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9.家に帰れる、かも

 朝の光が窓から差し込んで、ユージアの瞼をくすぐった。ニンゲンの町で目覚める二回目の朝だ。体は軽い。昨日の疲れが嘘のように、ぐっすり眠れた。毛布が温かかったおかげだろう。

 こんこんこん。

「Juzia! Bonan matenon! Ĉu vi jam vekiĝis?」

 壁越しの声。昨日教わらなかった言葉だ。matenon、朝?夜がbonan noktonだったから、きっと朝の挨拶だ。扉が細く開いて、ラティアが顔を覗かせた。水色の髪が寝ぐせで少し跳ねている。

「Ho, vi jam vekiĝis! Bone!」

 ラティアの後ろから、廊下を歩く重い足音。リューズが湯気の立つカップを二つ持って現れた。目の下にうっすら隈がある。

「Bonan matenon, Juzia. Ankaŭ Ĵedo jam vekiĝis. Ŝajne li trovis interesajn dokumentojn.」

「Vere!?」

「Jes. Li diras, ke okcidentaj legendoj mencias antikvajn barierojn. Ŝajne necesas rito por trairi ilin.」

 リューズがユージアにカップを差し出す。温かいミルク。昨日と同じ甘い匂い。

「...Ĵedo volas paroli kun Juzia. Post la manĝo.」

 リューズの表情は穏やかだが、その目にはわずかな真剣さが宿っていた。

「Rjuzu, bonan matenon...」

「Bonan matenon, Juzia.」

 リューズがユージアの頭をぽんと撫でて階段を示す。促されるまま階下の食堂に降りると、テーブルには既に朝食のパンと果物が並んでいた。

「Juzia, manĝu! Post tio, Ĵedo volas...」

 ラティアがジェドの仏頂面の真似をして口をぱくぱくと動かした。

 階段から足音がして、ジェドが降りてきた。昨夜遅くまで起きていたのだろう、目の下の隈がリューズよりも濃い。しかし手には数枚の紙を持っていて、その目は疲労より興奮が勝っていた。

「Ŝafido. Venu.」

 ジェドがテーブルに地図を広げた。広大な森に書かれた円の上をジェドの指が滑る。

「Kvankam barieroj ne estas mia fako, tiel granda bariero ĝenerale ne estas egale dika ĉie. Certe troviĝas lokoj, kie la bariero estas pli maldika.」

 結界の縁を辿るように動いた指が、円周上を数カ所、トントンと叩く。

「Mi ne scias, ĉu ankaŭ la bariero de Ailea havas tiajn lokojn, sed certe estas iu maniero, kiel vi eliris.」

 ジェドがユージアの顔をじっと見た。

「Vi. Via magio. Ĉu vi povas fari ion krom kuraci?」

 ジェドが両方の手のひらを広げるような仕草をして、それから首を振る。何かを確認しようとしている。

「ええと…」

 手…?ぼくができること?ユージアは治癒魔法で手を金色に輝かせた。ユージアの手から金色の光が溢れる。呼吸するように自然に。テーブルの上が暖かい日差しに照らされたみたいに明るくなった。

「...」

 ジェドの目が細くなった。もう一度ユージアの手を見て、首を横に振った。

「Tion mi jam scias. Kuraci, jes. Sed... alia magio?」

 ジェドが手を握って、ぱっと開く。それから地図を叩いて、壊す仕草。

「Rompi? Malfermi? Ĉu vi povas fari tion?」

「Ĵedo, li ankoraŭ ne komprenas tiom da vortoj...」

 ラティアが割り込んで、ユージアに向き直った。紙にさらさらと絵を描く。壁みたいなもの。それを叩いている棒人間。壁にヒビが入っている絵。

「Juzia... ĉi tio. Ĉu vi povas?」

 壁を壊す?結界を壊す?ユージアは自分の手を見下ろした。金色の光はもう消えている。治す力はある。でも、壊すような力は……。

「Aŭ io ajn alia. Lumo, fajro, vento, io. Ne nur kuraci.」

 ジェドが苛立ったように指を鳴らした。しかしその目は責めているのではない。切実に、答えを求めている目だ。でも壊すならカシューやミルアの方が強い。それに大事な結界だ。壊していいものでもない。

「Mi ne...」

 ユージアは殴る真似をして首を振った。

「...Ne povas.」

 ジェドがユージアの仕草を見て、殴る真似をして首を振る。戦えない、壊せない、という意味だろう。ジェドの眉間に皺が寄る。

「Do, nur kuraci? Nenio alia? Specialaj magiaj iloj, aŭ io simila. Ĉu vi havas iajn specialajn ilojn?」

 ジェドが深く息を吐いて、椅子の背にもたれた。声は厳しいけれど、失望してるわけじゃない。計画を組み直している顔だ。

「Ĵedo, ne urĝu lin...」

「Mi ne urĝas. Mi nur konstatas faktojn.」

 ジェドが地図を指で叩きながら呟いた。

「En similaj barieroj de la pasinta epoko, magio de ambaŭ flankoj estis necesa. Se ĝi malfermiĝas per ago de nur unu flanko, eble necesas speciala ilo.」

 ジェドの視線がリューズに向く。

「Eble ni vizitu la barieron mem. Ni observu ĝin.」

「Al tiu loko... rektalinie, piede dum tago kaj duono.」

「Ni iros per ĉevaloj. La antaŭan fojon ni atingis la barieron senprobleme, sed tio estis escepta kazo. Ni ne riskos denove.」

 リューズが腕を組んで考え込む。ユージアを見て、何か決めたように頷いた。

「Bone. Morgaŭ, post la respondo, ni iru.」

 Ni iru、みんなで行く?どこへ?わからない。でもリューズはユージアを指差した。そこにユージアも含まれている。

 ジェドが地図を広げたまま何か喋っている。早い。知らない単語が滝みたいに流れていく。ラティアが時々ユージアの方を見て、何か説明しようとするけれど、正直、まったくわからない。わからないけれど、真剣だ。みんな。ぼくのために。

 わかったのは、ni、みんなで、iru、行く、それからジェドがフードを指差して首を振った仕草。角を隠せ、ということ。ジェドが紙に何か書いている。数字と、矢印と、太陽の絵が二つ。ラティアが地図の丸い円をぐるぐる指でなぞった。

「Juzia!」

 ラティアがユージアの手を取った。地図の円を指差して、それからユージアを指差す。

「Ĉi tio... vi, hejmo?」

 hejmo。新しい言葉。ラティアの指が示しているのはあの丸い円だ。結界。ぼくの住んでいた場所。ぼくの家。胸がどくんと鳴った。

「Ni iros ĉi tien.」

 ラティアが地図の円をとんとん叩いて、にっこり笑った。帰れるかもしれない。そう思った瞬間、目の奥がじわっと熱くなった。泣くな。泣くな。まだ何もわかってないんだから。

「Mi hejmo... tre ĉarma.」

 ユージアが地図の円を指先でそっと撫でた。mi hejmo。ぼくの家。tre ĉarma。とても素敵。声が少し震えたのは、自分でもわかった。

「......」

 ラティアが黙ってユージアの背中をさすった。何も言わず、ただゆっくりと。

 ジェドが地図を畳んで立ち上がった。ユージアの方をちらりと見て、何か言いかけて、やめた。代わりに真面目な声で話しだした。

「Latia. Hodiaŭ instruu al ĝi bazajn vortojn por vojaĝo. Marŝi, halti, danĝero, akvo, manĝo.」

「Jes! Kompreneble!」

 ラティアが目を拭っているユージアの前に回り込んで、しゃがみ込んだ。覗き込むように。

「Juzia. Ni iros al via hejmo. Kune. Mi, Rjuzu, Ĵedo, kaj vi. Kvarope!」

 指を四本立てる。四人。

「Ni promesis, Juzia.」

 リューズが静かに言った。前を向かせるような、確かな響きがあった。大きな手がユージアの肩を包む。

「Ni helpos vin reiri hejmen.」

 hejmen。hejmoに似ている。家。家に帰るんだ。

「Jes.」

 たった一言。でもその一言に、ありったけの気持ちを込めた。ラティアが嬉しそうに頷いて、さっそく紙を広げた。今日の授業の始まりらしい。

「Bone! Do, vojaĝ-vortoj! Unue...」

 ラティアが二本の指をテーブルの上で歩かせる仕草。

「Marŝi! Iri, marŝi!」

 歩く。次にぴたっと指を止めて。

「Halti!」

 止まる。それから両腕でバツを作って、怖い顔。

「Danĝero!」

 危ない。ユージアは一つずつ頭に刻んでいく。marŝi、halti、danĝero。


 その日は長かった。ラティアは根気強く、何度でも繰り返してくれた。リューズは旅の準備で出たり入ったりしながら、時折ユージアの発音を聞いてにっと笑った。ジェドは部屋に帰ったと思えばすぐに出ていき、夕方になってようやく戻ってきた。

「Mi luis ĉevalojn por morgaŭ. Tri ĉevaloj, la ŝafido rajdos kun Latia.」

「Bone.」

「...Rjuzu. Kaj ankoraŭ io.」

 ジェドが声を落とした。ユージアの方をちらりと見てから。

「En la gildejo, mi vidis tri afiŝojn pri magiaj bestoj. La rekompenco plialtiĝis.」

 リューズの目が鋭くなった。

「...Kiom?」

「Tiom alta, ke eĉ stultuloj komencos ĉasi.」

 沈黙が落ちた。二人の視線が一瞬だけユージアに向いて、すぐに逸れた。

「Ni rapidu. Ne estas tempo por atendi la leteron. Ni ekiros antaŭ sunleviĝo.」

 真剣そうな二人に気がそれる。リューズとジェドの空気が変わった。さっきまでの穏やかさが消えて、何か硬いものが二人の間を流れている。何を言っているのかはわからない。でも表情はわかる。何かよくない話だ。ユージアがじっと二人を見つめていることに、リューズが気づいた。

「...Juzia.」

 リューズがしゃがんで、ユージアと目線を合わせた。

「Ne timu. Ni estas ĉi tie.」

 安心させようとしてる。大丈夫だって。言葉はわからないけど、たぶんそういうことだ。リューズの茶色い目が真っ直ぐにこちらを見ている。

 ジェドの方は、表情が硬く、声も低かった。

「Rjuzu... ne ĉio okazas kiel oni volas. Tion vi scias pli bone ol iu ajn.」

 一拍置いて、ジェドが視線を逸らしながら付け足す。

「...Pensu foje ankaŭ pri mi, kiu ĉiufoje devas sekvi vin. ...Nur ne refaru tion.」

「Estas en ordo. Mi scias, kion mi faras. Pardonu, ke mi kuntrenas vin denove.」

 ジェドが鼻を鳴らした。でもそれ以上は何も言わない。ジェドの外套の隙間から、内ポケットの丸めた地図がちらりと見えた。

「...Frue dormu, ĉiuj. Ni ekiros antaŭ sunleviĝo.」

 ジェドが階段を上がっていく。その背中が暗がりに消える直前、一瞬だけ振り返った。

「Ŝafido. Morgaŭ ni iros. Vi komprenas "iru," ĉu?」

 行く。ユージアは頷いた。

「Bone.」

 それだけ言って、ジェドは消えた。

「...Bonan nokton, Juzia. Morgaŭ estos longa tago.」

 ラティアがユージアの頭をぽんと撫でた。明日だ。家に向かう日だ。

「Bonan nokton, Latia, Rjuzu.」

 リューズが手を振り返してくれた。ラティアが部屋まで送ってくれて、毛布をぽんぽんと叩いてみせる。寝なさい、という仕草。一人になった部屋で、ユージアは毛布にくるまった。昨日よりも少しだけ、この匂いに慣れた気がする。明日は家に向かう。ni iru。みんなで行く。ぼくの家へ。

 目を閉じる。さっきのリューズとジェドの顔。声を落として話していた、あの硬い空気。何の話だったんだろう。ジェドが何かを言って、リューズの顔が険しくなった。あの時二人の目がユージアに向いた。わからない言葉ばかりで、何も聞き取れなかった。壁の紙を思い出して胸がざわついた。角は、隠さなきゃ。ユージアは毛布をぎゅっと握りしめた。

 リューズは「大丈夫」って言ってくれた。ジェドも「行くぞ」って言った。ラティアも一緒だ。……大丈夫。信じよう。明日、家に近づける。今はそれだけを考えることにした。そう言い聞かせて、ユージアは目を閉じた。

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