22.楔
高く登った太陽の下、並んで丘を登る。草が短くなり、風が強くなった。外套がばたばたと鳴る。胸の奥の引力が強くなっていく。近い。確実に近い。
やがて、岩の隙間に何かが見えた。苔に覆われた石。ただの石じゃない。表面にうっすらと紋様が走っている。結界の門にあった石柱と同じ、ユージアたちの文字だ。
「あれ!」
ミルアが息を呑んだ。駆け寄ろうとして、カシューが腕を掴んで止めた。
「待て。罠があるかもしれねえ」
リューズが片手を上げた。全員止まれ、の合図。大剣の柄に手をかけ、周囲を見回す。風の音。鳥の声。それ以外は、静かだ。
「Ĉio en ordo. Iru, Juzia.」
リューズが道を開けた。
ユージアの心臓がとくんと鳴った。楔だ。あれが楔だ。長老が教えてくれた通り、魔力が枯れかけている。紋様の光がちらちらと点滅して、今にも消えそうだった。
「……ひどい状態ね。よく今まで保ったわ」
ミルアが楔の石を見下ろして、唇を噛んだ。
「こうなった原因があるのかも」
ユージアは楔の根元をのぞき込んだ。苔の下、石の台座が抉られている。自然の浸食ではない。何かが掘り返した痕だ。
「獣、かな?」
ミルアもしゃがみ込んで痕を調べた。首を振る。
「違うわ。道具の跡よ。鶴嘴か何か」
「ニンゲンか」
カシューの声が低く沈んだ。怒りではない。確認だ。
ジェドが楔の石の周囲を観察していた。掘り返された土。散らばった石片。ジェドの顔が曇った。
「Iu fosis ĉi tie, probable serĉante mineralojn. Li ne sciis, kio ĝi estas.」
「Ministo?」
「Probable. Ĉi tiu regiono havas kuprajn tavolojn.」
「……掘り起こそうとしたのかしら。結界のことなんか知らないもの、ニンゲンは」
ミルアが立ち上がって、楔の石に手をかざした。微かな魔力の残滓が指先に触れる。
「でも構造は残ってるわ。長老が言った通り、魔力を注ぎ直せばいけると思う」
「……じゃあやるか」
「三人でね。一人じゃ足りないかもしれない」
ミルアがユージアとカシューを見た。夜色の瞳が真剣だ。
「三人で楔に触れて、同時に魔力を流し込む。合図はわたしが出すわ」
ユージアが頷く隣で、カシューが周囲を見渡した。他に誰もいないのを見て、外套を脱ぎ捨てて肩を回す。黒い翼が風を受けて広がった。
「やるぞ」
三人が楔の石を囲んだ。ミルアが左、カシューが右、ユージアが正面。石の紋様が弱々しく明滅している。消えかけの灯火だ。
「いい? 手を置いて」
三人は冷たい石に手のひらを押し当てた。微かに魔力の振動を感じる。生きている。
「三つ数えたら流して。一、二、三」
吸い込まれそうな感覚に、ユージアは目をぎゅっと閉じた。魔力が指先から流れ出す。川のように。いや、滝のように。体の奥から根こそぎ引っ張り出されていく。
楔が飢えている。二千年分の渇きを一気に満たそうとするかのように、貪欲に魔力を吸い込んでいく。
「ぐっ」
カシューの歯を食いしばる音が聞こえた。ミルアの呼吸が荒くなっている。
紋様が光り始めた。弱々しい明滅ではない。石の奥底から蘇るような、力強い輝き。淡い光が三人の手を包み込んでいく。
でも、まだ足りない。まだ吸い込んでくる。体が冷えていく。指先が痺れる。
「もう少し!」
ミルアの声が遠い。耳鳴りがする。ユージアは目を閉じた。瞼の裏に光が走る。
そして、ぱんと。
空気が弾けた。手のひらから石が押し返され、三人は同時に尻餅をついた。
「は、っ……」
カシューが荒い息をついている。額に汗が滲んでいる。黒い翼がだらりと地面に垂れた。
ユージアは楔の石を見上げた。紋様が輝いている。安定した穏やかな光が、呼吸するように、ゆっくりと明滅を繰り返している。
「……でき、た。二人とも大丈夫?」
ミルアが座り込んだまま、ふうっと長い息を吐いた。翼がぐったりと垂れている。
「思ったより……持っていかれたわね」
「Juzia! Ĉu vi estas en ordo?!」
ラティアが駆け寄ってきた。ユージアの肩を支えて、顔を覗き込む。水色の瞳が心配に揺れている。
「...Mirinde.」
リューズが楔の石を見つめていた。腕を組んだままのその顔に、驚きが浮かんでいた。
「おい……ユージア。大丈夫か」
カシューが這うようにユージアの傍に寄ってきた。
「顔真っ白じゃねえか。おい」
「カシューもだよ」
ふらふらと体が傾いだ。地面が揺れている。いや、揺れているのはユージアの方だ。膝の力が抜けていく。
「っ!」
カシューが咄嗟にユージアの腕を掴んだ。自分だって青い顔をしているくせに、歯を食いしばってユージアを支えている。
「Sidu, sidu! Ne moviĝu!」
ラティアがユージアの背中を支えて、ゆっくり地面に座らせた。冷たい手がユージアの額に触れる。それから両手を組み、目を閉じた。
「《Suna beno, donu frukton!》」
温かい光がラティアの手から溢れた。ユージアの体を包み込む。じわりと、指先に感覚が戻ってくる。
空っぽの魔力に相変わらず頭はくらくらする。でも体は楽になった。ユージアが笑ってみせると、ラティアもまたほっとしたように微笑んだ。
ラティアが同じように座り込むカシューとミルアに触れていく。
「……おい、何した今」
カシューが警戒の目でラティアを見た。でも体に力が湧いたのか、それ以上の文句は言わなかった。
「……ありがたいわね」
ミルアが立ち上がった。ふらついたが、ジェドが無言で腕を差し出した。ミルアが一瞬驚いて、その腕に軽く手を置いた。
「Dankon.」
「...Ne gravas.」
見上げるミルアに、ジェドが気まずそうに目を逸らした。
「Unu finita. Ankoraŭ du restas.」
リューズが楔の石を一瞥し、それから三人を見渡した。
「Sed hodiaŭ, ripozu. Vi bezonas dormi.」
声は穏やかだが、有無を言わせない響きがあった。
「……何つった」
カシューがユージアを見る。
「わからないけど……」
ユージアはジェドの地図と次の楔の方向を指差した。
「...Ni iru?」
「Ne.」
首を振るリューズの声は短く、しかし明確だ。ユージアの前に立ち、大きな手で地図を塞ぐように押さえた。
「Ripozu. Morgaŭ.」
リューズが地面を指差して、それから目を閉じて手を合わせ、頬に当てた。眠れ、のジェスチャーだ。
「休みなさいって」
「当然よ」
ミルアがユージアの隣に座り込んだ。動けはしても、顔色が悪い。翼の先も痙攣していた。
「あなた、今どれくらい魔力残ってる? わたし、正直からっぽよ。カシューだって」
「……オレは平気だ」
「立てもしないくせに」
カシューが黙った。沈黙は雄弁だ。
「ほら。次の楔も同じだけ吸われるなら、今の状態じゃ途中で倒れるわ。あの人間のリーダー、正しいこと言ってる。」
ミルアがリューズを顎で示した。リューズはもう動き始めている。木陰に荷物を下ろし、ラティアと何か相談している。野営の準備だ。
「Latia, la akvo?」
「Jes! Mi vidis rivereton ducent metrojn for!」
ラティアが水筒を掲げて駆け出した。ジェドが火を起こせそうな場所を探している。
「……勝手に決めやがって」
言いながらも、カシューは動かなかった。本当に動けないらしく、ユージアの隣で黒い翼をだらりと垂らしたままだ。
「……まあいい。お前が休めるなら」
ぼそりと、ユージアにだけ聞こえる声でカシューが言った。
ユージアも、まだフラフラする。カシューにもたれてウトウトし始めた。
カシューの翼は温かい。それだけがわかった。体の輪郭が溶けていくような、深い深い眠りの底に落ちていく。一つ目の楔の光が、瞼の裏でゆっくりと脈打って、やがて、それも遠くなった。
暗闇。心地よい暗闇。何も考えなくていい場所へ……。




