32.望まぬ邂逅
ただただ痛い。
最初の楔とも、二番目の楔とも違う。飢えた口が魔力を喰らい尽くそうとしている。がぶりと遠慮なく。
体の奥から何かが引き抜かれていく感覚。骨の芯が冷たくなる。指先が痺れる。でも止められない。止めたら、この小さな石が死ぬ。
カシューの手が震えている。歯を食いしばる音が聞こえる。それでも手を離さない。三人とも。
「……もう少し……あと少しだけ……!」
ミルアの声が遠い。楔のひび割れが一本、塞がった。微かに光が戻り始めている。
もっと。もっとくれ。楔がそう貪欲に言っている。三つの中で一番飢えている。誰にも手当てされず、ひび割れたまま耐え続けてきたのだ。
視界が白くなる。膝が笑う。水の底に沈んでいくような……。
「Ŝafido!?」
ジェドの声だ。遠い?声が、すごく遠い……。
「Juzia!!」
誰かがユージアの名前を呼んでいる。でも手は離せない。あと少し。あと……。
「ユージア!!おいっ、意識保て!!」
カシューの叫びが鼓膜を震わせた。金色の瞳が視界の端で揺れている。カシューも限界に近い。翼が帯を引きちぎって広がった。本能だ。守ろうとしている。何から守るのかもわからないまま。
楔の光が脈打った。強く。強く。そして止まった。
吸引が消えた。唐突に。まるで満腹になった獣が口を離すように。
膝が折れた。石の床が頬に当たる。冷たい。気持ちいい。体の中が空っぽだ。骨だけになったみたいだ。
「ユージア、ユージア!!」
カシューが崩れ落ちながらもユージアを抱き寄せた。力なく垂れ下がった翼の黒い鱗が、松明の光を反射する。カシュー自身も唇が青白い。
「……出来た……わ……」
ミルアが仰向けに倒れた。天井を見上げている。目が虚ろだ。でも笑っている。
楔を見る。力を振り絞って首を動かす。
黒い結晶が光っていた。ひび割れが全て塞がって、内側から溢れる光が脈打っている。二千年前と同じ輝きかどうかはわからないけれど、生きている。
三つ目。最後の楔が終わった。
「《Suna beno, donu frukton!》」
ラティアが駆け寄った。白い光がユージアの体を包む。温かい。冷えた体の骨にまで温もりが染みていった。
「Ĉu ili vivas!?」
「Ili vivas. Ĉiuj tri. Ili faris tion.」
リューズの声が震えていた。安堵だ。大剣の柄を握った手から力が抜けている。
「……やった、な」
カシューがユージアの額に自分の額を押し当てた。角と角がこつんと触れた。息が荒い。笑っている。
「帰れるぞ。オレたち、帰れる」
何か気の利いた言葉を返そうと口を開きかけた瞬間、叫び声と松明の光が押し寄せた。揺らめく光が通路を舐める。金属がぶつかり合う音と、足音が反響する。笑い声。獲物を見つけた狩人の笑い声だ。
先頭のニンゲンの顔にユージアは見覚えがあった。あの顔。忘れるものか。アイレアの門の前で、ユージアを追い回したあの顔を。
「Ŝafideto! Ni denove renkontiĝas!」
男が松明を掲げた。顎鬚の、がっしりした体。網を肩に担いでいる。目がぎらぎらしている。楔の光を見ている。ユージアを見ている。ミルアを、カシューの翼を見ている。
「Rigardu, fratoj! Drakonidaj flugiloj! Ili valoras pli ol centmil orajn!」
ニンゲンたちが武器を構えた。槍、剣、網。ユージアたちを囲むように広がっていく。プロの動きだ。魔獣を狩り慣れた連中の。
「触んな」
カシューが立ち上がった。膝が震えている。魔力を絞り尽くした体。それでも翼を広げてユージアの前に壁を作った。金色の瞳が松明の光を反射して燃えている。
「こいつに近づいたら殺す」
「カシュー、無理よ、今の状態じゃ」
ミルアが起き上がろうとして崩れた。指が石の床を掻いた。
リューズが前に出た。大剣を抜いた。鈍い金属音が円形の部屋に響いた。
「Foriru. Ĉi tiuj homoj estas sub mia protekto.」
「......Ho? Ĉu mi konas tiun voĉon?」
顎鬚の男が目を細めた。リューズが首を振って、自分でフードを下ろした。
「Rjuzu Frii! Ha! La heroo de Velgrata!」
男が嗤った。仲間たちも笑っている。
「Vi protektas monstrojn nun? Kiom profunden vi falis! Zanda estos tre interesita aŭdi ĉi tion...」
「Provu. Kaj vidu kio okazas.」
リューズの声が変わった。温かさが消えている。大剣の切っ先が男の喉元に向いた。
七人。武装した七人が迫っている。こちらは立てるのがリューズとラティアとジェドだけ。カシューは立っているが膝が笑っている。ミルアは床に手をついたまま。ユージアもまだ地面に転がったままだ。
「Sep kontraŭ tri? Ne, kontraŭ unu kaj duono. La monstrojn ni kaptos vivantajn. Iliaj partoj valoras pli freŝe.」
男が網を広げた。仲間の二人が左右に回り込む。挟み撃ちだ。
「Ĵedo. Latia. Malantaŭ mi.」
「Mi povas batali.」
「Protektu ilin. Mi konfidas tion al vi.」
リューズが踏み込んだ。一歩。石の床が鳴った。大剣が弧を描く。松明を持った男の槍を叩き折った。柄ごと。
「Ĉ... ĉirkaŭu lin!!」
三人がリューズに殺到した。残り四人がユージアたちに向かってくる。
「来いよ」
カシューが爪を構えた。翼を広げて壁になる。だが体が揺れている。一人は止められても、四人は。
「退きなさい」
ミルアが立ち上がった。
違う。立ち上がったのではない。飛んだ。翼が展開した。深緑の羽が松明の光を吸い込んで、夜色の瞳が冒険者たちを見下ろした。魔力が枯れているはずの体から何かが滲み出ている。殺気だ。純粋で、剥き出しの。
「私の弟たちに触れたら」
ミルアの唇が笑みの形になった。見惚れるくらい美しい。
「!?」
四人の足が止まった。本能だ。美貌の奥に何かを見た。捕食者の目を。
「腕ごと千切るわよ」
光がミルアの指先に集まった。微かだ。ほんの残りかすだ。でもこの距離なら。
「B... blufas... ŝi blufas! Kaptu ŝin!!」
一人が踏み出した。網を振りかぶって。
「《Brulu, gula lango!》」
ジェドのメイスから炎が噴いた。男の足元の石が爆ぜる。直撃ではない。威嚇だ。でも男は悲鳴を上げて後退した。ブーツの先が焦げている。
「Fajro-magiisto!?」
「La sekva trafos vian vizaĝon. Ĉu vi volas testi?」
ジェドの目が冷たい。メイスを構え直した。何発撃てる? 二発か。三発か。向こうもそれを計算しているはずだ。
「《Sankta ŝildo, ĉirkaŭu nin!》」
白い光の膜がユージアたちの前に広がった。ラティアが両手を組んでいる。指が震えているのに、声は凛としている。
リューズの大剣が唸りを上げていた。三人を相手にしながら一歩も退いていない。一人の肩を叩き潰し、もう一人の剣を弾き飛ばした。
「Diable! Tiu viro estas monstro mem!」
「Forgesu lin! Prenu la monstrojn kaj forkuru! La flugiloj sufiĉas!」
二人がリューズを迂回した。ラティアの盾の横から回り込もうとしている。
「させるかよ!」
カシューが飛び出した。爪が弧を描いた。一人の胸当てを引き裂いた。革鎧ごと。男が血を噴いて壁に叩きつけられた。
でもカシューの膝が折れた。着地に失敗して片膝をつく。
「くそ……っ」
「Nun!」
網が飛んだ。カシューの翼に向かって。
「言ったでしょう」
ミルアの指先から風が奔った。微かな、それでも鋭い刃が網を切り裂いた。繊維がばらばらに散る。
ミルアもそこで崩れた。崩れたまま地面に落ち、石に打ちつけられた。ミルアもカシューも、もう力が残っていない。からっぽだ。
「Ili estas elĉerpitaj! Nun, ĉiuj samtempe!」
残った四人が一斉に踏み込んだ。
「SUFIĈAS!!」
轟音。リューズが背後の三人目を蹴り飛ばし、振り返りざまに大剣を石の床に叩きつけた。衝撃波が円形の部屋を震わせた。全員の足が止まる。天井から石片が降った。
「La sekva, kiu moviĝos, perdos sian kapon. Mi ne blufas.」
リューズの目は笑っていなかった。大剣の刃に血が伝っている。彼のものではない。
沈黙。松明が揺れている。冒険者たちの顔に恐怖が浮かんだ。
「...Zanda aŭdos pri ĉi tio. Vi estos pendigita, Frii.」
顎鬚の男が唾を吐いた。仲間を引きずって退いていく。闇の中に消えていく。足音が遠ざかる。
静寂。
「...Ni devas foriri. Nun.」
リューズが大剣を鞘に戻した。振り向いた顔は、ひどく疲れてみえた。




