16.変わらない故郷、変わってしまった何か
森の奥へ歩いていく。結界の内側は霧が晴れ、木漏れ日が差し込んでいた。苔むした地面に光の水玉模様が踊っている。知っている道。知っている匂い。帰ってきたのだ。
それなのに、ユージアの足取りはぬかるみを歩くように重い。
「……長老んとこ行くぞ。今度こそあのジジイに説明させる」
カシューが低く言った。ユージアの手首を掴んだまま離さない。まるで離したらまたコロコロ転がっていくとでも思っているみたいに。
「そもそもおかしいのよ。結界は外からの侵入を防ぐもので、内側からだって出られるはずがないの」
ミルアの尾がぱたぱたと苛立たしげに揺れている。
「あの地震で、転がり出た?そんなの結界が正常なら起こり得ない」
「つまりあの時点で結界がぶっ壊れかけてたってことだろ」
「……そういうことよ。それなら長老だって知ってるはず。どうして何を聞いても教えてくれないの」
木々が開けた。集落が見える。石造りの低い家々、屋根に花を咲かせた蔓草、井戸端で洗濯物を干している尻尾の生えたおばあさん。ユージアがよく知る日常の風景。それが今、どこか遠くに感じる。ほんの数日離れていただけなのに。
穏やかな景色の中、ユージアは手を引かれながら坂道を下った。ここが何一つ変わっていないのなら、この違和感はきっと、変わったのがぼくの方だからだ。
集落の中央、ひときわ大きな樫の木の根元に長老の家はある。カシューが扉を蹴り開けた。
「ジジイ。話がある」
薄暗い室内で、白い髭の老人がゆっくりと顔を上げた。山羊のように長く巻いた角が天井に届きそうだ。帰ってきたユージアを見ても、驚いた様子はない。
「……おかえり、ユージア。早かったな」
「早かった、だと?」
カシューの声に殺気が混じった。
「まあ座りなさい」
長老の家は薬草の匂いがする。長老が茶を淹れ始めた。その悠長な仕草に、カシューの尾が苛立たしげに床を叩いている。
「ユージアが帰ってきたんだぞ?今日こそは教えろ。なんでこいつが結界の外に出たんだ」
「……結界も老いるのだよ、カシュー」
長老がカップを置いた。白い瞳がユージアを見る。
「あの結界を張ったのは二千年前の大長老だ。永遠に保つものなどない。少しずつ、少しずつ綻んでおる」
「……それを、知っていたの?」
「疑ってはおった。十年ほど前から、境界付近の霧が薄くなっておったからな」
「疑ってた?疑ってて黙ってたのか?」
カシューが立ち上がった。金色の瞳が燃えている。
「ユージアが外に出て。ニンゲンに追い回されて。殺されかけて。それを、疑ってた、で済ませんのか」
「座りなさい」
長老の声が低く響いた。静かだが、有無を言わせない重みがある。カシューの翼がびくりと震えた。
「……転がり落ちてそのまま外に出るなど予測できんわ。だが。問題はそこではない」
長老がユージアを見た。
「ユージア。お前は結界に守られなかったわけではない。結界が、お前を通したのだ」
「どういう意味?」
ミルアが眉を顰めている。カシューほどわかりやすくはないけれど、声には隠しきれない怒りが滲んでいた。
「結界には意志がある。守るべきものを守り、排除すべきものを排除する。あの地震の時。結界はユージアを外に出すべきと判断したんじゃ」
沈黙が落ちた。薬草の匂いが鼻につく。
「……は?」
苛立たしそうなカシューの声がユージアの気持ちを代弁していた。結界がぼくを出すべきと判断した?何を言っているんだ、この長老は。
「ふざけんな。結界がユージアを追い出したってのか。守るための結界が?」
「追い出したのではない。この子ならと判断して送り出したのじゃろう」
長老が茶を一口啜った。何でもないことのように。
「結界は老いておる。このままでは、あと数十年。いや、もっと早いかもしれん。完全に崩壊する日が来る」
ミルアの息を呑む音が聞こえた。
「その時、我々は丸裸でニンゲンの世界に放り出される。そうなれば二千年前と同じことが繰り返される」
「……それと、ユージアが出されたことと、何の関係が」
「結界が外界との繋がりを求めたのだとわしは思う」
長老の白い瞳がユージアを射抜いた。
「内と外を繋ぐ者。ニンゲンと我々の間に立てる者。そういう者が必要だったのじゃろう」
「だからってなんでユージアなんだよ!」
カシューの拳がテーブルを叩いた。カップが跳ねて茶がこぼれた。
「それは結界に聞いてくれ」
長老がこぼれた茶を布で拭きながら、穏やかに答えた。
「……さて、ユージア。お前はもうニンゲンと出会ったな。彼らはどうだった?」
長老の目が細められる。試すような、確かめるような。
思い浮かぶのは一緒にいてくれた三人だった。危険や不安はずっとあった。それでもユージアの脳裏に浮かんで来るのは、自分と同じ目線までしゃがんでくれるリューズ、不機嫌ぶるジェド、笑っているラティア。みんな、ユージアにとっては……
「友だち」
その一言に、部屋の空気が止まった。カシューが目を見開き、ミルアがじっとユージアを見つめていた。
一番反応したのは長老だった。茶を見つめていた白い目が、ゆっくりとユージアに向けられる。
驚きでも疑いでもなく、ただ深い感慨が籠っていた。まるで数百年ぶりに聞く言葉であるかのように。
「……ユージア。何を言ってるんだ。あいつらはお前を……」
「守ってくれた」
長老たちの前でちゃんと声が出た。震えていたけれど、ユージアはきっぱりと言った。
「ぼくの角を隠して、ぼくのために戦って、ぼくのために血を流した。一緒にいてくれて、言葉を教えてくれた。あの人たちは、友だちだ」
カシューが押し黙った。金色の瞳が揺れている。反論できない。カシューだって全部、その目で見ていたのだから。
「……そうか」
長老が深く息を吐いた。それは安堵のため息のようにも、諦めのため息のようにも聞こえた。
「では、話が早い。ユージア。お前に頼みがある」
長老が立ち上がり、棚から古びた革袋を取り出した。ずしりと重い。
「結界は崩壊に向かっておる。それを止めるには、外の力が必要じゃ」
長老は革袋の口を開け、中のものをテーブルに広げた。金色に輝く沢山のコイン。ニンゲンが使う、金色の硬貨がずっしりと詰まっている。
「お前の友だちを雇ってくれ。この金で」
「待て、ジジイ。ユージアをまた外に出すってのか!冗談じゃねえぞ!」
「冗談ではない。これは我ら魔人全体の、生き残りを賭けた依頼じゃ。そして、この役目を果たせるのは。もうニンゲンと友になった、この子だけなのじゃ」
「でも、結界を直せばいいんじゃあ……もう一回はりなおす、とか?」
ユージアの問いに、長老は答えなかった。代わりに棚の一番高い段から、埃を被った巻物を引き出した。革紐を解くと、黄ばんだ紙が広がる。見たことのない図形が描かれている。
「この大きさの結界をはれるものなど、もう一人も残っておらんよ」
その声に、初めて疲労が滲んでいた。
「二千年じゃ。平和というのは残酷なものでな。脅威がなければ、備える者もいなくなる。わしの何代か前には既に、結界術の完全な継承は途絶えておった」
「……じゃあ今まで何してたんだよ、長老ってのは」
「修復じゃよ」
巻物の図形を指で辿る。円の中に円。その中心に何かの紋様。
「結界には楔がある。大地に打ち込まれた魔力の楔が、骨組みのように結界を支えておる。その楔を修復することで延命しておる」
「楔……それはどこに?」
「全部で七つ。四つは代々の長老が管理してきたから問題はない。残り三つは、外じゃ」
長老の指が巻物の外縁を叩いた。結界の外。人間の世界。
「わしの知る限り、結界をはってから一度も修復されておらん。いよいよ、誰かを外に遣わせる時が来たということじゃよ」
「修復って。どうやって」
「楔に魔力を注ぎ直す。やり方は教えられる。じゃが。問題は場所を探すことと、そこに辿り着くことじゃ。人間の土地で、人間に見つからずに」
長老がユージアを見た。
「あるいは。人間の助けを借りて」
「オレも行く」
テーブルに拳を置いて、カシューが言い切った。議論の余地を与えない声だ。
「ユージアを一人で外に出すなんざ二度とねえ」
「わたしも」
ミルアが翼をさらりと揺らした。
「三つの楔。三人いればちょうどいいじゃない」
「……お前たちの角も翼も、外では命取りになるぞ」
「知るか」
カシューの金色の瞳が、まっすぐ長老を射抜いた。
「ユージアに何かあったら、ここを守る意味もねえんだよ」
言い切ったぶれない言葉にミルアが小さく笑った。長老が深いため息をついた。でも。その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
外に出て、楔を修復する。ユージアは頭の中で反芻した。大事なことが足りない。
「どうやって結界を出入りすればいいの?」
内側と外側から触れないといけないなら、出る時も戻ってくる時も、反対側に誰かがいないといけない。
さっきはカシューとミルアが内側にいてくれた。時間の約束をして、会うことができた。でも三人一緒にいては……。
ユージアの問いに、部屋が静まり返った。当然の疑問だ。今日あれほど苦労して戻ってきたのに。また出て、また戻れなくなったら?
カシューが口を開きかけて、閉じた。ミルアが長老を見た。
長老の指が石柱の図が描かれた場所で止まった。
「お前たちが今日使った古い門。あれは本来、出入りのために造られたものじゃ。鍵さえあれば開く」
「鍵?」
「楔と同じ原理じゃ。魔力を注ぎ込む。正しい手順を踏めば片側からでも開けられる」
長老が棚の奥をごそごそと漁り、小さな石を三つ取り出した。薄い青色に光っている。掌に乗るほどの大きさだ。
「共鳴石じゃ。これに十分な量の魔力を込めて門の前で砕けば、魔力と共鳴する当人は通り抜けられる」
カシューが石を一つ摘まみ上げて、じっと見つめた。
「便利なもんがあるじゃねぇか」
「ただし。もう三つしかない。アイレアには材料がもうないのでな。つまり失敗は許されんということじゃ」
三つの石。一つは外へ出るため。残り二つ。何かがあってばらばらになっても、二人は帰ってこられる。
「……楔の修復が終わったら、門に戻って石を砕く。それだけ?」
「それだけじゃ。ただし。門の場所を見失わんようにな。外の森は迷いやすい」
長老が三人に石を手渡した。ひんやりと冷たい。中で淡い光が脈打っている。生きているみたいだ。
「大事にしまっておけ。割れたら終わりじゃぞ」
「……で、いつ出る」
カシューの声は、もう覚悟を決めた響きだった。
「準備ができ次第じゃな。わしが楔の修復法を教える。難しくはない」
長老がユージアを見た。白い瞳の奥に、何かが揺れている。
「……お前の友人たちに、報酬を渡して頼むのじゃぞ。ニンゲンとの約束は、金で結ぶのが一番確かじゃ」
「チッ」
「カシュー」
ミルアがたしなめる声を出した。それから微笑んだ。
「明日の朝ね。それまでに、ユージアに美味しいもの食べさせてあげないと。ずっとニンゲンの食事だったんでしょう?」
ミルアの尾がぱたぱたと揺れた。ようやく。ほんの少しだけ、日常の空気が戻ってきた気がした。
美味しいもの。その言葉だけで、ユージアのお腹がきゅうと鳴った。恥ずかしい。でも。数日ぶりの、ミルアとの食事の約束だ。固いパンとチーズも嫌いじゃなかったけど、ミルアの料理が恋しくてたまらなかった。
「……おい。お前、痩せたか?」
カシューがユージアの顔を覗き込んだ。眉を寄せて、頬を片手で挟む。乱暴なようで、指先は柔らかい。
「少し頬がこけてんぞ。ニンゲンの飯ってのはそんなに不味いのか」
「カシュー、離してあげなさい。潰れるわよ」
ミルアがカシューの手を引き剥がして、ユージアの背中をそっと押した。長老の家を出ると、午後の陽射しが眩しい。
「今夜はシチューにしましょう。きのこたっぷりの。あなたの好きなやつ」
集落の道を歩く。見慣れた石畳。並んで歩く三人に、道行く人たちが駆け寄り、口々に大丈夫だったかと声をかけてくれる。揉みくちゃにされながらも、ユージアは長老から聞かされた話で頭がいっぱいだった。
「……明日の朝には出る。今夜は寝ろ。ちゃんと寝ろ。飯食って寝ろ」
カシューが命令するように言った。食え。寝ろ。ユージアのこんがらがった頭には、単純な指示がありがたかった。
ミルアの家が見えてきた。蔦の絡まった石壁。煙突から煙は出ていない。これから火を入れるのだ。
「ユージア。共鳴石、大事にしまっておいて」
ユージアは手の中の石を見下ろした。淡い青。脈打つ光。帰り道の鍵、一回きりの命綱。
「……オレたちが一緒なんだから、今度は大丈夫だ」
ぼそりと、後ろからカシューの声が聞こえた。振り返ったら目を逸らされた。
「ふふ」
ミルアが笑って、扉を開けた。薬草と花の匂い。ミルアの家の匂いだ。帰ってきたんだ、と。ようやく、体が信じ始めた。




