第十五話 第七保管庫
ベルマンが身を寄せていたのは、街道沿いの小さな宿だった。
ヴィクトルたちが部屋を訪れると、老人は窓際の椅子に腰掛けていた。以前会った時よりも、背中がさらに小さく見える。
「……来られると思っていました」
ベルマンはぽつりと言った。
「逃げるつもりだったのではないのか」
ヴィクトルの問いに、老人は苦く笑う。
「逃げました。ですが……」
ベルマンは、机の上に置かれた小さな包みに視線を落とした。
「逃げ切れないものもあります」
ヴィクトルが近づく。
「それは?」
「二十年間……ずっと、持っていました」
包みの中から現れたのは、一冊の薄い帳簿だった。
「文書整理の作業日誌です」
リディアが息を呑む。
「公爵家の書庫で、何をどこへ移したか、その全てが記録されています」
ベルマンは震える手でそれを撫でた。
「本来なら、処分するはずでした」
「なぜ持ち出した」
「怖かったからです」
老人は深く俯いた。
「何かがおかしいと思っていました。ですが当時の私は、侯爵家の命令に逆らえる立場ではありませんでした」
「話してくれるか」
ヴィクトルが促すと、ベルマンはゆっくりと帳簿を開いた。
そこには、文書の番号、保管場所、移動先、そして担当者の名が几帳面な字で書かれていた。
「先代公爵様がお亡くなりになる三日前」
老人の指が一行で止まる。
「一通の封印文書が書庫から届きました」
「北の鉱山についてのものか」
「はい」
ヴィクトルの呼吸が止まった。
「内容は知りませんでした。ですが、封筒には先代公爵様自身の筆跡で『北の鉱山・坑道補修に関する最終指示』と書かれていました」
リディアは目を見開いた。
「それが、保管庫に入る前に、別の箱へ移された……」
「誰の指示だ」
ベルマンはすぐには答えず、躊躇うように唇を噛んだ。そして。
「」
「もう一人の文書整理協力者か」
「はい」
「その男は今どこにいる」
「死にました」
静かな答えだった。
「十年前に」
ヴィクトルの表情が険しくなる。
「では、誰がグレイへ指示を?」
ベルマンはギュッと目を閉じた。
「分かりません」
「本当か?」
「……」
「ベルマン!」
「……直接は」
老人は絞り出すように言った。
「聞いていません」
「直接は?」
老人が自らの震える手を強く握りしめる。
「グレイは、侯爵家の執事と、頻繁に連絡を取っていました」
「誰だ」
「当時の主席執事、ヘンリー・クロフォードです」
ヴィクトルはその名を聞き、弾かれたように顔を上げた。
「生きているのか」
「はい」
「どこにいる」
「侯爵家を辞めた後、王都の郊外で暮らしていると」
ベルマンの答えに、リディアが一歩前に出る。
「ですが、その文書はどこへ行ったのですか?」
ベルマンは力なく首を振った。
「分かりません」
「作業日誌には?」
「移動先は書かれていないんです」
老人は該当する一行を指差した。そこには『別途保管』とだけ書かれていた。
「これだけです」
ヴィクトルの眉間には深いシワが刻まれていた。
しかし、リディアはじっと帳簿を見つめ続けていた。
「……ベルマンさん」
「何でしょう」
「この日誌、毎日の作業が、とても細かく書かれています」
「仕事でしたから」
「なのに……」
リディアはページをめくった。
「この三日後だけ、急に記録が少ない」
ベルマンの顔がサッと強張る。
「なぜですか?」
「それは……」
老人は答えない。リディアはもう一度日誌を見つめ、一箇所を指差した。
「ここに、数字があります」
文字の横。小さく書き込まれた『七』という数字。
「この数字は何ですか?」
ベルマンは長い間、その数字を凝視していた。やがて、小さく息を吐き出す。
「……第七保管庫です」
「どこにある」
「公爵家の旧書庫です」
「まだ残っているか」
「建物はあると思います」
ベルマンはこくりと頷く。
「当時、私はそこへ文書を運びました」
「何の文書だ」
「分かりません」
「封は?」
「開けていません」
「誰の指示だ」
ベルマンは再び口をつぐんだ。しかし、もう一度『第七保管庫』という言葉を口にして、覚悟を決めたように顔を上げる。
「……グレイです」
ヴィクトルの目が剣呑な光を宿す。
「グレイが運べと命じたのだな」
「はい」
「そして、記録から消した」
「恐らくは」
「なぜ今まで言わなかった」
ベルマンの唇がわななき始める。
「私は……」
老人は顔を両手で覆った。
「自分が関わったことを、認めたくなかった……」
静かな部屋に、重い沈黙が降りる。誰もすぐには言葉を返せなかった。
「私は文書を運んだ」
ベルマンの掠れた声が響く。
「何が入っているか、考えようともしなかった。命令されたから……それで、自分の責任がなくなると思っていたんです」
「今、話してくださったことで……」
リディアはゆっくりと、しかし優しく首を振った。
「二十年前にはできなかったことを、してくださったのだと思います」
ベルマンが顔を上げる。
老人の濁った瞳に、涙が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
第七保管庫は、公爵家の敷地の奥にあった。現在の書庫から離れた、古い石造りの建物だ。
重い扉を開けた瞬間、長い間閉ざされていた埃っぽい空気が流れ出す。
「ここです」
ベルマンの記憶を頼りに、古い棚を調べていく。しかし、文書はほとんど残っていなかった。
「誰かが整理したのか」
「十年前に一度、古い資料を処分しています」
背後に控えていたヴィクトルの側近が答える。
「記録は?」
「残っています」
「確認しろ」
数時間。誰もが黙々と暗い庫内を探し続けた。
そして。
「公爵様」
一人の護衛が声を上げた。壁際、崩れかけた棚の下。石床に不自然な継ぎ目がある。
「そこを」
ヴィクトルが近づき、自ら石板を持ち上げた。その下に、小さな隠し空間があった。
「……箱があります」
護衛が慎重に取り出したのは、古びた黒い木箱だった。しかし、封印は破られずに残っている。
ヴィクトルの手がピタリと止まる。
箱の表面には、見覚えのある紋章が刻まれていた。アシュフォード公爵家の紋章だ。
「父の封印だ」
地の底から響くような声だった。誰も身動き一つしなかった。
ヴィクトルはしばらく箱を見つめた後、封印を壊さないよう慎重に蓋を開いた。
中に入っていたのは、一通の封筒。そして数枚の書類。
リディアは息を詰める。
封筒の表には、確かに『北の鉱山・坑道補修に関する最終指示』と書かれていた。先代公爵の直筆だ。
ヴィクトルが、ゆっくりと封を切る。
◇ ◇ ◇
文書には明確に記されていた。
北の鉱山の一部坑道について、直ちに採掘を停止すること。坑道の補修を優先すること。必要であれば、一時的な収益低下を受け入れること。
そして、その最後の一文。
『鉱山は我らの財産ではあるが、そこで働く者の命まで所有しているわけではない』
先代公爵の署名、正式な印、日付。すべてが揃っていた。
ヴィクトルは長い間、言葉を発さなかった。
「……父だ」
やがて、小さく、だが確かな熱を帯びた声が漏れる。リディアは彼を見上げた。
「分かるのですか」
「ああ」
ヴィクトルは文書を見つめたまま答えた。
「父なら、こう書く」
その声が、少しだけ震えていた。
リディアは何も言わず、ただ寄り添った。
この文書は単なる証拠ではない。ヴィクトルが長い間、心のどこかで探し求めていたものだった。父が本当は何を考えていたのか。自分の知らないところで何を選ぼうとしていたのか。
それが、二十年越しにようやく息子の手の中に戻ってきたのだ。
しかし。
「他にもあります」
リディアが箱の中を覗き込む。そこにはもう一通、別の封筒が眠っていた。宛名は『ラングフォード侯爵』だった。
ヴィクトルの表情が変わる。
「父からラングフォード侯爵宛へ?」
「筆跡は同じです」
今度の封は、開かれていなかった。
「……なぜここに」
ヴィクトルは訝しみながら封を開く。中には、先代公爵がラングフォード侯爵へ宛てた手紙が入っていた。内容は短い。しかし、真相を突き止めるには十分だった。
『貴殿が北の鉱山の採掘量について繰り返し意見を述べていることは承知している。だが、私はこれ以上、坑道の安全を後回しにすることを認めるつもりはない。
補修を終えるまで採掘量を減らす。この決定によって生じる不利益について、今後、公爵家は責任を負わない。
また、鉱山の取引に関し、侯爵家と関係する商会への便宜を求めることも、今後一切受け入れない』
部屋がしんと静まり返る。
リディアは、ゆっくりと胸に溜まった息を吐き出した。
「……繋がりましたね」
ヴィクトルは答えず、手紙を睨みつけている。
ラングフォード侯爵は二十年前、北の鉱山の採掘量に介入し、関係する商会の利益を求めていた。そして先代公爵はそれを明確に拒否した。
その直後に先代公爵が亡くなり、補修計画は延期され、採掘継続を命じたという偽の文書が現れたのだ。
「動機はある」
ヴィクトルがギリッと拳を握りしめた。
「父の死後、侯爵は父が拒否した利益を手に入れた」
「ですが」
リディアは冷静に指摘する。
「これでも、侯爵自身が偽造を命じた決定的な証拠にはなりません」
「ああ」
ヴィクトルも同意した。
「まだ足りない」
その時、側近の一人が声を上げた。
「公爵様」
「何だ」
「こちらを」
箱の底に、薄い紙片が挟まっていた。最初はただの紙切れに見えたが、そこには短い記録が残されていた。
『侯爵家よりの使者、ロバート・グレイに対し、封印文書の引き渡しを拒否。公爵家保管庫への移送を指示するも、再度要求あり。やむなく第七保管庫へ一時保管』
「誰が書いた?」
「先代公爵の側近です」
側近が確信を持って答えた。
「筆跡も確認できます」
ヴィクトルの目が鋭く細められる。
「つまり」
リディアが繋ぐ。
「ラングフォード侯爵家の人間は、この文書を手に入れようとしていた」
「ああ。手に入れられなかったから、グレイを使って隠させた」
「ですが、グレイが独断で動いたと言い逃れられたら……」
「可能性はある」
ヴィクトルは即答し、踵を返した。
「だから、クロフォードに会うぞ」








