13.知りたかった言葉
鳥の声で目が覚める。焚き火はもう消えていて、リューズが水を飲んでいた。
「Bonan matenon. Ni ekiros post rapida manĝo.」
ジェドはもう馬の準備をしている。ラティアが固いパンとチーズをユージアに手渡した。
「Manĝu! Hodiaŭ estos longa tago!」
ユージアも急いで食事を済ませ、馬に乗る。昨日と同じラティアの前だ。霧の中、馬たちが走り出す。目指すは北。地図に書いた一番北の×印。まだ低い朝の太陽が、霧を通して森の木々を柔らかく照らしていた。
「Danĝero?」
ユージアが馬の上から周囲を見回しながら尋ねた。昨日遭遇したあの男たちの目。ŝafidetoと呼んだニヤついた声。このままで終わるとは思えない。
「Hmm... mi ne sentas ion strangan. Sed ni estas singardaj!」
ラティアがユージアの腰をぽんと叩いて安心させるように言った。
「Ĵedo, kiom ankoraŭ?」
「Ĉirkaŭ tri horoj. Ni proksimiĝas al la koro de la arbaro.」
警戒して損はない。ユージアは霧の向こうを見通すように目を細めた。アイレア大森林、迷いの森。この霧立ち込める森をニンゲンはそう呼ぶらしい。
「Ni devas esti singardaj ĉi tie. La nebulo plidikiĝos.」
ジェドが馬の速度を落とした。霧が濃くなっていく。リューズが先頭で大剣の柄に手をかけたまま、周囲を警戒している。
「Restu proksime. Ne disiĝu.」
ラティアの腕がユージアの腰をきゅっと締めた。
でもユージアは怖くない。この霧を知っている。この匂いを知っている。苔と湿った土と、甘い花の香り。
霧の奥で何かが動いたのをユージアは感じ取った。この森の気配を知っている体が、自然と反応する。
でもリューズたちには違う。未知の脅威だ。
「Haltu.」
リューズが拳を上げた。全員が止まる。馬が不安げに鼻を鳴らした。
霧の中から、ずるりと影が滲み出た。四本足。大きい。狼よりも大きい。灰色の毛並みに、苔のような緑が斑になっている。目が三つ。霧を食む獣。アイレアの森に棲むおとなしい魔物で、こちらから手を出さなければ襲ってこない。
でもリューズの手が大剣を抜きかけた。
「《Rapide kuru, fariĝu klin...》」
ジェドが詠唱を始めた。
まずい。
あれは敵じゃない。攻撃したら群れを呼ぶ。この森全体を敵に回す。ユージアは結界の中で何度も教わった。霧喰いを怒らせてはいけない、と。
ユージアは馬の上から身を乗り出して、ジェドの外套の裾を掴んだ。
「Kio!?」
詠唱が途切れた。ジェドが振り返る。ユージアは必死に首を横に振った。
「Ne! Ne!」
霧喰いがゆっくりとこちらを見た。三つの目が、ユージアを捉えてふんと鼻を鳴らした。まるで顔見知りに会ったかのように。
そしてそのまま、霧の中へ溶けていった。
「……」
「...Ŝafido. Ĉu vi konis tiun beston?」
ジェドの声が低い。怒っているのか、驚いているのか。どちらかだ。
「Ĝi estas danĝera?」
危険なのか、と聞かれているのがわかった。ユージアは首を横に振った。
「Ne.」
それからジェドのメイスを指差して、もう一度首を振った。
「Ne.」
「...Do, se ni atakus, kio okazus?」
ジェドがゆっくりとメイスを下ろした。ユージアに何かを聞いている。
手を出したら危ないと伝えないと。ユージアは指を折り曲げて数える仕草をした。そういえば五までの数しか教わっていない。なら、とにかく五匹が沢山だ。
「Kvin, kvin, kvin...」
最後に両手を広げた。それから周囲の霧を指差した。いっぱい来る。この霧の中に、もっといるんだ。
「...Denove li savis nin, ĉu ne.」
リューズが大剣の柄から手を離し、深く息を吐いた。
意図が伝わったことにほっとして、ユージアもまた肩の力を抜いた。伝わって本当に良かった。
そのとき、ラティアがユージアの背中をぎゅっと抱きしめた。
「Dankon, Juzia!」
ラティアの様子にユージアは驚いた。
目覚めてすぐに見る窓の外のような、ふとした時に気付く鳥の歌声のような。胸の奥のモヤモヤを連れて行く丘の上の風のように、その言葉がすっと頭に滑り込んだ。
dankon、ありがとう?
「...dankon?」
ありがとう。これは、ありがとう、だ。一番知りたかった言葉。そう思うと、涙が溢れてきた。ありがとう。そのたった一言に、胸の奥で何かが決壊する。
ずっと言いたかった。リューズが守ってくれた時。ラティアが言葉を教えてくれた時。ジェドが地図を広げてくれた時。杭を打てた時。火を起こせた時。全部、全部、ありがとうって言いたかった。
涙が頬を伝う。
「Juzia!? Ĉu vi fartas bone!? Ĉu vi estas vundita!?」
ラティアが慌ててユージアの顔を覗き込んだ。泣いている理由がわからないのだ。心配してくれている。
ユージアは首を横に振った。違う。違うんだ。嬉しいんだ。
「Dankon, Latia. Dankon, Rjuzu. Dankon, Ĵedo.」
声が震える。発音もめちゃくちゃだ。でも構わない。
リューズが馬を寄せてきた。大きな手がユージアの頭に乗った。フード越しに、角の間を優しく撫でてくれた。
「Ne dankinde, Juzia.」
その声は穏やかで、深くて、温かかった。
「...Tch. Ne ploru sur mia mantelo, ŝafido. Ĝi estas malseka.」
ジェドが顔を背けた。でもその声にはいつもの棘がない。外套の裾を引っ張られたままなのに、振り払わなかった。
「Ohhh, Juzia...!」
ラティアが背中からぎゅうっと抱きしめた。温かい。柔らかい。ミルアとは違う温もりだけど、同じくらい安心する。
dankon、ありがとう。ようやく言えた。
涙を拭って、前を向いた。霧の中を馬が進む。ユージアが先導するように、というより、ユージアの体が反応するたびに、リューズが方向を読み取って馬を導いた。
霧喰いが何度か姿を見せた。でもユージアが手を振ると、三つ目をしょぼしょぼさせて霧に戻っていく。リューズたちは最初こそ身構えていたが、三度目にはもう慣れたようだった。
「...Ĉi tiu arbaro. Ĝi estas plena de magio. La aero mem vibras.」
ジェドが空気中に手をかざした。指先が微かに震えている。魔力を感じ取っているのだ。ニンゲンの感覚が、この森の異質さを拾い上げているのかもしれない。
「Ni proksimiĝas. La koncentrado plialtiĝas norden.」
北に向かうほど、濃くなっている。ユージアにもわかる。肌がぴりぴりする。近くに結界を感じる。それも他の場所とは何かが違う。
そして馬が止まった。
霧が晴れた場所があった。不自然に。まるで何かが霧を押し退けているかのように、ぽっかりと空間が開けている。地面に古い石柱が二本、苔に覆われて立っていた。




