7.みじめだなんて誰も思ってはいませんよ
ペンキというのは簡単に取れない。シャンプーも何もないただのシャワー室では限界があり、ほかほかの身体はスッキリ身のままという訳にはいかなかった。赤みを帯びた頬を擦りながら、ひかりは帰り道、隣を歩く百合原に視線を向ける。
「ジャージ、ありがとう」
「俺が一番ひかりの体格に合うって……胡桃先輩、失礼すぎねえ!?」
百合原が怒り心頭といった風に躍起になっているのは、今ひかりが着ているジャージについてだった。
ペンキまみれになった制服では帰れない。だが、ひかりは替えに出来るジャージなどを持ってきてはいなかった。となれば、貸してもらうしかなく、ひかりに一番近い体型の百合原に借りるしかなかったのだ。痛む腹を探って、女子生徒たちに借りようと思ったが、彼女らは担任に呼び出されそれどころではないようで相手をしてくれなかった。
百合原はその際胡桃に「俺は全然嬉し……いいけど、百合原くんの方がちっちゃいからサイズ合うと思うよ」と言われたことを気にしているらしい。
「確かに胡桃先輩ほどタッパはねえけど、俺だって今から伸びしろあるよな!?」
「……うん」
「その微妙な反応やめろよ……俺はきっと伸びるんだよ……」
オーバーに身振り手振りを加えて話す百合原の歩幅を、ひかりは実際広いと思った事はなかった。という事は……まぁ、そういう事だろう。あまりハッキリと口にしてしまうと百合原を容易に傷つけてしまうので、ひかりは曖昧に頷く程度に留めた。
「つーかよ……」
「うん?」
「俺、そんなに頼りないか?」
ひかりを一歩置いて、百合原は振り返る。出来ればこのまま触れられずに帰宅したかった。ひかりは立ち止まり、真剣に向けられた百合原の眼差しを真正面に受け止めた。
「なにが?」
まずは知らないフリをしてみる。だけど、それで退いてくれるような男ではない。
「お前、何か嫌なことされてんだろ? ペンキまみれになった時も女子たち顔面蒼白だったし、心配してたのうららちゃんだけだったじゃんか」
いじめ、と直接的に言わないのは彼なりの優しさだろうが、うららの名前には胸がざわついた。
「うん、嫌なことされてるよ。けど、それと百合原とは関係ないでしょ」
ひかりがそう伝えれば、悲しそうに百合原は眉を寄せて俯いた。こちらが腹立たしくなるほど、人の傷に敏感な男。自分が友人の役に立てていない、と本気で悲しんでいる。百合原は爪先で神経質に道路をつつき、悔しげにひかりを説こうとした。
「関係ないことねーだろ! 友達なら何とかしてやりてーし、休み時間とか辛かったらこっち来たっていいんだぞ!? 俺だってクラスで一人だし!」
「は!?」
「え!? なんだ!?」
しかし、そんなシリアスな雰囲気をかき消してしまうひかりの吃驚声。明らかに空気の違う返しに、百合原は飛び跳ねる勢いで身を引いた。
「なんで言わないの!?」
「なにがだよ!?」
「クラスで一人って!」
さらにヒートアップしそうだった言い合いは、ひかりの発言によって鎮まる。ひかりは失言を一瞬詫びようとしたが、百合原は特に傷ついた様子もなくぽかんとしていた。
「知ってたかと思ってた」
「のほほんと恋に焦がれてたから、てっきり幸せなのかと思ってたら……アンタこそ」
「俺、今んところ幸せだけど……」
次はひかりがぽかんとする番だった。ひかりの脳内に処理中の文字が現れ、必死にロードを繰り返す。度々通る通行人には滑稽に映っているであろう二人の姿に、とりあえず終止符を打つためにひかりは痛む頭を押さえ、歩き出した。
「ごめん、勝手に不幸とか決めつけて」
「嫌なこともあるし、寂しいけどさ。意外に今気楽だぜ? 胡桃先輩と絡んでるってのがデケーから、結局人頼りだけど……」
「あの人がアンタと喋りたいから絡んでるんでしょ、つまり百合原の人徳。人頼りじゃないよ」
「……ちょ、違う違う! お前が俺のことを励ます会じゃねーの、今回は!」
どさくさに紛れて誤魔化せると思っていたのに。ひかりは顔を逸らして、憎々しげに顔を顰めた。
「俺のことであんだけ狼狽たお前だったら、もう気持ち分かるだろ? 心配なんだよ、胡桃先輩だって心配してるぞ」
観念、ひかりの脳裏にまた文字が浮かぶ。
「…………私は意外にプライドが高くて」
「え? なんの話だよ」
「自分がこんなに打たれ弱くて、プライドが高いって知らなかったの。百合原とか宝先輩にペンキまみれの姿を見られた時、みじめで死にそうだった」
アンタもわかると思うけど。
これは心の中の言葉だ。決めつけに近いひかりの思いは、百合原にも届いてるだろうと感じたから。
「知れてよかったじゃん」
「……」
「普通、そういうのって目を背けて気付かないフリしがちだけどな!」
「普通ってなにさ」
「か〜っ! お前らって本当にそうやって屁理屈こねるの好きだよな!?」
以前の勉強会を思い出させるようなフレーズ。百合原の言う"お前ら"は言わずもがな、胡桃とひかりの事だろう。大体三人の中で哲学を始めるのは、胡桃の方だ。百合原は顎に手を当て、普段使わない脳味噌をふんだんに使っているようだった。しかし、そのモーションもものの数秒で終わる。ひかりはそれ以上突っ込むのはやめた。
「とにかく! 俺は頼ってほしいわけ! お前がみじめな思いしてんなら、助けになってやりてえし」
「それって対等な関係?」
ぽろりと出た本音は己のものなのにひかりはとても驚いた。不意に出た変な質問に、百合原は怒りを孕んだ表情でひかりを見る。
「……お前、もしかして自分がみじめに見られてるかもってのを気にしてんの?」
「というか、それで百合原とか胡桃先輩に気を遣われるのが嫌なの。私にとっては気楽で大切な関係なので」
「ふへへ、素直なところもあんじゃん」
ころりと百合原の表情がご機嫌めいた。いちいち忙しい男にひかりは思わず笑ってしまう。
「気持ち悪いな」
「うるせーよ。後、別にみじめなんて思ってねえから。お前がみじめなら俺は何なんだよ」
「私もアンタのことみじめなんて思った事ないけど」
「ほらな? そんなもんなんだよ」
ひかりの答えが分かっていたかのような百合原の反応は得意げだ。秋の夕陽に照らされた黒染めの髪は、明るい茶色が浮き上がってきている。
塗料の匂いを身に纏いながらも、ひかりは自分の調子が徐々に戻ってきている事に気づいた。
「それで、どうする? お、脅すか?」
「キャラじゃなさすぎて声上擦ってるじゃん。あんなの平気で言えるの宝先輩だけ……――」
――家まで、後数分。
名残惜しい気持ちと清々しい気持ちを吹き飛ばすように、その光景は現れた。こめかみが揺れるような衝動に駆られ、ひかりは一目散に視線の先へと走り出す。
「……なんでアンタがういちゃんといるの!?」
皺一つないうららの制服の袖を乱暴に掴み、憂に触れようとしていた手を振り払う。
ひかりがヒステリックに叫ぶと、うららは不気味なものを見るような瞳でひかりを睨んだ。




