最終話 今伝えられる言葉
ヘンリー・クロフォードは、王都郊外の小さな屋敷でひっそりと暮らしていた。かつてラングフォード侯爵家の主席執事だった男はすでに引退しているが、ヴィクトルの訪問を告げると、すぐに面会を承諾した。
「予想していました」
応接室に通されるなり、クロフォードは開口一番にそう告げた。
「何を」
「いつか、先代アシュフォード公爵のことを聞かれる日が来ることを」
ヴィクトルの表情がスッと冷たくなる。
「ならば、知っていることを話せ」
「その前に」
クロフォードはリディアを一瞥した。
「ラングフォード侯爵は、今も権力を持っています」
「脅しているのですか?」
「いいえ」
老人は静かに首を振った。
「忠告です」
「ならば、余計なお世話だ」
クロフォードは人の良さそうな苦笑を浮かべた。
「……先代公爵も、そうおっしゃる方でした」
ヴィクトルの目がわずかに揺らぐ。
「侯爵は」
老人は居住まいを正して続けた。
「北の鉱山から大きな利益を得ていました」
「商会を通じてか」
「はい」
「先代公爵は、それを知っていた」
「知っていました。だから、拒否したのです」
ヴィクトルが一歩近づく。
「父の死後、何があった」
クロフォードは深く目を閉じた。
「侯爵は言いました。『混乱している時こそ、必要なものを整理しろ』と」
「何を整理しろと?」
「証拠を」
リディアの息が止まる。
「……何の証拠ですか」
「侯爵家が、北の鉱山の採掘に関与していた証拠です」
ヴィクトルの表情が一変する。
「偽造命令書は」
「侯爵の指示です」
クロフォードは、はっきりと言い切った。
しかし、ヴィクトルは冷静だった。
「証明できるか」
「できます。私は、直接命令を聞きましたから」
「証言だけでは弱い」
「ですから」
クロフォードは机の引き出しを開け、一通の封筒を取り出した。
「これを残していました」
中には、ラングフォード侯爵家の内々の支払い記録が収められていた。二十年前、ロバート・グレイへ支払われた多額の金。名目は『特別文書整理費』。
そして同じ月、侯爵家と関係する商会から、侯爵家へ多額の利益が戻っている記録。
「グレイへの支払い」
ヴィクトルが言う。
「偽造の報酬か」
「そうです」
「なぜ今まで持っていた」
クロフォードはまた苦笑した。
「ずっと胸につかえていました……自分の良心を捨てるのが怖かったのです」
老人はゆっくりと手元の記録を撫でる。
「ですが、侯爵に仕えた者として……これ以上、見ないふりをすることはできません」
リディアは静かに目を伏せた。
二十年間。誰もが自分の弱さを抱えたまま生きていた。ベルマンも、クロフォードも。そして、ヴィクトルも。父の死後に残された記録を疑うこともできずにいた。
けれど今、それぞれが、遅すぎたとしても真実を口にしている。
◇ ◇ ◇
ラングフォード侯爵が逮捕されたのは、それから五日後のことだった。
王都の侯爵邸に国王の命を受けた王国監察局の調査官が踏み込み、侯爵家の文書を押収した。
罪状は、公爵家文書の偽造、証拠隠滅、不正な利権供与。そして二十年にわたり、虚偽の記録によって鉱山の安全対策を妨げたこと。
侯爵は最後まで否認したという。
だが、偽造命令書、ベルマンの作業日誌、第七保管庫から発見された先代公爵の正式な指示、ラングフォード侯爵へ宛てた手紙、側近が残した記録、クロフォードの証言、グレイへの不審な支払い、そして侯爵家と鉱山取引から利益を得ていた商会の帳簿。
一つだけなら、偶然と言い逃れることができたかもしれない。しかし、そのすべてが一本の線で繋がり、一人の男へ向かっていた。
もはや逃げ道はなかった。
◇ ◇ ◇
「これで」
月灯り郵便店の窓から穏やかな港を眺めながら、リディアは安堵の溜め息をついた。
「終わったのですね」
「事件はな」
隣に立つヴィクトルが答える。
「……事件は?」
「鉱山の補修はこれからだ」
「あ」
「怪我をした作業員への補償も、管理体制の刷新もある」
リディアは思わずくすりと笑った。
「何だ」
「ヴィクトルらしいと思って」
「終わったとは思っていないだけだ」
「それが、ヴィクトルらしいんです」
彼は少しだけ眉を寄せた。
「褒めているのか」
「もちろんです」
「なら、そうしておく」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちる。
以前なら、リディアは沈黙を怖がっていた。何か話さなければ相手が退屈しているのではないか、自分といることを嫌がっているのではないか。そんなことばかり考えていた。
けれど、ヴィクトルといる時は沈黙が苦しくない。何も言わなくても、そこにいていいのだと思える。
「リディア」
「はい」
「一つ、渡したいものがある」
ヴィクトルが懐から一通の封筒を取り出した。リディアはパチパチと目を瞬く。
「手紙ですか?」
「ああ」
「誰宛てですか?」
「お前に」
「私に?」
「読め」
促されるまま受け取る。封筒には彼の真っ直ぐな筆跡で『リディアへ』と書かれていた。リディアはなぜか、すぐに開けることができなかった。
「……ここで読んでも?」
「好きにしろ」
震える指で便箋を取り出す。そこに書かれていたのは、決して長い文章ではなかった。
『お前と出会ってから、俺は何度も自分の言葉が足りなかったことを知った。
父にも。領民にも。そして、お前にも。
言わなくても伝わると思っていた。だが、伝えなければ届かない。だから書く。
俺は、お前といる時間が好きだ。
お前が店で誰かの手紙を書いている時も、くだらないことで笑っている時も、真剣な顔で人の言葉を考えている時も。
これから先も、その時間のそばにいたいと思っている。
もし、お前が許してくれるなら。
俺の隣にいてほしい』
最後まで読み終えて、リディアは動けなくなった。胸の奥から込み上げる熱いもので、視界が滲む。
「……」
「何か言え」
頭上からヴィクトルの声が降ってくる。けれど、顔を上げられない。
「リディア」
「少し待ってください」
「なぜだ」
「泣きそうなので」
ヴィクトルがハッと息を呑む気配がした。
「……泣くほどか」
「泣きます」
「そうか」
「はい」
リディアは、手紙を大切に胸元へ抱きしめた。
ずっと、言葉を仕事にしてきた。誰かの代わりに、言えなかった思いを書く。届かなかった言葉を形にする。
けれど自分自身が、こんなふうに不器用で温かい言葉を受け取ることがあるとは、想像すらしていなかった。
「ヴィクトル」
涙を拭い、ゆっくりと顔を上げる。
「何だ」
「私も」
言葉を探す。いつもなら誰かのための言葉はすぐに見つかるのに、今は胸がいっぱいでなかなか見つからない。
「……私も、ヴィクトルの隣にいたいです」
ヴィクトルの目が、わずかに見開かれた。
「それは」
「はい」
リディアは涙混じりに微笑んだ。
「お返事です」
しばらく、ヴィクトルは言葉を失っていた。
「……分かった」
「はい」
「そうか」
「はい」
「……」
「ヴィクトル」
「何だ」
「嬉しくないのですか?」
「嬉しい」
「では、もう少し嬉しそうに」
「難しいことを言うな」
堪えきれず、二人は同時に吹き出した。
窓の外では、港に美しい夕陽が沈んでいく。
かつて、リディアは王都からこの町へ来た。誰かに選ばれなかった自分から逃げるように。けれど今なら分かる。あの日ここへ来たことは、逃げることではなかったのだと。自分の人生を、自分で選び直すための始まりだった。
隣にはヴィクトルがいる。机の上には、彼から受け取った手紙がある。
リディアは、そっと封筒に触れた。
言葉は、いつだって遅すぎるわけではない。届かなかった手紙もある。失われた言葉もある。けれど、だからこそ、今伝えられる言葉がある。
リディアはとびきりの笑顔を向けた。
「ヴィクトル」
「何だ」
「これからも」
彼を見つめる。
「たくさん、お手紙を書いてくださいね」
ヴィクトルは一瞬黙り、少しだけ頬を染めて顔を逸らした。
「……努力する」
「約束ですよ」
「ああ」
夕暮れの柔らかな光が、二人の間に置かれた便箋を優しく照らしていた。
それは、二十年の時を経て、そして二人の心を繋いで、ようやく届いた一通の手紙だった。
(完)
最後まで読んでいただきましてありがとうございます!
まだ構想段階ですが、二人のその後のストーリーや、リディアと代筆の依頼人とのサイドストーリーなども書けたらなと考えております。
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