7.角の値段
壁に貼られた紙。黄ばんだ羊皮紙に描かれた角のある魔獣。その下に文字が並んでいる。読めない。けど。
これは、ぼくだ。
いや、違う。ただの、よく似た巻き角を持つ魔獣の絵だ。四つ足の、毛も生えていないトカゲだ。懸賞金?討伐依頼?それとも素材としての値段表?
ガチャリと顔のすぐ横で金属音がした。すれ違った冒険者のベルトに固定されたハンドアックス。ユージアはすぐに目をそらした。あの人は、ただ武器を携帯しているだけだ。ただ、角と同じ高さにあるだけ…。
ユージアの、ラティアの袖を握る指に力がこもる。
「Juzia? Kio...」
ラティアがユージアの視線を追った。壁の紙を見て、息を呑む。
「Ah...!」
ラティアが素早くユージアの前に立ち塞がった。小さな体で紙を隠すように。それから周囲をきょろきょろと見回して、誰もこちらを注視していないことを確認する。
「Ne rigardu tien, Juzia. Venu, venu ĉi tien.」
ラティアがユージアの肩を抱いて、壁から引き離す。カウンターの方へ、リューズの背中が見える方へ。
でもユージアの目には焼きついていた。あの絵の下に書かれた数字らしきもの。大きな数字。あれが何を意味するのか。
リューズがカウンターから戻ってくる。ラティアが早口で何か伝えた。リューズの表情が一瞬、険しくなる。
「...Ni iru. Tuj.」
リューズの手がユージアの背に添えられる。大きな手。昨日魔物を斬った手。その手が今は、守るようにフードの上からユージアの頭を撫でた。
心細い。でもリューズたちの傍なら安心出来る気がして、ユージアはリューズを見上げた。弱音を吐きたくはない。
ユージアの瞳とよく似た茶色い瞳が、じっとユージアを見下ろしていた。言葉は通じない。でも何かを読み取ったと言うように、大きな手がぽん、とユージアの頭を軽く叩いた。
「...Kuraĝa knabo.」
その声は低くて静かで、たった一言なのに妙に胸に響いた。励まされた気がする。根拠はないけど。
ギルドの扉を出ると、外の空気が肺に沁みた。武装したニンゲンたちの群れから離れて、ユージアの肩からほんの少しだけ重荷が落ちる。
「Rjuzu. Mi trovis ion.」
ジェドが路地の角で待っていた。紙の束を抱えている。
「Jen raporto de antaŭ kvindek jaroj pri Perdiga Arbaro en la Granda Arbaro de Ailea. Ĝi mencias, ke el la profundo de la nebulo oni iam aŭdis ion similan al homaj voĉoj, kvankam la aŭtoro konkludis, ke tio estis simple blekado de monstroj.」
「...Blekado?」
「Neniu raporto eksplicite mencias la ekziston de bariero. Se tiu nebulo servas por protekti ĝin, estas anomalie, ke ni sukcesis atingi la randon mem. Eble io misfunkcias en la defenda sistemo de la bariero... nome, en la Granda Arbaro de Ailea.」
ジェドがユージアを見た。昨日とは違う目。値踏みではなく、問題を解こうとする目だ。
「Ni bezonas pli da datumoj. La akademia respondo postulos du tagojn.」
「Do... ni zorgu pri Juzia dume, ĉu ne?」
ラティアがユージアの隣にしゃがみ込んで微笑んだ。
「Du tagojn, Juzia. Ni eltenos!」
ラティアが二本の指を立ててみせる。
真似をして二本の指をたてて、首を傾げる。数だ。どの言葉が二だろう。
「...ni?」
「Ah, ne, ne!」
ラティアがくすくす笑って首を振る。自分を指差して。
「Mi, Latia. Ni, ni ĉiuj.」
自分、リューズ、ジェド、ユージアを順番に指差して丸く囲む仕草。それから二本指をもう一度立てて。
「Du. Du tagoj.」
Duが二だ。二本の指。二つ。
「Ĉu vi nun instruas lingvon surstrate?」
ジェドが腕を組んで壁にもたれている。呆れた声だが、その目はユージアとラティアのやりとりを観察していた。
「Lingvon... fakte, tio estas bona ideo, Ĵedo.」
「...Kion tio signifas?」
「Se ni kunlaboros kun li, ni bezonas interkompreniĝi. Latia, ĉu vi povus instrui bazajn vortojn?」
「Jes! Jes jes jes! Mi instruos!」
リューズの言葉にラティアが飛び跳ねんばかりに手を叩いた。ユージアの両手をぎゅっと掴む。
「Juzia! Mi instruos al vi! Du... du! Unu, du!」
指を一本、二本と立ててみせる。目がきらきらしている。言葉だ。言葉を教えようとしてくれているんだ。
ユージアの胸の奥が少しだけ軽くなった。言葉を覚えれば、もっと伝えられる。ありがとうも。帰りたいも。助けてほしいも。
「Mi...?」
自分を指さした。
「Ni...?」
みんなを順番に指さした。
「Jes!! Bone, bone!」
ラティアが大きく頷いて、ユージアの手を握ったままぴょんぴょん跳ねる。
「Mi, mi estas mi! Ni, ni estas ni! Tre bone, Juzia!」
「...Ĝi almenaŭ estas talenta lernanto.」
ジェドが壁から背を離して歩き始める。その呟きは小さかったけれど、声には棘がなかった。
「Ni iru reen al la gastejo. Pli bone estas instrui interne.」
リューズが宿の方向を示す。通りに人が増えてきている。ユージアは外套のフードをぎゅっと握りしめた。角の形が浮き出ないよう気をつけながら。
宿に戻ると、ラティアが食堂のテーブルに陣取り、鞄から紙とペンを取り出した。目の前に座らされ、即席の授業が始まった。
「Do! Unu, du, tri, kvar, kvin!」
指を一本ずつ立てながら、ゆっくりはっきりと発音する。それから紙にりんごの絵を描いて。
「Pomo!」
次にパンの絵。
「Pano!」
水の入ったコップを指差して。
「Akvo!」
ラティアの目がきらきらしている。教えるのが楽しくて仕方ないらしい。
リューズはカウンター近くで宿の主人と静かに話し込んでいる。ジェドは隅の椅子で本を開いているが、時折こちらに目を向けていた。ユージアの発音を聞いて、微かに眉を動かす。悪くない反応だと思いたい。
「Mi esta mi.... Mi esta... Juzia...?」
「Jes! Preskaŭ, preskaŭ!」
ラティアがぱっと顔を輝かせる。嬉しそうに前のめりになって、自分の胸を叩いた。
「Mi es-tas Latia. Es-tas! Aŭskultu, la fino... sssss.」
ラティアがes-tasの語尾を強調する。唇の隙間からスという音を長く響かせる。ヘビが威嚇するみたいに。
「Ĝi jam komprenas gramatikan strukturon en malpli ol unu tago... interese.」
ジェドが本から顔を上げた。言葉を組み立てようとするユージアに好奇心を刺激されたようだ。
「Juzia estas tre lerta! Do, provu denove! Mi es-tas Latia, kaj vi...」
ラティアがユージアを指差す。もう一度と促すように、期待に満ちた目でじっと見つめている。
リューズがいつの間にかカウンターから戻ってきて、温かい飲み物をユージアの前に置いた。湯気の立つカップ。甘いミルクの匂い。
「Malrapide, Juzia. Ne hastu.」
大きな手がテーブルをとんとんと叩く。ゆっくりでいい、とでも言うように。その優しい響きに、ユージアは少しだけ肩の力を抜いた。
「Mi estas Juzia.」
「Perfekte!! Mi estas Juzia! Jes, jes!」
ラティアが両手を合わせてぱちぱちと拍手する。椅子から立ち上がりかけるほど喜んでいる。
「Kaj vi diru... vi estas Juzia, mi estas Latia, li estas...」
リューズを指差す。
「Li estas Rjuzu!」
それからジェドを指差す。
「Li estas Ĵedo!」
li。あの人、という意味だろうか。miが自分、niがみんな、liが誰か一人。ユージアの頭の中で、少しずつ欠片が繋がっていく。
「...Latia. Nur substantivoj ne sufiĉas. Instruu verbojn.」
ジェドが本を閉じて、テーブルに歩み寄った。ラティアの描いた林檎の絵の横に、さらさらと何か書き足す。棒人間が林檎を食べている絵。矢印。口。
「Manĝi.」
食べる、という仕草をしてみせた。それから水のコップを指差して、飲む仕草。
「Trinki.」
ぶっきらぼうだけど、教えてくれている。ユージアが顔を上げると、ジェドは目を逸らした。
「...Ne rigardu min tiel. Mi nur volas ke la komunikado estu efika.」
リューズがカップを傾けながら、口元の笑みを隠していた。
「Mi...」
自分を指す。
「Ni...」
みんなを順番に指す。
「Li...」
ジェドを指す。
少し考えて、目の前のラティアを指さした。li?でもさっきリューズとジェドがliだった。ラティアは何か違う気がする。
「Ho! Bone, bone!」
ラティアが嬉しそうに人差し指を立て、リューズを指差した。
「Li, Rjuzu.」
ジェドを指差して。
「Li, Ĵedo.」
それから自分の胸に手を当てて、ゆっくりと。
「Ŝi, Latia.」
ŝi。新しい音だ。ラティアの指が一巡してユージアを指さした。
「Li, Juzia.」
男と女で呼び方が変わるらしい。ユージアの頭の中に小さな棚ができていく。mi、ni、li、ŝi。自分、みんな、彼、彼女。
「Kaj vi estas vi. Sed ne tro rapidu.」
ジェドがviと繰り返しながらユージアを指差した。あなた、だ。
「Latia, Ĵedo. Tagmanĝo.」
リューズが皿を並べる。湯気の立つスープと厚切りのパン。ユージアの胃がきゅるると鳴って、ラティアが吹き出した。
「Juzia volas manĝi!」
manĝi。食べる。さっきの言葉だ。ユージアは思わず頷いた。通じた。少しだけ、通じた。
道のりは長そうだけど、少しずつ前に進んでいる気がする。
スープを啜る。さっきよりも塩辛さに慣れてきた。パンをちぎってスープに浸すと、じわっと柔らかくなった。リューズがそうやって食べているのを真似してみたのだ
食事中、三人の会話が耳に入る。意味はわからない。でもniという単語が何度か出てくる。みんな。ぼくたち。niのあとには行動を表す言葉が続く。みんなで何かをすることについて話している。その中に、ぼくも含まれている。そう思うと、少しだけユージアの孤独が和らいだ。
昨日は何もわからなかった。でも今日はほんの少しだけど、わかる。
「...Rjuzu. Dum ni atendas la respondon, ni bezonas monon.」
ジェドがスープの皿を押しやった。眉を寄せている。
「Aa... la gastigado de Juzia ankaŭ kostas.」
「Ĝuste. Ni akceptu taskojn. Urĝaj misioj donas bonan rekompencon.」
リューズが頷いて、ユージアの方を見た。少し考え込むような顔。それからラティアに目を向ける。
「Latia. Ĉu vi povas resti kun Juzia dum ni laboras?」
「Kompreneble! Ni daŭrigos la lecionon, ĉu ne, Juzia?」
ラティアがにっこり笑ってユージアの方を向いた。紙とペンを掲げてみせる。
まだまだ言葉を教えてくれるらしい。
「Se io okazos, forkuru al la preĝejo. Latia, vi scias, kie ĝi estas.」
「Mi scias, mi scias! Iru trankvile!」
ジェドが立ち上がりざま、ユージアの頭をちらりと見た。
「...Ne demetu la kapuĉon, ŝafido.」
フードを指差して、軽く自分の頭を叩く仕草。外すな、という意味だろう。ユージアは頷いた。
リューズとジェドが外套を羽織り、武器を確認する。リューズが大剣の柄を叩き、ジェドがメイスの先端を指で弾いた。仕事に行くのだ。冒険者の仕事。魔物を倒したり、何かを運んだり、そういう危険なこと。
「Ni revenos antaŭ vespero. Latia, mi fidas vin.」
リューズがユージアに向かって手を振る。大丈夫だ、と言うように頷いてみせてから、扉の向こうに消えた。
「Ne kaŭzu problemojn.」
ジェドの最後の一瞥がユージアに刺さる。それから扉が閉まった。




