12.明日の約束
「Ho. Li faris fajron sen bruligi la tendaron. Impona.」
いつの間にか薪を抱えて戻ってきたジェドが素っ気なく言った。
「Ĵedo.」
ユージアはジェドの名前を呼んだ。ジェドが薪を焚き火の傍に積み足しながら、片眉を上げた。
「Kio?」
ユージアは自分の打ち込んだ杭を指差して、それから薪の山を指差して、最後に焚き火を指差した。胸を張ってみせる。自分も手伝ったと言いたげに。
「……」
ジェドが無言でユージアを見下ろしている。細い目が焚き火の光を反射して、琥珀色に揺れた。
「...Kvar palisoj. Tiam mi aŭskultos.」
淡々とした声。でも、ジェドはユージアの横を通り過ぎる時、ぽん、と肩を軽く叩いた。本当に軽く。風みたいに。
……褒めてくれた?わからない。でもジェドは肩を叩いてから少し足を速めたので、たぶんそうだ。
「Bone, ni manĝu! Mi havas salitan viandon kaj panon.」
リューズが荷物から干し肉と固いパンを取り出した。焚き火の傍に座って、ナイフで肉を切り分けていく。
「Juzia, venu sidi! Manĝi!」
manĝi!知ってる言葉だ。食べる!
ユージアは焚き火の傍に駆け寄って、ラティアの隣に座った。温かい。火の光が周囲の霧をぼんやり照らしている。森の奥、見えないけれど、あの向こうに……。
ふと、ユージアは知っている気配を感じた。
干し肉の塩辛い味が、舌の上で消えた。風の音。火の爆ぜる音。それら全てが遠のいていく。代わりに、心の奥底でずっと鳴り響いていた呼び声が、はっきりと耳に届いた。
跳ねるように立ち上がり、気付けば走っていた。
足がもつれるのも構わず、濃くなる霧の中を駆けていた。向かう先はただ一つ。ぴりぴりと空気が震える、あの見えない壁。
……いた。
月明かりが、結界の向こうに立つ二つの影をぼんやりと浮かび上がらせる。燃えるような赤い髪。その隣には大きな黒い翼。黒い影の中、金色の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いている。間違えるはずがない。小さい頃からずっと隣にいた気配。カシュー、ミルア。
ユージアは、叫ぶかわりに結界に両手を叩きつけた。ばちん!と激しい衝撃が腕を駆け上がり、弾き飛ばされそうになる。でも離さない。離してたまるか。
「ユージアッ!!」
結界越しに、くぐもった叫び声が届く。カシューの声だ。怒りと安堵と、その他たくさんの感情がぐちゃぐちゃに混ざった、切羽詰まった声。
「ユージア!ああ、よかった……!本当に、無事なのね……!」
ミルアの声は涙で滲んでいる。翼が彼女の震える肩を包むように揺れていた。
二人がそこにいる。たった数歩の距離に。でもこの透明な壁が、その数歩を絶望的なほど遠いものに変えていた。
「離れろ、ユージア!それに触るな!」
カシューが怒鳴る。でもその声は震えていた。
その時、背後から足音が近づいてきた。
「Juzia!? Kio okazas!?」
ラティアの声。でも振り返る余裕はない。カシューの視線が、ユージアの背後に突き刺さった。金色の瞳孔が、獣のように細く鋭くなる。
「……てめえら」
声の温度が、氷点下まで落ちた。
「あの時のニンゲンか……!ユージアに何をした」
「カシュー、この人たちが手伝ってくれてる。戻る方法を探してくれてるんだ」
ユージアは結界に張り付いたまま、必死に言葉を紡いだ。魔人の言葉で。ちゃんと伝わる言葉で。この人たちは敵じゃない。ぼくを助けてくれている。
カシューの金色の瞳が、ユージアを通り越してラティアを睨みつけている。殺意に近い敵意。黒い翼が広がり、尾が低く揺れた。威嚇の姿勢だ。
「……助けてる?ニンゲンが?」
カシューの声が低く、鉄を擦るような音を含んでいた。
「嘘だろ。こいつらは昔……」
「カシュー」
ミルアが静かに、しかし確かな力を込めてカシューの名を呼んだ。カシューの肩がぴくりと止まる。
「ユージアを見て。怪我してる?痩せてる?怯えてる?」
カシューが黙った。金色の目がユージアを上から下まで舐めるように見た。傷はない。痩せてもいない。怯えてもいない。ただ……泣きそうな顔をしているだけだ。
「……っ」
カシューの拳が震えた。結界に拳を叩きつけようとして……やめた。
「オレがそっちに行く。結界を……」
「駄目よ、カシュー。何度も試したでしょう。出ようと思って出られるものじゃないわ」
カシューが歯を食いしばった。黒い尾が苛立たしげに地面を打つ。
霧の中から、追いついたリューズが近付いてきた。結界の向こうの二人が見える位置に。両手を広げて、武器を持っていないことを示している。
「...Mi ne scias ĉu vi komprenas min. Sed... ni helpas lin.」
カシューの目がリューズを射抜く。言葉はわからない。でもその仕草は明らかだ。
「ユージア。あいつ、何て言った」
「ええと、ぼくもまだちゃんとわからなくて」
ユージアは言葉に詰まった。正直に言うしかない。ぼくだってまだ、彼らの言葉を全部は理解できていない。
「でも、助けてるって言ったと思う。たぶん」
「たぶん、じゃ話にならねえだろ……!」
カシューが結界越しに唸った。黒い翼が苛立たしげに羽ばたく。風が結界の内側で渦を巻いた。
「ユージア。落ち着いて教えて。あのニンゲンたち、あなたに何かした?」
ミルアの声は穏やかだ。でもその夜色の瞳の奥には、もし答えが「はい」なら即座に行動する覚悟が見えた。
「されてない。ごはんもくれたし、寝る場所もくれた。言葉も教えてくれてる。ぼくの角、隠してくれてるんだ。」
「角を隠す……?」
カシューが言葉を切った。その意味を理解したのだろう。ニンゲンの世界で角を晒すことが何を意味するか。金色の瞳が揺れた。
「……そう。それなら、今すぐ危険ということはなさそうね」
ミルアが結界に手を当てた。
「長老に聞いたわ。結界の薄い場所があって、昔は出入口になっていたって。わたしたちも探してる」
「オレが壊す」
「あなたの力じゃ無理よ、カシュー」
「……っ」
カシューの拳が白くなるまで握り締められた。
「ユージア、明日もここに来られる?同じ時間に」
ジェドの地図を思い出してハッとした。
「ちょっと待ってて」
ジェドを呼びに走る。ユージアは霧の中へ駆け戻った。ジェドは薪を組み直しながら、何事かと目を上げた。
「Kio? Kial vi kuras...」
ユージアはジェドの外套の袖を掴んで引っ張った。来て。来て。結界の方へ。地図を持って。
「Oi, ŝafido...!」
ジェドが引きずられるように立ち上がった。リューズとラティアが既に結界の前にいることに気づき、眉をひそめる。そして……結界の向こうに立つ二つの影を見た。
ジェドの足が止まった。
「...Estas ili. La maguloj.」
黒い翼と角。深緑の鷲羽。月明かりに浮かぶ二つのシルエット。ジェドの目が鋭くなった。
カシューの金色の瞳がジェドを射抜いた。
「……また一人増えやがった。おい、ユージア、そいつは何だ。」
ユージアはジェドを指差して、カシューとミルアを指差して、それからジェドの外套の内ポケットをぱんぱんと叩いた。地図。×印。何かの目印。
ジェドは一瞬ユージアを見下ろし……理解した。外套から地図を取り出し、結界に向かって広げた。×印が複数、結界の輪郭上に散っている。
「Ĉi tiuj punktoj. La malfortaj lokoj de la bariero.」
ジェドが×印を一つずつ指で叩く。結界の向こうのミルアが目を見開いた。
「ユージア、あの地図…印がついてる場所は何?」
「ぼくたち、明日ここに行くんだ。ジェドが調べてくれたんだ。ここに行けば家に帰れるかもって」
ユージアは地図の×印を指差しながら、必死に説明した。ミルアが結界越しに目を細めて地図を読み取ろうとしている。
「……北の方ね。二つ……いいえ、三つ印がある?」
ミルアの夜色の瞳が地図上を素早く走った。聡い人だ。結界の内側から見た地形と照らし合わせているのだろう。
「わたしたちも内側から同じ場所に行くわ。どうすれば通れるのか、長老にもう一度聞いてくる」
「殴れば穴が開くかもしれねえ」
「……それも選択肢の一つね」
ミルアが苦笑した。それからジェドを真っ直ぐ見つめた。言葉は通じない。でもミルアは地図上の×印を指差し、それから自分の胸に手を当てた。わたしたちもそこに行く。そういう仕草だ。
ジェドが一瞬息を呑んだ。研究者のような目がミルアの深緑の翼を追い、夜色の瞳を捉え……すぐに逸らされた。
「...Ŝajne ili komprenis. La plej norda punkto... ni renkontiĝos tie.」
ジェドが地図の一番北の×印を指で叩いて、それからミルアに向かって頷いた。
「ユージア。一番北の印ね?明日の……」
ミルアが空を見上げ、太陽の軌道を手で描いた。
「太陽が一番高い時。そこで会いましょう」
「……ユージア」
カシューの声が、ぽつりと落ちた。怒りが抜けて、ただ必死な声だった。
「絶対来い。待ってるから」
「大丈夫、この人たち。友だちだから」
ニンゲンたちを一人ひとり指差す。
「Rjuzu, Latia, Ĵedo, 友だち, amikoj.」
ユージアが一人ずつ指差して、名前を呼んで、それから魔人の言葉とニンゲンの言葉を混ぜて、友達と言った。amikoj。友達。
カシューの顔が複雑に歪んだ。怒りと困惑と、認めたくない何かがせめぎ合っている。
「……友だち」
その言葉を噛み砕くように、カシューが低く繰り返した。金色の瞳がリューズを見、ジェドを見、ラティアを見た。視線に信頼は宿っていない。でも……ユージアが笑っている。無傷で、元気で、笑っている。
「……三日だ」
カシューが吐き捨てるように言った。
「それ以上は待たない。それで帰ってこなかったら、オレが結界をぶち破ってそっちに行く」
「カシュー、だから壊せないって……」
「やる」
ミルアがため息をついた。それから結界越しにユージアを見て、柔らかく微笑んだ。
「明日、一番北の印で。太陽が真上の時。わたしたちも内側から何かできないか試すわ」
ミルアの手が結界の表面に触れた。内側からは……弾かれない。ただ、通り抜けられないだけ。
「ユージア。ちゃんと食べてる?」
心配性のお姉さんの声。聞き慣れた声。胸が締め付けられるほど懐かしい。
「……明日、絶対来いよ」
ユージアは何度も頷いた。声が出なかった。言葉がなくても、頷くことはできる。明日行く。絶対行く。待ってて。
カシューの金色の瞳が、月明かりの中で揺れた。黒い翼がゆっくりと畳まれていく。威嚇が解けた。ただの……心配で仕方ない顔が残った。
「行くわね。明日、太陽が真上の時に」
ミルアがそっと手を振った。深緑の羽根が夜風に揺れる。それから……カシューの腕を引いて、結界の奥の暗闇へ歩き出した。
カシューが何度も振り返った。最後に一言だけ。
「……ちゃんと寝ろよ」
それきり、二つの影は霧の中に溶けていった。
ユージアは結界の前に立ち尽くしている。手のひらがまだ痺れている。でも胸の中は……さっきまでとは全然違う。
会えた。声を聞けた。明日の約束をした。
「...Juzia.」
ラティアがそっと隣に立った。結界の向こう、二人が消えた方向を見つめてから、ユージアの顔を覗き込んだ。
「Viaj amikoj... ili amas vin tre multe, ĉu ne?」
ラティアの声が優しい。amikoj。大事な大事な、大好きな友だちだ。
ユージアは頷いた。焚き火の方からリューズが戻ってきて、毛布をユージアの肩にかけてくれた。
「Dormu. Morgaŭ estos grava tago.」
morgaŭ。明日。大事な日。
焚き火の傍で、ジェドが地図を睨みながら何かを書き込みはじめた。ユージアの気配に気づいて、顔を上げる。
「...Viaj amikoj. La verda... ŝi estas inteligenta.」
ジェドが地図を叩いた。ジェドの口元が、ほんの少しだけ上がっていた。ŝi、彼女?ミルアのことを褒めているらしい。
「Mirua estas tre ĉarma!」
気難しいジェドが友達を褒めていることが嬉しい。ユージアは胸を張ってミルアを褒めた。tre ĉarma、優しくて、とても素敵な人なんだ。
ジェドが片眉を上げた。
「...Mi diris "inteligenta," ne "ĉarma." Estas alia afero, ŝafido.」
ジェドがいつになく落ち着きのない様子で、地図をくるくると丸めながら、ぶっきらぼうに返した。ĉarmaじゃなくてinteligentaらしい。
「Ĵedo, ĉu vi ruĝiĝas?」
「Estas la fajro. Dormu, Latia.」
ジェドが外套を頭まで被って横になった。会話終了の合図。ラティアがくすくす笑いながらユージアの毛布を掛け直してくれた
「Juzia. Morgaŭ, ni ekiros kiam la suno leviĝos. La norda punkto estas... eble tri horoj rajde.」
リューズが焚き火の向こうから、静かに言った。指を三本立てる。三?
「Viaj amikoj venos de la alia flanko. Ni renkontiĝos tie. Kaj ni provos.」
リューズの目が焚き火の光を映して、琥珀色に輝いていた。
「Bonan nokton, Juzia.」
ユージアは毛布にくるまった。結界のぴりぴりする感覚が、背中越しに微かに届いている。この壁の向こうで、カシューとミルアも眠りについているだろうか。カシューは寝られないだろうな。あの人はいつだってそうだ。
明日。morgaŭ。全部うまくいくかはわからない。でも……こんなに星が瞬いている。結界の内側も、外側も、同じ空だ。
「Bonan nokton, amikoj.」
ユージアが覚えたての言葉を、祈るように繰り返した。おやすみ、ともだち。
ラティアが振り返って、柔らかく微笑んだ。
「Bonan nokton, Juzia. Dolĉajn sonĝojn.」
リューズが低い声でbonan noktonと返してくれた。ジェドの外套はぴくりとも動かない。もう寝たらしい。
焚き火がぱちぱちと爆ぜる。ユージアは毛布にくるまりながら、結界の方を向いた。見えない壁の向こうにいる二人を思う。
今夜は、きっとよく眠れる。明日が来るのが、初めて楽しみだ。
ユージアの意識が、ゆるゆると沈んでいく。毛布の端を握りしめたまま。




