8.素敵なでこぼこだと思います
「痛いわ、ひかりちゃん。離してくれないかしら?」
「ういちゃんから離れろっ!! 何のつもりで近づいてんの!?」
うららの声は、ひかりには届かない。掴んだ手も離さない。怒るなんて単純な言葉で表してほしくない激情を持て余し、ひかりは人目も気にせずに叫び散らした。
「ちょっと落ち着けって! うららちゃん痛がってるから、離してやれよ」
「おねーちゃんっ! わたしは大丈夫だよ!」
百合原が腕を掴み、憂が腰にぎゅっと抱きついて、うららからひかりを引き剥がした。うららは離された手を痛そうに摩ると、まるで悪人扱いするかのようにひかりを見つめた。
「お姉さんが大変な目にあっているようだから、教えてあげただけよ? ひかりちゃん、私には頼ってくれないようだから……大切な家族にはお話しとかなきゃいけないって思って」
「じゃあ、あの女どもを使って姑息な真似するのやめれば!? ういちゃんにこれ以上近づかないで! 次、近づいたら……――!!」
「おねーちゃん!! もうやめて!」
憂の痛々しい声にひかりはハッと我に返る
今、何を口走ろうとしたのだろうか。次、近づいたら……。自分が恐ろしい台詞を口にしようとした事にひかりは愕然とし、傍らの憂に無意識としがみついた。
「近づいたら、何? それと何か誤解されてるようだけど、私は何もしてないわ。心当たりすらないもの」
頬に手を当てて、うららは動揺一つ見せずに微笑んだ。貴女の無礼を許します。そういった寛大な台詞が聞こえてくるようで、ひかりは悔しさに歯軋りをする。
「……もういい、目の前から消えて」
「あら、ひどい物言い。でもお邪魔のようだから、お言葉に甘えるわね。じゃあ、また学校で」
うふふ。余裕綽綽のうららの笑い声はひかりの神経を逆撫でにする。
スカートを翻して、うららはひかり達に背を向ける。路肩に待たせていたらしい高級車に乗って去りゆく背を、ひかりは見送らなかった。それどころではなかった。
「……ういちゃん、ういちゃん……っ、ごめん、ごめんなさい」
膝から崩れ落ち、ひかりは憂を強く抱きしめる。すがりつく、が正しいかもしれない。自分のペンキの匂いがつくのも構わず、ひかりは憂を繰り返し呼びかけた。情けない姉の背中に小さな腕が回る。いつも甘いものを食べている手は、ひかりの背を優しく撫でた。
「……よしよし、大丈夫だよ。ゆかりくんのおにーちゃんが困ってるから、おねーちゃん落ち着いて」
「な、なんか姉妹の感動シーンを邪魔してごめんな……?」
「感動シーンというより、おねーちゃんの奇行シーンでは?」
「……ういちゃんとひかり、ツッコミまで似てるな」
ひかりの頭上で何やらのほほんとした会話が繰り広げられているが、当の本人はそれどころではなかった。あの女は憂に近づいた。家族の憂に。
うららの弱みが想い人なら、ひかりの弱みは僅かな関係性。ひかりの友人たちからの評価を崩そうとし、大切な妹を巻き込もうとした。
学校で大変な目にあっているだなんて、憂には絶対に知られないようにしていたのだ。上履きを洗った時も憂が遊びに行っている時を狙い、憂と話すときは常に笑顔を心がけていた。
なのに――……
「それで、大変な目ってなに? おねーちゃん、なんか薬臭いよ?」
憂は心配だと言わんばかりに問いかけた。抱きついた身体を咄嗟に離して、ひかりは憂を見据える。笑顔だ、笑顔を意識して誤魔化せ。そう自分に言い聞かせるも、憂の反応は思ったようにはいかなかった。
憂の顔は見る見るうちに不安げに歪む。憂の両手はひかりの頬を包んだ。
「どうしてそんな顔してるの? 泣きたい時には泣かなきゃ、しんどくなっちゃうよ」
憂の像がぼやけて、視認できなくなる。じんわりと熱くなった目の奥から、しとどに涙がこぼれ出てきた。さいあく、さいあく、とひかりは泣きぐずり、絶えず頬を伝う涙を百合原のジャージの袖で拭った。ごめんよ、洗って返すから。
憂の丸い手がひかりの頭をよしよしと撫でてくれる。それなら背中を摩る手は、百合原のものだろうか。格好悪いひかりを支える二人の温度はとても温かい。
それはひかりがずっと欲しかったものだった。
絶え間ない悪意は、ひかりを弱らせた。負けたくないというプライドは、ひかりを無理に抑圧した。誰にも知られたくなかった。誰にも迷惑をかけたくなかった。
「おねーちゃん、家に帰ったらココア入れてあげる。ういちゃん特製だよ」
「いいなあ、今度俺も飲みたい」
「えへへ、ダメです。これはおねーちゃんの特権なので!」
えーっ! とあからさまに残念そうな顔をする百合原の顔が、見ずとも容易に頭に浮かぶ。
みじめな自分を見捨てない存在。弱った時に支えてくれる存在。頼ってくれと叱ってくれる存在。何を聞かずともそばにいてくれる存在。そんな絵空事のような存在が此処にはいる。
ひかりはようやく、ぽつんと暗闇に実った光る蕾に気づいたのだ。
ずず、と鼻をすすると、ひかりの涙まみれの手にふと憂の手が重なった。
「かえろっか。ゆかりくんのおにーちゃんも手繋ぎます?」
「え、お、お、俺も!? ひ、ひかりが、いいならいいけどぉ?」
「……反応がキモいから嫌」
「おい!!」
百合原のツッコミに「ひどーい」と憂は笑う。ひかりは一しきり笑った後、渋々といった態度で百合原に向かって手を伸ばした。
ひかりを挟んだバランスの悪い凸凹が、道路に影となり映る。
この短い帰り道を、ひかりは一生忘れる事はないだろう。




