28.出発
「クソ、情けねえ」
起き上がろうするカシューの腕が震えている。まだ体に力が入らないらしく、舌打ちが聞こえた。
「無理しないの。とにかく休みなさい」
「ユージアの方が疲れてるはずだろ。オレより小さいんだから」
カシューがユージアを見て、にっと笑った。疲れ切っていることがバレバレな顔だけど、笑ってはいる。
「二つ目、終わったな」
残るはあと一つ。ヴェルグラータ。リューズの顔が曇った町。
リューズが川面から視線を戻した。三人が起きたのを確認して、岩から腰を上げる。
「Kiam vi povos moviĝi, ni diskutu pri Velgrata.」
落ち着いた声が全員に届く。でも指先は大剣の柄を握りしめている。
「Tiu urbo... ne estas simpla.」
ジェドが目を開けた。ぼんやりした顔で周囲を見回す。膝の上が空っぽになっていることに何かを探す目をしたが、それもミルアを見つけてすぐに消えた。
「...Ĉu vi fartas bone?」
「Jes. Dankon, Ĵedo.」
「Bone.」
安堵の息。それからもう一度ミルアを見て、視線を避けるように目を閉じた。
川の音が流れている。霧が風に流れていく。
全員がしっかり起き上がれるようになるにはしばらくかかった。陽の光が木陰から差し込む。まだ体は重い。でも、動ける。
ジェドが地図を広げた。北西に指をすべらせて、一点で止まる。
「Velgrata. Laŭ la rivero, probable du tagoj kaj duono.」
「Jes. Mi konas la vojon.」
リューズの声が低い。地図を覗き込む目は、地図を透かした向こう側を見ているようだった。
「Rjuzu, ĉu vi iam estis tie?」
「...Mi estis staciigita tie. Kiel kavaliro.」
ラティアの問いかけに返った声は重く、ラティアは顔を上げてリューズを見た。ジェドは腕を組んでじっと地図を見つめている。
リューズが一度、深く息を吐いた。大剣の柄を握る拳に力がこもる。
「Velgrata... ĝi putras.」
ヴェルグラータという言葉と共に、リューズの表情が歪んだ。
「Mia eksa superulo regas tie. Kiam li detruis senkulpulojn... mi frakasis lian vizaĝon.」
その声には、いつもの温厚さを剥ぎ取ったような、怒りが混じっていた。
ユージアには意味はわからない。でも、その声の震えと、目の奥に宿る暗い影だけで、リューズが自分自身の過去の傷を抉り出していることがわかった。
「Li estas tie. Se ni eniros, vi estos en danĝero. Vi fariĝos liaj predoj.」
リューズが一度だけ、ユージアたちを強く見つめた。その瞳には、かつて見たことのないほど深い迷いがある。
「Mi ne permesos tion. Sed vi devas scii la riskon.」
ユージアにも難しすぎるニンゲンの言葉。でもリューズの目が言っている。不安だと。
「Ni bezonas planon, Rjuzu. Ne emociojn.」
ジェドが厳しい声で言った。
「...Vi pravas.」
リューズが息を吐いた。肩の力が少しだけ抜ける。
「ユージア」
カシューが小声で囁いた。
「あいつ、なんであんなに辛そうなんだ」
こんなリューズを見るのは初めてだった。いつも頼もしく、弱気になった時には励ましてくれるのがリューズだった。
ユージアは普段とは違う様子のリューズを見つめていた。この人は出会った時からずっと、ユージアの盾だった。言葉が通じないユージアのために身振りで笑いかけて、盗賊の前に立ちはだかって、眠る間も見張りを続けて。
そのリューズが今、不安がっている。ぼくたちを連れてその町に行くことに。角があるから。翼があるから。尾があるから。ニンゲンじゃないぼくたちを連れて、リューズは何か傷を抉るような場所に戻らなければならない。
ユージアにできることは少ない。戦えない。言葉も通じない。魔力だって今はほとんど空っぽだ。ただの弱い羊だ。
でも、一つだけ。
ユージアはリューズの傍に歩いていった。小さな手で、リューズの拳に触れた。握りしめて白くなった指に、そっと。
カシューがユージアの背中を見ている。何かを言いかけて飲み込んだ。
ミルアが立ち上がり、リューズの前に歩み出る。言葉は通じない。でもミルアは自分の胸に手を当てて、それからリューズの胸を指差した。夜色の瞳が真っ直ぐリューズを見つめている。
リューズがふっと笑った。
「...Dankon.」
ありがとう。その一語はユージアにも聞き取れた。何度も聞いて、何度も口にした言葉だから。
「Se miaj protektatoj zorgas pri mi... tiam mi ne taŭgas kiel aventuristo.」
リューズが握りしめていた大剣の柄から手を離し、指先を揉みほぐす。
「Bone. Ni bezonas planon. Ĵedo, la mapon.」
声が戻った。いつもの声だ。仲間を率いる、頼もしいリーダーの声。
「Jen.」
ジェドが地図を広げた。町の周辺を指で示しながら、何か策を語り始める。リューズが頷く。ラティアが口を挟む。三人の間に、ニンゲンの言葉が飛び交っている。
隣でカシューが呟いた。
「あいつ……悪い奴じゃねえ、……のかも」
それはカシューにとって、とても大きな言葉だった。
ジェドが地図を叩きながら何かを説明している。リューズが頷く。ラティアが指を折って数えている。計画を立てているのだ。町に入るための。
やがてリューズがユージアたちの方を向いた。
「Juzia.」
リューズが自分の外套を引っ張って見せた。それから頭を覆う仕草。フードを被る動き。ユージアの角を指差して隠す、と両手で覆う動き。
「Pilgrimaj roboj! Mia ideo finfine utilos!」
ラティアが胸を張って、自分の顔を指差した。
「La problemo estas Kaŝu. Liaj flugiloj estas tro grandaj por kaŝi sub robo.」
ジェドがカシューの翼を指差した。眉間に皺を寄せている。
「...Ni povas diri, ke li estas vundita kaj portas dorsoŝelon. Aŭ...」
「Aŭ ni ligu ilin. Forte.」
「……おい。あいつらオレを指差して何言ってんだ」
カシューが警戒心剥き出しの目でジェドを睨んでいる。
「たぶん、あなたの翼や尾の話よ。隠し方を考えてるんでしょう」
「……窮屈なのは嫌だ」
「わがまま言わないの」
ミルアがため息をついた。それからジェドに歩み寄り、自分の鷲羽を背中に畳んで見せた。ぴったり体に沿わせる。これならなんとかなる。
「こう?」
ミルアがジェドを見上げた。
「...Ho.」
ジェドの目が一瞬止まった。ミルアが間近にいる。翼を畳んだミルアは細くて、華奢だ。ジェドが咳払いした。
「J...jes. Tio povus funkcii. Se la robo estas sufiĉe larĝa.」
ジェドの視線が泳いでいる。カシューが気付いて尾を一振り。
「……ユージア」
カシューが小声で囁いた。
「あの魔法使い、様子がおかしい」
ユージアもジェドの顔を見る。いつものしかめっ面に見える。
「……違えよ。音」
カシューが自分の耳を指差した。
「あいつ、ミルアが近づくと心臓の音が変わるんだよ。速くなる」
カシューの金色の瞳がジェドを観察している。魔人の聴覚はニンゲンより遥かに鋭い。
「前からだけど……ミルアを膝に乗せてた辺りから、もっとひでえ」
カシューが鼻で笑った。馬鹿にしているのか面白がっているのか、判断がつかない顔だ。
「何ひそひそ話してるの、二人とも」
ミルアが振り返った。尾の先で房がゆったりと揺れている。ジェドとの距離を詰めたまま。
「別に」
「……怪しい」
ミルアの目が細くなった。でもそれ以上追及する前に、リューズが手を叩いた。
「Bone. La plano estas jena.」
リューズがユージアの前にしゃがんだ。目線を合わせて。ゆっくり、一語ずつ。
「Velgrata. Ni eniros... kiel pilgrimantoj.」
フードを深く被る動作をしている。リューズが自分の顔の横で手をひらひらさせた。見えない、と。
「Vi, Kaŝu, Mirua... silentaj. Neniu parolo.」
「Se vi parolas... homoj scios, ke vi ne estas homoj.」
ラティアがリューズの横で口を押さえて首を振っている。
「……喋んなって言ってんのか」
「でしょうね。当然よ」
ミルアが腕を組んだ。冷静だ。
「フードを被って、黙って歩く。わかったわね」
「Juzia. Komprenas?」
リューズもユージアを見ている。人差し指を自分の唇に当てた。見慣れた、しーっ、の動作。
「Se iu demandas... mi diros ke vi estas mutaj pilgrimantoj, kiuj faris sanktan silentvoton.」
「Tio funkcios... se ili ne vidas la kornojn.」
ジェドがユージアの巻き角を見て、眼鏡を押し上げた。
「Ni bezonas pli profundajn kapuĉojn. Aĉetu antaŭ ol ni eniru.」
「Estas vilaĝo antaŭ Velgrata. Ni aĉetos tie.」
リューズが立ち上がった。霧がもうほとんど晴れている。川が北西へ流れている。その先に目的の町がある。
「Bone. Ni iru.」
リューズが手を差し伸べた。ユージアに。立てるか、と。
リューズの手を取った。ジェドの顔色もマシになった。ぼくたちも冗談が言えるくらいには元気だ。




