オレンジはレッドに届かず 上
本当は赤色になるはずだったのに、髪は赤みを帯びたオレンジ色になった。そして、今日それは黒く塗りつぶされる。
カラーリング剤の匂いが充満しないように、窓を開ける。建て付けの悪い窓は醜い音を部屋中に響かせ、沈んだ気分を更に増幅させた。
とても短い高校デビューだった。不良というカースト位置に、俺は向いてはいなかったのだ。
「にーちゃん、なにしてんの?」
開放していた部屋の襖からゆかりの顔が覗く。いじめっ子と闘った傷は少し痕になってはいたが、だいぶ治っているように見えた。
「髪、染めんの。シャルンでバイトすっから」
「えーっ! じゃあ、毎日ケーキざんまい!?」
子供らしい思考に笑ってしまう。昔、母さんがスーパーの惣菜部門で働くと言った時の俺と発想が全く一緒だった。あの時はエビフライやら豚カツやらが、毎日食べられると信じて疑わなかった。
「働いてるからってもらえるわけじゃねーよ。残念だったな」
「ええ〜じゃあなんでバイトするんだよ」
「それは……」
金のためだよ、とは言えない。純粋を絵に描いたようなゆかりに、生々しく"金"というワードを使うのは憚られた。カラーリング剤をボトルの中で混ぜながら、俺は小さく唸る。
「……もう少しでお前の誕生日だろ? 中学の時はバイト出来なかったから大したもんあげられなかったけど、ちょっとは良いもの買えるぜ」
実際は己の罪滅ぼしのためだ。けれど、嬉しそうに飛び跳ねる弟にそんな事を言える兄がどこにいる。
築何十年も経った木造の一軒家がゆかりのジャンプによりキシキシと揺れ、下の階から母親の怒声が聞こえた。
「うるさい! 床に穴が空いたらどうするの!」
「にーちゃんがバイトするからそれで直せばいいよ!」
ふざけるなと俺が少し怒った顔をすれば、ゆかりはニシシと満足そうに笑う。注意されたばかりなのに、ゆかりはベタベタと踏んづけるような足ぶみで階段を下りて去っていった。きっとすぐに母親の怒声が聞こえてくるだろう。
机に立て掛けた百円均一で買った鏡と向き合い、ムラのあるオレンジの髪色と最後の別れを告げる。
罪滅ぼしとは、いじめてきた奴らへの罪滅ぼしだ。脅して、殴って、金をせびった奴らへの、自己満足の罪滅ぼし。
実際、俺はビビって金も貰わなかったし、暴力すらできずひたすら傍観に徹していたが、脅された側にそれは関係ない。自分がもしその立場にあったら、きっと見て見ぬフリする全てを敵だと認識する。自分を殴っていようとなかろうと、そのグループにいる奴らなんて皆同じだ。
『でも許してもらえないかもしれないし、放っておけば?』
最近、よく喋るようになった胡桃先輩にこう言われた時、俺はそれも正直アリだなと思った。罪悪感から逃げる。それも一つの道だ。いじめられた奴らも、比嘉先輩に隠れていたモブの一人など忘れるかもしれない。
『や、アンタ変わるんでしょ? 自己満足でしかなくても謝りたい気持ちがあるんなら、やれば?』
その横で相良がおはぎのきなこを口端につけながら、胡桃先輩の意見に難色を示す。そうか、俺の特別への道に関わるのならば逃げてはいけないと納得する。そうして、友人たちと散々議論し、ぐらぐらと揺らぐばかりの俺の決心は謝る方向へと決定した。ちょうど胡桃先輩のバイト先に人手が足りていないからと誘われ、運良く俺のバイト先は簡単に見つかった。
ああ、そういえば相良とは呼んではいけないんだっだ。ビニールの手袋の上にもこもこと黒くなった泡を出して、生え際から手を滑らせ思い出す。つい先日、ゆかりから「紛らわしいから相良のねーちゃんのことは名前で呼んで!」と言われた。「お前がういちゃんの事を名前で呼べばいいじゃねえか」と言うと、ゆかりはぎゅっと自分の服を掴んで、もじもじとしていた。鈍感と言われる俺でも分かる。あの愛らしいひかりの妹が好きなのだろうと察し、渋々納得してやったのだ。
しかしあの妹を思い出すと、嫌でも勉強会の日が頭を過ぎる。棗に仲介役を頼んだあの日だ。
『頼むっ! お前だったら何とかできるだろ? 白雪姫って俺に全然興味ねーんだよ!』
『いやぁ、僕に何とかできるかな』
朝、一緒に登校しているときの話。あの時期、白雪姫に全く見向きもされなかった俺は、困りに困って幼馴染の棗を頼った。棗に出来ない事はない。そう過信していたからだ。
結果、それは功を成して勉強会は開かれた。ただ意外だったのが、白雪姫は棗であろうと一切揺らがなかった。むしろ俺には、隣の地味なひかりの一つ一つに翻弄されていたように見えたのだ。まあ、実際そうだったけど。
そんな勉強会は、俺にとって最悪のイベントとなった。白雪姫に散々罵倒され、棗に正義と軽蔑の眼差しを向けられ……ひかりは何をしていただろうか。あんまり興味を持っていなかったように思える。今思えば、アイツの性格的に平和に傍観者を気取っていたのだと気づいて、俺は小さく溜息をついた。あの姉妹は顔こそあまり似ていないが、考え方が似ているところがある。
『ゆかり、クラスでどんな感じ? 元気にしてるか?』
『……はいっ。ゆかりくんとあまりお話したことはないんですけど、いつもわんぱくですよ』
『そうか、もし迷惑をかけてたらごめんな?』
いつしかひかりの妹とした会話を思い出し、髪を染め上げる手を一旦止め、曖昧な彼女の表情を脳内で作り上げる。確か、目を細め、天使のような愛らしい微笑みを……いや違うな、頬はひくついていた気がした。
『いえいえ、迷惑だなんてそんな!』
あの子もまた傍観者として、ゆかりの兄である俺と会話をしていた。ゆかりがクラスでいじめられていたことを知っていた顔だったのか、俺は知る由もない。それを伝えられたとしても、ゆかりは俺に助けを求めず自分の手で立ち向かっただろう。
その勇気は誇らしくもあり、俺をとてもみじめにさせる。特別な人間、勇気を持って何にでも立ち向かえる人間が俺の周りには多すぎた。皮膚を爪で刺したい衝動に駆られ、膝を落ち着きなく揺らす。だめだ、耐えろ。自傷は他者に不快感と不安感を与える。どれだけ俺が平気であっても、周りはやめろだとか相談してだとか心配を寄越してくるのだ。
最初は皮膚をつねるだけだったのに、いつしか血や痕が残らなければ満足しなくなった。皮膚を裂かねば、血は出ない。最近のことではあるが、初めて剃刀で皮膚を裂いた時は不思議とスッとした。その代わり、人前では長袖を着る羽目になったけれど。
俺のこれは死への希望ではなく、ただただ自分のみすぼらしい気持ちを認めるためだけの行為だった。
灰司棗のせい、とは言いたくはない。だけど、この行為は棗と出会ってから始まったのだ。




