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10.ぼくは怖くない

 まだ空が藍色で、町が起きる前の時間。こんこんこん、と扉が三回鳴った。ラティアの合図だ。ユージアは毛布から這い出して、寝ぼけまなこで扉を開けた。

 廊下にはリューズが立っていた。重量感のある大剣が腰から下げられている。

「Bonan matenon. Pretas?」

 ユージアはこくりと頷いた。もう出られるかを聞かれている。

 階下に降りると、ジェドが宿の入口で腕を組んで待っていた。外套の下にメイスが見える。外には三頭の大きな動物が繋がれていた。

 馬。大きい。とても大きい。ユージアよりよっぽど大きい。本で見たことがあるだけの、アイレアにはいない動物だ。

「Ŝafido, vi rajdos kun Latia. Ne falu.」

 ジェドがユージアと馬を交互に指差して、ラティアの方へ促した。

「Juzia! Venu, ni rajdos kune!」

 ラティアが白い馬の横に立って手を伸ばす。朝の冷たい空気に白い息が混じった。

 ユージアは馬を見上げた。鼻先が湯気を吐いている。目が大きい。怖くはない。ただただ大きい。

「Ne timu, ŝi estas milda. Venu!」

 ラティアが先に馬に跨がって、ユージアに手を差し伸べた。恐る恐る手を取る。

 ラティアの手はリューズに比べれば小さいけれど、しっかりとユージアを引き上げてくれた。馬の背は思ったより高い。地面が遠い。ユージアの足がもがくように宙を掻いて、どすん、とラティアの前に収まった。

「Jen! Bone, bone. Tenu vin ĉi tie.」

 ラティアがユージアの手を取って、鞍の前部に掴まらせた。背中にラティアの体温が当たる。

 馬がぶるると鼻を鳴らした。ユージアの匂いを嗅ぎたいのか、首をぐるっと曲げてくる。

「Ĉiuj pretaj?」

 リューズが慣れた様子で先頭の馬に跨がっている。朝焼けを背に、その姿は堂々として、迷いがない。

「Ni iru. Antaŭ ol la urbo vekiĝos.」

 ジェドが馬の腹を蹴った。三頭の馬が静かに歩き始める。町はまだ眠っている。石畳に蹄の音だけが響いた。

 町の門を抜けると、広い道が伸びていた。朝霧が地面を這っている。右手に森。左手に丘陵地帯。ピクニックをした丘を思い出して、ぎゅっと手を握った。

 馬が速度を上げる。風がフードを攫おうとして、ユージアは慌てて片手で押さえた。

「Juzia, ĉu vi fartas bone?」

 ラティアの声が耳元に届く。心配そうな響きだ。

 ユージアが振り返って笑ってみせると、ラティアの肩から力が抜けた。

「Bone! Vi ridetas, do vi fartas bone!」

 馬が駆ける。風が頬を打つ。朝霧が体をすり抜けていく。はばたくカシューに引っ張られている時のように、地面が飛ぶように流れていく。

 しばらく走って、リューズが速度を落とした。道の脇に小さな川がある。馬に水を飲ませるらしい。

「Ripozu iomete.」

 リューズが馬から降りて、周囲を見回した。癖のように。警戒を怠らない人だ。

「Duono de la vojo. Se ni daŭrigos ĉi tiun rapidecon, ni atingos antaŭ sunsubiro.」

 ジェドが水筒をユージアに放り投げた。

「Trinku, ŝafido. Vi estas pala.」

 Trinku、飲め。昨日覚えた言葉だ。ユージアは水筒を受け取って口をつけた。冷たい水が喉を潤す。

 川のせせらぎの向こうに、森が広がっている。深い緑。奥が暗い。あの方角に、アイレアがあるはずだ。

 ユージアの胸がざわめいた。近づいている。確かに。

 その時、森の奥から鳥が一斉に飛び立った。ばさばさと異常な数の羽ばたきに、警告しあうような鳴き声が混じる。

「Ĵedo.」

「Mi scias. Io moviĝas en la arbaro.」

 ジェドがメイスを握り直した。リューズの手が大剣の柄に伸びる。

 三人の様子に、ユージアは小さく問いかけた。

「Danĝero?」

 ユージアの抑えた声に三人が一斉に振り返る。danĝero、昨日ラティアが教えてくれた言葉。危険。

「...Jes. Eble.」

 リューズが大剣を抜いた。鈍い銀色の刃が朝の光を弾く。

「Juzia, restu malantaŭ mi.」

 ラティアがユージアの前に立った。杖を構え、庇うように。

 森の中から音が近づいてくる。枝が折れる音。地面を蹴る音。一つじゃない。複数。

 茂みが裂けた。

 飛び出してきたのは、魔物ではなかった。

 ニンゲンだ。三人。武装している。革鎧に短剣、弓。冒険者だろうか。しかしリューズたちとは違う。目つきが違う。ぎらぎらしている。獲物を追う目だ。

 先頭の男がリューズを見て足を止めた。それからジェドを見て、ラティアを見て、ユージアを見た。フードの隙間から覗く、モコモコの毛。

「...Heh. Rigardu tion, fratoj. Ĉu vere tio, kion mi pensas?」

 男がにやりと笑った。腰の短剣に手をかける。

「Fremduloj. Foriru.」

 リューズの声が低い。警告だ。抜き身の大剣を向けたまま、一歩前に出る。

「Trankviliĝu, amiko. Ni nur ĉasas... beston. Vi scias, tiun kun la kornoj. Granda rekompenco nuntempe.」

 Korno、角。ユージアの血が冷たくなった。

 あの男はユージアの角を知っている。ギルドで見た壁の紙、並んだ数字が脳裏にちらつく。

 ユージアの足が震えて、思わず後ずさった。硬い馬の腹に頭がぶつかる。

「Mi diros ĉi tion nur unufoje. Foriru.」

 リューズの声には一切の温度がなかった。大剣の切っ先を向ける。静かな構え。だがその静けさが逆に、触れれば切れる刃物のような緊張感を放っていた。

「Ho ho, kial tiel malamike? Ni povas dividi la rekompencon. Nur la kornoj kaj la felo valoras...」

「《Rapide kuru, fariĝu klingo!》」

 ジェドの詠唱が空気を切り裂いた。風の刃が男たちの足元を抉り、土煙が舞い上がる。三人が慌てて飛び退いた。

「La sekva trafos. Foriru, nun.」

 ジェドの声は平坦で、感情が乗っていない。本気の声だ。

 男たちの顔から笑みが消えた。先頭の男がリューズとジェドを見比べ、忌々しげに舌打ちした。

「...Tch. Ni memoros ĉi tion, heroaĉo.」

 三人が森に退いていく。だが最後に、先頭の男が振り返ってユージアを見た。その目がフードの奥を射抜くように細まり、ニヤリと笑う。

「Ni revidos vin, ŝafideto.」

 茂みが揺れ、足音が遠ざかる。しんとした空気が残された。

「Juzia, ĉu vi fartas bone!?」

 ラティアが駆け寄ってきた。ユージアの肩を掴む。その手も、微かに震えている。

 ŝafideto。わかる。ŝafidoと同じ、ぼくのことだ。でも違う。ぼくを呼ぶジェドの声とあの男の声は全然違う。あれは味方じゃない。

 心臓がまだ早鐘を打っている。あの男の目。ぎらぎらした目。ユージアを見る目。カシューがニンゲンを嫌う理由が、今はっきりとわかった。

 ジェドのŝafidoは、たぶん、あだ名だ。でもあの男のは違う。獲物を呼ぶ声だ。

 ユージアの手が自分の角に触れた。korno。これが、値段をつけられている。

「...Juzia.」

 リューズは男たちが去った方向をしばらく見つめていた。それから大剣を鞘に戻し、ユージアの前に膝をついた。大きな手がフードを直してくれる。角が完全に隠れるように、丁寧に。

「Ni estas ĉi tie. Ĉiam.」

 一緒にいれば大丈夫、そういう響きだった。

「Ni devas rapidi. Ili revenos kun pli da homoj.」

 ジェドが馬の手綱を掴んで引き寄せた。声は冷静だが、動作に焦りがある。

「Latia, rajdigu ĝin. Ni galopas.」

「Juzia, venu. Forte tenu vin, ĉu bone?」

 ラティアがユージアを馬に引き上げる。今度はきつく抱え込むように、腕が回された。

「Mi ne lasos vin fali. Promeso.」

 馬が駆け出した。さっきより速い。風がフードを引き剥がそうと唸る。ユージアは鞍にしがみついた。

 ぼくは弱い。戦えない。逃げることしかできない。

 カシューなら、あの男たちを一睨みで追い払えただろう。ミルアなら翼で空に逃げられた。でもぼくは、ただの羊だ。

 それでも、この三人がいる。ぼくを守ってくれる人たちがいる。だから今は、しがみつく。精一杯、振り落とされないように。

「Ni estas ĉi tie. Mi ne timu.」

 ユージアが呟いた。何度か聞いた言葉を繋ぎ合わせて。ni estas ĉi tie、みんながここにいる。mi ne timu、ぼくは怖くない。

 文法なんて知らない。でも声に出したかった。自分に言い聞かせたかった。

 ラティアの腕がユージアの腰をぎゅっと締めた。

「Jes... jes, Juzia. Vi ne timu. Ni estas ĉi tie.」

 声が少し湿っている。泣いてる?泣きそう?振り返れない。馬が速すぎる。

 次第に大きくなる木々、漂う霧。枝葉の合間に見える空が暗くなり始めた頃、リューズが馬の速度を落とした。

「Jen.」

 リューズが前方を指差す。ユージアは目を見開いた。

 覚えのある空気。霧でよく見えないけれど、肌でわかる。気配が変わる境目。ぴりぴりと、毛先が逆立つ感覚。

 結界から飛び出してしまった、あの場所だ。

「Ĉi tie. Ĉu vi sentas ion, ŝafido?」

 ジェドが馬から降りて、霧の中をのぞき込むように手をかざした。何も見えない。でもユージアには、わかる。

 この先だ。ぼくの家がある場所。この霧と結界の向こうに、カシューとミルアがいる。

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