ですが、取り消しの書面は残っております」
リディアとヴィクトルは同時に顔を上げた。
「見せてください」
「ええ」
店主は奥の保管庫へ向かい、一通の文書を持って戻ってきた。
端が黄ばんだ古い紙。しかし、そこには確かに公爵家の印が押されていた。ヴィクトルが受け取る。
『北の鉱山の補修工事について、当面の間これを延期する』
簡潔な文面だった。
「署名は」
ヴィクトルの声が低くなる。
「ありません」
「誰が出した」
「使者が持ってきました」
「いつだ」
「先代公爵様がお亡くなりになった直後です」
リディアは文書を覗き込む。
これは、先代公爵の命令ではない。少なくとも、そう書かれてはいない。
「……当面の間」
リディアがぽつりとこぼす。
「何だ」
「この書面」
彼女は指先で文字をなぞった。
「補修計画そのものを中止したわけではありません」
「延期しただけだな」
「はい」
「だが、結局再開されなかった」
ヴィクトルの目が細くなる。
「誰かが、一時的な補修計画の延期で……そのままおざなりにしたのですね」
リディアは静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
そこから先は、思っていたよりも早かった。
木材商が残していた帳簿には、取り消しを届けた使者の所属がはっきりと記録されていた。
公爵家ではない。
『ラングフォード侯爵家・臨時連絡員』
「……なぜ侯爵家の人間が」
「父が亡くなった直後だからだ」
ヴィクトルの声は冷ややかだった。
「公爵家の混乱に乗じて、あらゆる場所に手を伸ばしていたんだろう」
「でも」
リディアは文書を見つめる。
「この書面だけでは、侯爵が命じた決定的な証拠にはなりません」
「ああ」
「臨時連絡員が勝手に行った可能性も」
「ある」
ヴィクトルは頷いた。
「だから、次を探す」
その日のうちに、二人は当時補修工事を請け負う予定だった建築業者の記録を調べた。その業者はすでに代替わりしていたが、古い契約書は大切に保管されていた。
そして。
「これは……」
リディアが息を呑む。
そこには、北の鉱山の補修工事について、先代公爵の正式な承認を受けたとする契約書が残っていた。契約日は、先代公爵が亡くなる十日前。
「補修は確定していたんですね」
リディアが震える声で言う。
「ああ」
ヴィクトルの手が紙を強く握りしめる。
「父は確かに、補修を進めていた」
まだ、先代公爵自身の命令書は見つかっていない。
しかし、状況証拠は確実に積み上がっている。木材を発注していた。工事業者と契約していた。鉱山側では補修の準備が始まっていた。
それらすべてが、先代公爵の死の直前に集中している。
「父が『採掘の継続』だけを命じたという方が、よほど不自然だ」
ヴィクトルは噛み含めるように言った。
「はい」
「だが」
彼は続ける。
「これでは、偽造を完全に証明できない」
リディアは頷いた。
「必要なのは、先代公爵様の最後の文書……それと」
リディアはヴィクトルの目をまっすぐに見据えた。
「誰が、その文書を消したのかを示す証拠です」
ヴィクトルの目に迷いはなかった。
「両方、見つける」
◇ ◇ ◇
三日後。予想外の場所から連絡が入った。
「ベルマンが見つかった?」
ヴィクトルが立ち上がる。知らせを持ってきた護衛が力強く頷いた。
「はい」
「どこだ」
「隣国へ向かう街道沿いの村です」
「本人か」
「間違いありません」
リディアは不安そうに尋ねた。
「無事なのですか?」
「今のところは」
「よし、行くぞ」
ヴィクトルは短く答え、翻るマントと共に踵を返した。
「私も」
「もちろんだ」
今回は、リディアが言い終える前に答えが返ってきた。
「……ありがとうございます」
「どうした?」
「いえ……」
少し嬉しかっただけだ。けれどそれを言えば、ヴィクトルはきっと困った顔をするだろう。だから、リディアはそれ以上何も言わなかった。








