11.オレンジ色の輝き
ユージアは結界に手を伸ばした。あの時は弾かれた。けど、今は?
恐る恐る指先を寄せて行く。揺らいで見えるその表面に。ぴり、と指先が痺れる。ばちん。手が弾かれた。あの時と同じだ。何も変わっていない。結界はユージアを拒んでいる。外から来るものとして。
ユージアの手がだらりと落ちた。わかっていた。わかっていたけど。ジェドが何か言いながら書き留めている。ラティアがユージアの背中にそっと手を当ててくれた。温かい。でも今は、それすら遠くに感じる。向こうに帰りたい。すぐそこなのに。たった数歩の距離なのに。
リューズが何か言った。ジェドが地図を広げて、指で結界の輪郭をなぞり、何かの目印なのか×印の一つを叩いた。二人の会話が続く。知らない言葉ばかりで内容はわからない。でもジェドが空を見上げたこと、太陽が沈みかけていること、リューズが頷いたこと、それで何となく察した。今日はここまで。
「Juzia...」
リューズがユージアの肩に手を置いた。
「Morgaŭ. Ni trovos la vojon.」
morgaŭ?ユージアは首を傾げた。リューズがラティアを見た。ラティアが少し考えてから、片手で地平線を指差した。沈みかけの太陽。それからぐるりと反対側、太陽が昇る方角を示して。
「Morgaŭ. Kiam la suno revenos.」
夕日、朝日、明日だ。morgaŭは明日。ユージアは小さく頷いた。唇の中で繰り返す。morgaŭ。morgaŭ。明日。
リューズの手がユージアの肩を軽く叩いた。大丈夫だ、と言うように。
大丈夫だと信じるしかない。だって今のぼくには、弾かれた指先の痺れしか残っていないから。
「カシュー、ミルア、Mi hejmo」
ユージアの唇から零れた名前。カシュー。ミルア。ぼくの家。結界の向こうを見つめる。揺らいで見える森の向こう。きっと心配している。カシューは怒った顔で歩き回っているだろう。ミルアは長老のところへ何度も足を運んでいるに違いない。
ユージアの手のひらが、もう一度だけ結界に伸びた。ぴりぴりと痺れるまま、引っ込めない。
「...Juzia.」
ラティアの声が静かだった。いつものお喋りな明るさがない。ユージアの横に立って、同じ方向を見ている。
「Kaŝu... kaj Mirua... viaj amikoj, ĉu?」
kaŝu、mirua。ラティアが名前を繰り返した。友達、という意味の言葉も混ざっている気がした。ユージアは頷いた。目が熱い。泣きはしない。泣かないって決めているから。
「Juzia. Hodiaŭ ne estas la fino. Morgaŭ venos. Mi neniam lasos vin sola.」
リューズが結界の前に立ち、手をかざした。ばちん、と音がして手が弾かれる。ユージアの時よりも激しく。でもリューズはそこに確かにあるものを見据えるように、じっと前を見ていた。
「Mi promesis. Mi kondukos vin hejmen.」
リューズが自分に言い聞かせるように呟いた。
「...La malforta punkto estas pli norde. Morgaŭ ni esploros tie.」
ジェドが地図の北側にある×印を指先で叩く。ユージアは結界から手を離した。指先がまだ痺れている。でも明日がある。morgaŭだ。帰る手段は、まだ見つかっていない。でもゼロじゃない。
「Latia. Amikoj... estas tre ĉarma...?」
ユージアは首を傾げながら言葉を探した。amikojは友達、で合ってる?なんて聞けばいい?amikojは素敵な相手、友達?ラティアが教えてくれた言葉を手探りで繋げている。ラティアが一瞬きょとんとして、それからぱっと花が咲くように笑った。
「Jes! Amikoj estas amikoj! Viaj amikoj estas tre ĉarmaj?」
ユージアが頷くと、ラティアが両手を合わせた。
「Ho! Vi amas tiun! Mi volas renkonti viajn amikojn!」
ラティアがきらきらした目でユージアを見つめている。会いたい、と言っているのだろう。指で結界の向こうを差して、自分を指して、わくわくした顔。
「Latia, ni ne havas tempon por babili.」
ジェドが馬の手綱を引いて、冷ややかに口を挟んだ。でもその目は地図に落ちたままだ。
「Ĵedo, vi estas tiel senkora! Juzia rakontas pri siaj amikoj!」
「Ĝi diris tri vortojn.」
「Tri tre belajn vortojn!」
リューズが小さく笑った。馬の背を撫でながら、空を見上げている。もう暗くなってきた。
「Ni tendaru ĉi-nokte, proksime al la bariero. Morgaŭ frue, ni iros norde.」
リューズが地面を指差して、眠る仕草をした。ここで野営する、ということだ。結界のすぐ傍で。家の近くで眠れる。結界の壁一枚向こうに、カシューがいるかもしれない場所で。それだけで、少し息がしやすくなった。
言葉が足りない。ありがとう、嬉しい、心強い。胸の中にあるのに、口から出てこない。だから体で示すことにした。
ユージアはリューズの腰に腕を回して、ぎゅっとしがみついた。リューズの大きな体がほんの少し硬直した。でもすぐに、ぽん、と大きな手がフードの上に置かれ、不器用に撫でてくれた。
「...Heh. Vi estas bona knabo.」
低い声が笑っている。温かい響きだ。それだけで伝わった気がした。ユージアはリューズから離れると、くるりと向きを変えた。森に行こうとしていたジェドの外套の裾を掴む。ジェドが怪訝な顔で振り返った。
「Kio? Mi iras kolekti brullignon.」
文句を言っているのはわかる。でもユージアは構わず、その細い体にえいっと抱きついた。
「He...! Kion vi faras, ŝafido!? Foriru!」
ジェドが慌てた声を出す。メイスが腰でがちゃんと鳴った。体が硬い。石みたいだ。それでもユージアは離れない。ありがとう、と心の中で繰り返す。たくさん調べてくれたこと。魔法で守ってくれたこと。
「Ho! Juzia, vi estas tiom aminda! Ĵedo, ne estu tiel rigida!」
「Li estas stranga! Kaj varma!」
ジェドがユージアの肩を押しのけようとする。でも力は弱い。焦っているのか、顔が赤く見える。ユージアがぱっと離れると、ジェドは二、三歩後ずさった。
「...Mi... mi iras por kolekti brullignon. Ne sekvu min!」
早口で言い捨てて、ジェドは森の中へ消えていった。逃げるみたいに。
「Haha, vi surprizis lin.」
リューズが楽しそうに笑っている。ラティアもくすくす笑いながら、馬を繋ぎ始めた。空のオレンジ色の残りが結界の向こうに吸い込まれていく。今夜は、家のすぐ傍で眠れる。それだけで胸が温かい。
それぞれが野営の準備に取りかかっている。
「Mi...」
リューズが道具を広げ始めるのを見て、ユージアはそれらを指差した。自分を指す。手伝いたい。それくらいは伝わるだろう。リューズが振り返って、ユージアの指の先を見た。天幕の布と、金属の杭。それから火打ち石と乾いた藁。
「Ho? Vi volas helpi?」
リューズがにっと笑って、天幕の杭を一本ユージアに手渡した。それから地面を指差して、叩く仕草。
「Jen. Enbatu ĉi tie.」
杭を地面に打ち込む。そういうことか。ユージアは杭を受け取った。重い。思ったより重い。ふらつきながら、リューズが示した場所にしゃがみ込んだ。石で杭を叩く。全然入っていかない。地面が硬い。
「Haha, iom pli forte!」
リューズが自分の杭をがん!と一発で打ち込んだ。半分以上が地面に沈む。同じ道具なのに。腕の長さも太さも違いすぎる。ユージアは唇を噛んで、もう一度石を振り上げた。こん。こん。少しだけ入った。
「Juzia, vi estas laborema! Venu, mi montros al vi kiel fari fajron poste!」
杭がようやく半分まで沈んだ頃、ラティアが薪を抱えて戻ってきた。手のひらがじんじんする。でも、役に立てている。それが嬉しかった。ただ守られるだけの羊じゃない。少しでも。この杭だけでもちゃんと打ち込みたい。
石が杭の頭を叩く。手のひらが赤い。じんじん痛む。でも止めない。カシューならこんなの一発だ。ミルアだって片手で済ませるだろう。でもぼくはぼくで、ぼくの腕でやるしかない。がつん!石が滑って、親指を打った。
「……っ!」
痛い。すごく痛い。でも声は出さない。涙をこらえて手を振って、もう一度石を握り直す。じわじわと杭が沈んでいく。あと少し。ガン!とひときわ大きな音とともに、杭の頭が地面と同じ高さまで沈んだ。できた!
「Ho! Bonege, Juzia!」
リューズが親指を立ててみせた。大したことじゃないのかもしれない。杭一本。でもリューズの声は本気で褒めてくれていた。ユージアは赤くなった手のひらを見下ろした。嬉しい。小さなことだけど、自分にもできることがあった。
「Juzia! Via mano ruĝiĝis!」
ラティアが駆け寄ってきて、ユージアの手をひょいと取り上げた。赤く腫れた親指を見て眉をひそめる。
「Vi vundis vin... atendu, mi kurac...」
ラティアが詠唱しかけた。でもその前にユージアの手のひらが淡く金色に光った。痛みがすうっと消えていく。
「......!」
ラティアが目を丸くして、ユージアの手を見つめている。それからふっと、柔らかく笑った。
「...Vi ne bezonas min por tio, ĉu?」
少し寂しそうな声だったが、手をさすってくれる手つきは優しかった。
次は火だ。ユージアは焚き火用の薪の山を指差した。
「Fajro! Jes, venu venu!」
ラティアが嬉しそうに手招きする。薪の前にしゃがんで、火打ち石と乾いた藁を並べた。
「Rigardu. Unue, metu la sekajn herbojn ĉi tie...」
ラティアが藁を薪の下に詰め込んで、火打ち石を二つ合わせて見せた。かち、かち、と火花が散る。
「Kaj frapu... tiel!」
かちん!小さな火花が藁に飛んで消えた。もう一回。かちん!今度も駄目。
「Ve, mi ĉiam malsukcesas pri tio...」
ラティアが頬を膨らませた。得意じゃないらしい。ユージアに火打ち石を渡して、やってみて、と目で促す。
ユージアは石を打ち合わせた。かち。火花が飛ぶ。でも藁には届かない。もう一回。かちん。近い。もう一回、かちんっ!
小さな橙色の光が藁に宿った。ふわっと煙が上がる。
「Blovu! Blovu milde!」
ラティアが口でふーっと吹く仕草をして、ユージアも火種に顔を近づけて、そっと息を吹きかけた。ぼわっ、と火が広がった。薪に燃え移る。パチパチと音を立てて、焚き火が生まれた。
「Bravo!! Vi sukcesis!!」
ラティアがぱちぱちと拍手した。ユージアの顔を暖かい橙色の光が照らす。手が煤で汚れている。照れくさい。
でも、全然嫌じゃなかった。




