17.かれらのことば
ミルアの家に入った瞬間、足の力が抜けた。窓辺のドライフラワー、暖炉の前の古い絨毯。知っている物に囲まれて、ユージアは絨毯の上にぺたんと座り込んだ。共鳴石が膝の間で両手に包まれている。
「おい、寝るならベッドで寝ろ。床で寝んな」
気付けば、いつの間に火をいれたのか、カシューが暖炉に薪をくべていた。外で杭を打ったり火を起こしたりした記憶が、ふと遠いもののように思えた。
「カシュー、鍋出して。大きい方」
ミルアが戸棚からきのこの束を取り出した。乾燥させた白いのと、ユージアが好きな肉厚の大ぶりきのこだ。匂いだけで唾液が溢れる。
「……なあ」
カシューが鍋を渡しながら、ぼそりと言った。
「また会うんだよな。あのニンゲンども」
「ええ。すぐに見つけられたらいいのだけど」
「……オレ、あいつらに何て言えばいい」
ミルアの手が止まった。振り返る。カシューは暖炉の火を睨んでいる。
「言葉わかんねえし。それに、オレがあいつらの立場だったら、オレみたいなのが出てきたら警戒する」
「……あら」
ミルアが小さく笑った。
「随分と可愛らしいことを言うのね」
「うるせえ」
カシューの尾がばしんと床を叩いた。照れている時の癖だ。
「大丈夫よ。ユージアが間に立ってくれるわ。ねえ?」
ミルアが振り返る。包丁を持ったまま、夜色の瞳がユージアを映した。
「あなたは、ただの弱い羊じゃないのよ。わかってる?」
ただの弱い羊じゃない。その言葉がユージアの胸に刺さった。嬉しいような、くすぐったいような。でも、本当にそうだろうか。カシューは龍だ。翼で空を切り、拳で岩を砕ける。ミルアはグリフォンだ。風を纏い、魔法も得意だ。二人とも、強くて、美しくて、堂々としている。
ぼくは、羊だ。角はくるんと巻いてるだけ。毛はもこもこしてるだけ。傷を治すことは得意だ。でも、いつも守られている。
「おい、またその顔してる」
カシューがユージアを指差した。
「自分のことダメだと思ってる時の顔。わかりやすいんだよ。自分が今日何をしたかわかってるか?」
ミルアがきのこを鍋に放り込みながら、背中越しに二人の話を聞いている。
「……あの大剣の男、治してたろ。あの距離で」
カシューが目を逸らしながら、ぼそりと付け足した。認めたくなさそうだが、事実は事実だ。
「あっちにいたニンゲンたちは詠唱が必要で、しかも近い距離でしか効かないみたいだった」
ミルアが振り返った。夜色の瞳がまっすぐユージアを見ている。
「あなたの力は、わたしやカシューには真似できないの。わかる?」
「……まあ、オレは壊す専門だしな」
カシューが鼻を鳴らす。それから、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「あいつらに会ったら、お前がちゃんと説明しろよ。楔のこと。金のこと。オレたちのこと」
カシューの金色の瞳が、真剣にユージアを見た。
「お前にしかできねえんだ、それは」
ユージアが頷くと、カシューの表情がふっと緩んだ。
「……よし」
それだけ言って、カシューは暖炉の火を突いた。パチパチと火の粉が舞う。
「はい、できたわよ」
ミルアが大きな木の器にシチューをよそった。とろりときのこの濃厚な匂いが立ち上る。湯気が鼻先をくすぐった瞬間、お腹が盛大に鳴った。
「……お前、ほんと正直だな腹だけは」
「ふふ。いっぱい食べなさい。おかわりもあるから」
一口含んだ瞬間、涙が出そうになった。温かくて、やわらかくて、知ってる味だ。ニンゲンの町で食べた食事も嫌いじゃなかった。でもこれは、ミルアの味だ。三人でお喋りしながら囲む食卓、暖炉の火、窓の外で鳴く夕暮れの鳥。こんな当たり前のことが、こんなに貴重だなんて知らなかった。
「……明日のこと、少し話しておきましょうか」
ミルアが自分の器を手に取りながら、穏やかに切り出した。
「あのニンゲンたちの言葉、わたしは全然わからないわ。ユージア、あなたが頼りよ」
「……オレも無理だ。覚える気もねえし」
「せめて一つくらい覚えておきなさいよ。あの人たちはユージアを守ってくれたでしょう?」
カシューが黙った。スプーンをシチューに突き刺したまま、黙り込む。尾が床をゆっくり叩いている。
「ユージア。ありがとうって、ニンゲンの言葉でなんて言うの?」
ミルアの夜色の瞳がきらりと光った。好奇心を隠そうともしない。向こうに出たら見たいものが山ほどあるのだろう。
「……オレは言わねえからな」
「まだ教えてもらってもいないのに拒否するの?」
「先に言っとく」
ミルアがため息をつきながら微笑んだ。ユージアのお腹が、シチューで温かく満たされていく。明日が来る。また外に出る。今度は三人で。怖いけれど、一人じゃない。
「dankonだよ」
ミルアの目が輝いた。
「dankon……」
何度か舌の上で転がすように繰り返す。すぐに発音が滑らかになっていく。
「短くて、覚えやすい」
ミルアがカシューを見た。にっこりと。
「はい、カシュー」
「……」
「カシュー」
「聞こえてる」
「じゃあ言ってみて」
沈黙。カシューがスプーンでシチューをかき混ぜている。ぐるぐる。ぐるぐる。尾が床を叩くリズムが速くなっている。
「……dan」
「dankon」
「dan、kon」
蚊の鳴くような声だった。
「ふふ、上出来よ」
「一回だけだからな。あいつらの前では言わねえからな」
カシューがシチューを一気にかき込んだ。逃げるように。ミルアが肩を揺らして笑っている。
「ほかには?ユージア、よく使う言葉を教えて。挨拶とか、名前の呼び方とか」
ミルアが棚から紙と炭筆を取り出した。メモを取る気だ。
「明日、わたしたちの顔を見ていきなり逃げられても困るでしょう?せめて敵意がないことは伝えたいわ」
ミルアの炭筆が紙の上で待っている。夜色の瞳が好奇心でいっぱいだ。カシューは壁に背を預けて腕を組んでいる。聞いてないふりをしているが、耳だけはこちらに向いている。
「うぅ、ぼくもちゃんとわかってないけど、ne danĝero, ne timuが、危なくない、怖がらないで、だと思う」
ミルアの炭筆がさらさらと紙の上を走った。丁寧に、一文字ずつ。
「neが否定ね?」
さすがだ。一瞬で構造を掴んでいる。ユージアが数日かけてぼんやり覚えたことを、ミルアはすぐに理解していた。
「他には何か。あ、名乗る時は?わたしはミルアです、みたいな」
「mi estasが、わたしは、で…」
ユージアは記憶を掘り起こした。ラティアが教えてくれた言葉。
「……おい」
カシューが暖炉の前から声を上げた。腕を組んだまま、こっちを見ないで。
「触るな、は」
「……カシュー」
「何だよ。必要だろ。オレの翼とか触ろうとする奴いたら困る」
ミルアが深いため息をついた。でも炭筆は止めない。ユージアは首を傾げた。触るな……ジェドが外套を引っ張られた時に何か言ってた気がする。でも正確にはわからない。
「あなたね、この子だって数日で全部覚えられるわけないでしょう」
ミルアが炭筆を置いて、ユージアの髪をくしゃりと撫でた。
「充分よ。あとは実際に会ってから覚えればいいわ。あなたの友だちが、また教えてくれるでしょう?」
ミルアが微笑んだ。窓の外はもう暗い。明日は早い。
「……今日はもうここで寝ろ」
カシューが毛布をぼすっとユージアに投げつけた。
「お前はすぐ夜更かしするからな。明日バテたら置いてくぞ」
「置いていかないわよ」
「言ってみただけだ」
毛布がふわりと顔にかかった。干したばかりの太陽の匂いがする。
「……おやすみ」
声が出た。自分でも驚くほど小さくて、眠たい声だった。
「……ああ」
「おやすみなさい、ユージア」
暖炉の火がぱちりと鳴った。毛布にくるまって、共鳴石を胸元に抱く。ひんやりした石が体温で少しずつ温まっていく。目を閉じると、ニンゲンたちの顔が浮かんだ。リューズの優しい目。ラティアの柔らかい笑顔。ジェドの呆れた溜息。また会える。今度は、カシューとミルアを連れて会いに行く。
意識が沈んでいく。遠くでミルアとカシューがひそひそ話しているのが聞こえた。
「怖かったでしょうね。一人で」
「……」
「あなたもよ、カシュー。怖かったでしょう」
長い沈黙。薪が崩れる音。
「……二度とごめんだ」
それだけだった。でもその声の震え方を、ユージアはもう聞き取れなかった。眠りが優しく、深く、全部を包み込んでいた。
※夕方更新で次ページにキャラクター紹介を挟みます
※本編は変わらず明日朝更新です




