26.霧にかすむ視界の中で
走った。どれくらい走ったかわからない。森が深くなり、木々の幹が太くなり、日の光が遠くなった。足元の苔が厚い。霧が音を吸い込んでいく。
リューズが速度を落とした。片手を上げて、止まれの合図。全員が足を止める。荒い呼吸だけが響いた。
「...Sufiĉe. Ili ne sekvos nin ĉi tien.」
リューズが短く告げる。
「Ni venis sufiĉe profunden...」
ジェドが木々の合間から漏れ出る霧を見つめて言った。
「Ni kaŝiĝu en la nebulo. Restu viglaj.」
リューズが周囲を鋭く見回した。濃い霧が足元から這い上がり、視界を遮る。木々の幹が太く、苔が古い。空気が違う。魔力の匂いがする……ユージアにとっては懐かしい匂い。
「あら」
ミルアも足を止めた。ふっと笑う。
「随分森の奥まで入ったのね」
カシューが目を見開いた。この霧。この空気。知っている。結界の中とは違うけれど、森自体は同じだ。
「Ĝi estas trafe nomita 'Perdiga Arbaro'. La nebulo konfuzas ĉiun, kiu ne konas la vojon.」
ジェドの声が硬い。
「Sed... ĉu ni vere estas sekuraj ĉi tie?」
ラティアが不安そうに霧を見つめた。
「大丈夫よ。」
ミルアがフードを下ろした。深緑の羽がふわりと広がる。赤い髪が霧の中で揺れた。夜色の瞳が森を見通すように細められる。
「この森はわたしたちの庭みたいなものだもの。まあ、結界の内側しか知らないけど」
「好都合だ。この霧なら追手は来れねえ」
カシューの肩から力が抜けた。初めて……結界の外に出てから初めて、安心した顔をしている。
「...Mirua. Ĉu vi povas gvidi nin tra ĉi tiu arbaro?」
リューズがミルアを見た。声は落ち着いているが、目が真剣だ。ここでは自分たちが異邦人だとわかっている。
「案内しろってことね」
ミルアがリューズに向き直った。
「Jes.」
ミルアが先頭に立った。霧の中を迷いなく歩き始める。赤い髪と深緑の羽が霧に溶けていく。尾の房がゆったりと揺れている。ここでは、彼女が導く者だ。
ジェドがミルアの背中を見つめていた。地図を仕舞って、代わりにミルアの足跡だけを追う。
ユージアもまたミルアの背中を追って霧の中を歩く。この森の空気はよく知っている。結界の内側とは少し違う。魔力が薄くて、霧が濃い。でも木々の声は同じだ。苔の匂いも。
ニンゲンたちは明らかに居心地が悪そうだった。ラティアがリューズの外套の端を掴み、ジェドは眼鏡の奥の目を忙しなく動かしている。時折姿を見せる霧喰いを、ユージアが以前伝えたように、息を呑んで見送った。
「...Mi ne povas vidi plu ol dek metrojn. Kvankam mi scias, ke ni estas sekuraj, mi maltrankviliĝas.」
「Ne maltrankviliĝu. Ni fidu ilin.」
リューズの声は静かだった。短い言葉で仲間を落ち着かせている。
「こっちよ。川の音が聞こえるでしょう?」
ユージアは耳を澄ませた。聞こえる。微かな水音。南から。
「……ああ。聞こえる」
カシューの表情が和らいでいる。ここでは自分たちが強い。霧も味方だ。足取りが軽い。
半刻ほど歩いた頃、霧の向こうに光が見えた。木々が開けていく。水音が大きくなる。
川だ。幅は十歩ほど。澄んだ水が岩を舐めるように流れている。その岸辺に……。
「……あった」
ミルアが足を止めた。川岸の岩場。苔と蔦に埋もれた石が一つ。表面の紋様。一つ目と同じだ。だがこちらの方が弱い。光が点いていない。完全に消えかけている。
「こいつは……やばいな」
カシューが楔に近づいた。手をかざして、顔をしかめる。
「一つ目より枯れてる。こいつに注ぐのは……前以上に持っていかれるぞ」
「……そうね」
ユージアは唇を引き結んだ。楔の前にしゃがみ込んで、紋様に指先で触れる。
「でもやらなきゃ。この楔、今にも死にそうだ」
ユージアはミルアとカシューを見上げた。
「……でも、正直言うと、三人でも足りないかもしれない」
重い言葉が霧の中に落ちた。
「……足りなかったらどうなる」
「そりゃあもう、根こそぎ持っていかれるでしょうね。魔力が足りない分、体力も、それでも足りなければ命だって。耐えられるかしら……」
「...Mirua? Kio okazas?」
ラティアが不安げにミルアの表情を読んでいる。言葉はわからなくても、空気でわかるのだ。
「やろう。やるしかない」
それ以外に選択肢がない。この楔が死ねば結界の綻びは広がる。アイレアに帰る場所がなくなる。
「……ああ」
カシューが頷いた。
「わかった。でも……保険をかけましょう」
ミルアがラティアに振り返った。手を楔の石に向ける。それから自分の体を指差して、ぐったり倒れる真似をした。そして回復魔法をかける仕草。
「……伝わって」
「...!」
ラティアの目が見開かれた。理解したのだ。魔力を使い果たして倒れるかもしれない。その時に癒してほしいと。
「Jes. Mi komprenas. Mi estos preta.」
ラティアが両手を組んで、深く頷いた。目が真剣だ。
リューズが三人の背後に立った。何も言わないが、見守ってくれている。
「いくわよ」
三人が楔を囲んだ。前と同じ配置。手を伸ばす。石に触れた瞬間……。
冷たい。一つ目より遥かに冷たい。死にかけの楔が、最後の力で震えている。
「三、二……一」
魔力を流し込んだ。
……飲まれる。
一つ目の比じゃない。体の底から根こそぎ吸い上げられていく。底なしだ。全身の熱が楔に流れ込んでいく。
カシューが歯を食いしばる。ミルアの呼吸が止まった。
紋様が……光らない。まだ光らない。足りない。もっと。もっと寄越せと楔が叫んでいる。
手を離したい。でも離したら来た意味がない。でもこのままだとミルアが言った通り、耐えられない。
「まだ……離さ、ないで……!」
ミルアの声が遠い。心臓の音すら遠くなっていく。
……光った。微かに。紋様の端が、一筋だけ。
でもそれ以上、体に魔力が残っていない。空っぽだ。絞り切った。もう……。暗くなる視界の中で、徐々に光が強くなっていく。あとほんの少し、最後の一辺が足りない。あと少しなのに……。
狭まる視界の隅で、駆け寄るジェドがミルアに触れるのが見えた。ジェドの膝が崩れる。
光が灯るのを見て、ユージアは気を失った。




