31.最後の楔
腐った水と石の匂いの中、リューズが蔦に手をかけると、存外素直に隙間があいて、夜にカーテンをあけたように暗い穴がぽっかりと口を開けた。
「...Ĉarmega.」
ジェドが鼻を覆い、ラティアが眉を寄せた。
「Uf... mi bezonos puran robon poste...」
リューズが振り返り、ラティアとジェドに合図を送る。
「Unu post la alia. Mi unue. Poste Juzia kaj la aliaj. Ĵedo, fermu la kradojn post ni.」
リューズが身を屈めて暗闇に入った。大きな背中が奥へと消えていく。続いた沈黙に胸がざわつき始めた頃、大きな影がうっすらと姿が見える距離まで戻ってきた。
「Venu. Estas sekure.」
声が反響する。中の天井は高いらしい。水は足首まで。冷たい。
「……先に行け」
カシューがユージアの背中を軽く押した。後から入りたいのだ。背後を守るために。
「楔の気配、さっきより強いわ。近づいてる」
ミルアが囁いた。瞳が暗闇の中で微かに光っている。
一歩進むたびに小さな水音が立つ。天井から雫が落ちる。古い石組みが続いている。何百年も昔のものなのかもしれない。
脈動が強くなる。近い。楔が呼んでいる。
「Ĉi tien.」
リューズが角を曲がって、すぐに止まった。
「...Kio?」
前方に光がある。松明の光だ。この忘れられたような水路に、誰かがいる。
光の中でいくつかの影が揺らめいている。気づかれてはいない。
いくつかの影が重なるように踊る。松明の明かりで影が壁に揺れている。低い笑い声。金属の擦れる音。武装している。
リューズが片手を上げた。止まれ、の合図。全員が水の中で凍りついた。
リューズが壁に背中を押し付けて、角から覗いた。数秒。それからジェドの耳元に口を寄せた。
「Ses homoj. Armitaj. Ne kavaliroj, aventuristoj, verŝajne.」
「Kion ili faras ĉi tie?」
「Mi ne scias. Sed ili blokas nian vojon.」
ジェドが眉を寄せた。角の向こうを自分でも確認して、戻ってきた。
「Ili havas kaptilojn. Retojn. Ili ĉasas ion.」
「……何かいる」
カシューが囁いた。金色の目が暗闇を刺す。鼻がひくひくと動いた。
「……血の匂いがする。ニンゲンじゃねえ。魔獣か?」
ミルアの声が震えた。微かに。
「この水路に棲みついた魔獣を、あのニンゲンたちが狩りに来てるのかも」
前方から声が響いた。
「Hej! Ĉu vi aŭdis tion? Io moviĝis!」
「Silentu! Vi ekscitos ĝin!」
松明の光が揺れた。影が動いている。まだこちらには気づいていない。でも、あの集団を抜けなければこの先には進めない。
リューズがユージアを見下ろした。指を口元に立て、下がれと言うように手のひらを向けた。フードの奥の目が真剣だった。
指示通り、下がってぬるつく壁に寄った。
ぬるぬるした苔が背中に貼りつく。冷たい。でも動いてはいけない。水の中で足音を殺す。カシューがすぐ隣にいる。目が動くなと言っている。
リューズがジェドと視線を交わし、ジェドが頷いた。
「Ni atendos. Kiam ili foriros, ni pasos.」
「Kaj se ili ne foriras?」
「...Tiam ni bezonas alian vojon.」
前方で声が上がった。興奮した声だ。
「Jen! Rigardu! La kristaloj estas grandaj ĉi-foje!」
「Pli profunde! Ne difektu la kernon, idioto!」
金属が石を削る音。がりがりと。そして、低い呻き声。獣の、もう力のない声。足元を流れる水に別の匂いが混じる。
カシューの鼻がひくひく動いた。顔が歪んでいる。
「この匂い……角蜥蜴だ。まだ息があるのに、生きたまま剥がれてる……」
ミルアの息が止まった。暗闇の奥を凝視している。
「……ニンゲンは」
それ以上は言わなかった。唇を引き結んだだけだ。でもその目に浮かんだものを、ユージアは見た。恐怖だ。もし正体がばれたら、ぼくたちも同じことをされるかもしれない、という……。
「Rapidu! Se oni trovos nin, estos problemo!」
「Ne hastu. Ĉi tiu besto valoras almenaŭ kvindek orajn. Laboru zorge.」
作業は当分終わりそうにない。水面に広がる鉄の匂い。楔の脈動が、また一つ弱くなった気がする。
リューズが壁を見た。追いかけるように視線を向けると、少し戻った場所で壁が崩れている。瓦礫の隙間は吸い込まれそうなくらい、暗い。
「Tiu truo. Estas spaco malantaŭe. Eble ĝi kondukas suben.」
「Eble. Aŭ eble nenien. Ni ne havas tempon por esplori nekonatajn vojojn.」
「あの向こうに道があるのかも。早く行きましょう。楔が持たないかもしれない」
ミルアが短く言ってユージアを見た。確認するように。感じているでしょう、と。
「……お前が方向を感じ取れるなら、あの穴に入っても楔の方角はわかるだろ」
カシューがユージアの肩を掴んだ。金色の瞳が真っ直ぐだ。
「どうする。待つか、行くか」
ミルアもリューズも、全員がユージアを見ている。楔の位置を最も強く感じ取れるのはユージアだ。判断が、委ねられている。
ユージアは頷いた。
先導するように隙間に身を滑り込ませた。瓦礫が肩を擦る。狭い。カシューは翼の膨らみのぶん苦労している。帯に縛られた翼が石に引っかかって、小さく呻いた。
でも楔の脈動は感じる。右。下。ずっと下。死にかけの鼓動が、来て、と呼んでいる。
暗い。ニンゲンたちには何も見えないだろう。ラティアが何かを呟いて小さな光の珠を掌に灯した。ジェドが首を振った。
「Tro riska. Se la lumo eliras.」
「Nur eta. Ili ne vidos.」
小さな光で苔むした壁が浮かび上がる。横穴は徐々に下っている。良い方向だ。楔はこの先にある。
通路が徐々に下っていく。わずかに冷気が昇ってきた。静かに、慎重に坂道を下る。やがて穴が広がり、急に天井が高くなった。古い、とても古い石組みだ。上の水路より、もっと前の時代のものだ。
「……これ」
ミルアが壁に触れた。指先が刻まれた文様をなぞる。
「私たちの文字よ。これは……」
「神殿か?結界が作られた頃の?」
カシューの声が低い。驚きが混じっている。
脈動が強くなった。近い。すぐそこだ。
通路の先に、空間が開けた。円形の部屋。天井にぽっかりと穴が空いていて、上から微かな光が差し込んでいる。たぶん、あの大きな建物の真下だ。ニンゲンたちはこの上に建てたのだ。知らずにか、あるいは、知っていて。
そして部屋の中央に、それはあった。
楔。
先の二つより小さい。拳ほどの黒い結晶が、石の台座に半ば埋もれている。表面のひび割れが痛々しい。光はほとんど残っていない。まるで最後の一呼吸を待つだけみたいに。
「……良かった。間に合ったわ」
ミルアの声が震えていた。安堵と緊張が入り混じっている。
「Ĉi tio estas?」
リューズが楔を見つめた。それから、天井の穴を見上げた。
「Kiom da tempo vi bezonas?」
リューズの視線がユージアたちの上を行き来する。
「今回は」
ミルアがユージアとカシューを見た。
「三人だけでやるわ。ジェドに前回のような無理はさせられない。Ĵedo, halt.」
ミルアが止めるようにジェドに手を向けた。
「...」
ジェドの足が止まった。ミルアの手のひらが目の前にある。細い指。指先で爪が微かに光っている。
「...Mi povas helpi. Kiel la lastan fojon.」
「Ne.」
短い。強い。ミルアの目がジェドを射抜いている。
「Ne. Komprenas?」
ジェドが口を開きかけた。ミルアの尾がぴしりと地面を叩いた。
「...Halt.」
もう一度。今度はもっと静かに。ミルアの手が微かに震えていた。ジェドもそれに気付いて、一歩退いた。唇を噛んで。
「Ĵedo.」
リューズが彼の肩に手を置いた。
「Ni gardos ilin. Se io okazas, ni estos pretaj.」
リューズが大剣の柄に手を置いた。ジェドも頷いて、メイスを握り直す。見張りに徹する構えだ。
「……さ。始めましょう」
三人で楔を囲み、手を伸ばす。黒い結晶のひび割れが痛い。触れただけでわかる。もう本当にぎりぎりだ。
「……最後だ。出し惜しみはしねえ」
カシューの手がユージアの手に重なった。ミルアの手がその上に。三人の指が楔の表面に触れた。
脈動が弱い。でも応えている。来てくれた、待っていた、そう語りかけるように。
「……はじめるよ」
ユージアの声に二人が頷く。魔力が流れ始めた。




