18.まともな人間ってなんでしょうか
「あの時、私を置いていくべきじゃなかったです」
「俺責められてる?」
胡桃の家には、ひかりと百合原と宿主。
ひかりは手当てされている百合原を眺めながら、膝下に敷いていたクッションをにぎにぎと触る。ひかりの口から出たのは思ったより拗ねた声だった。まだ拗ねられる元気があるだけマシかもしれない。ストレス値は90。百合原の手当てが終わったら、速攻で家にスキップしてもらおう。
「よく逃げてきたな、ひかりちゃん」
「違います。シロちゃんが泣いてる私を見て、満足して解放してくれたんです」
泣き腫らした目を擦り、ひかりがそう伝えれば胡桃は「歪んでるな」なんてのほほんと吐き捨てる。お前が言うなとはひかりは言わなかった。言う気力がなかった、が正しいか。
『――ああ、ごめんね。泣かせちゃって……私もちょっとおかしいみたい。ひかりに狂わされたのかな? でも泣いてる顔って初めて見た。私だけ? だったら嬉しいな』
蘭咲に泣かされた時以来かな! と開き直って言えたら、白雪は蘭咲も消そうとしてくれただろうか。そんな勇気はひかりにはない。あの時の彼女は本気でやりそうだったし、まだまだゲームは長く続きそうだから。
満足そうな笑みを携えて、彼女はひかりを解放した。ひかりは白雪に対して泣いたわけじゃないのに、彼女はとても嬉しそうにひかりを見送った。そして訪れたのがこのアパートだ。
「なんであんなに白雪姫怒ってたんだ?」
鬱々とした空気を察する能力がないのだろう。大変羨ましい。百合原はいつの間にか一人元気になっていた。吹っ切れたというか、開き直っているというか。ひかりは重い瞼を上げて、じとりと睨む。
「……アンタ、思ったより元気だね」
「そりゃあな。俺の思う通りじゃねえけど解決したし、迷惑かけたんだから一人で落ち込んでらんねえだろ」
「百合原くんってネガティブなのかポジティブなのかわかんないな。あ、しみるぞ」
「あ゛っづ……! いってえ……」
「俺も腹刺された時は痛かったなあ。それよりマシだと思えばいいさ」
「俺の結構なイベントを軽く上回るのやめてもらっていいっすか!?」
消毒液の匂いがツンとひかりの鼻腔を刺激した。視線の先には、頬の痛みに悶え苦しむ百合原とそれを見て笑っている胡桃。なるべく体力を使わないようにひかりはその微笑ましい光景を黙って眺めていると、絆創膏を貼ろうとしている胡桃がふと思い出したように振り返った。
「でもさ、昌也くんが中学生とヤッてるなんて知らなかった」
「……へ? 先輩が持ってる脅しネタってあれじゃなかったんですか?」
大したことでもなさそうに述べる胡桃に、ひかりは壁に寄りかかっていた上半身を反射的に起こす。胡桃はひかりの問いかけに首を横に振った。
「違う。俺のはアレに比べたらショボいもんだよ、昌也くんの昔の写真を持ってるってだけ。ただの地味だった時の昌也くんの写真なんだけど、高校デビューの身からすれば恐ろしい弱味なんだろうな」
「じゃあなんで……」
「なんでボコボコにされる前にそれ使わなかったんすか?」
ひかりの疑問に百合原の能天気な質問が重なった。声量の差で譲る形となってしまい、ひかりは不服に眉を顰める。
「前も言ったと思うけど、俺が悪いからだよ。知らなかったとはいえ、昌也くんの彼女に手出しちゃったわけだし」
「胡桃先輩って倫理観ぐちゃぐちゃっすね?」
「まあな。俺、最近やっと産まれたんだ。良かったら善悪の区別とか教えてやってくれよ」
「なんすかそれ!」
ゲラゲラと痛むであろう身体を震わせ笑う百合原を見て、ひかりは身体の力を抜いてまた壁に寄りかかった。もう一度質問をしようとは思わなかった。それによって考えすぎでストレス値が無駄に上がっても困る。
「そういえば、退院祝いにバイト先からお菓子もらったんだ。食べないか?」
「私はそろそろ帰ります」
「えー、まだいろよ。せっかくだしさぁ」
ひかりの帰宅宣言をつまらなそうに百合原が止める。何がせっかくか説明しろと言いたい。しかし、子犬の瞳は痛々しい治療痕のせいで効果を倍に発揮している。ひかりは浮かせた腰を渋々と下ろした。
「宝先輩のバイト先ってシャルンでしょ? 私、甘いもの好きじゃないの」
「嘘つくなよ。お前、アップルパイ美味そうに食ってたじゃねーか」
「あれはシロちゃんが……!」
彼女の名前を呼びかけた所でひかりは、自分の口元に手を当ててはたと気づく。
「あ、思い出した」
「なにが?」
「私が甘いもの嫌いになった理由」
瞬間ひかりの脳裏によぎったのは、染めたと分かるか分からないかくらいの暗い茶髪。胸元のあいた服に赤い口紅。ぴしゃんとしなる指揮棒。そして、甘ったるい香水の匂い。
「先生の香水だ。バニラの甘い匂い」
「先生って?」
「小学校の時の国語の先生。前に話したの覚えてる?」
「お前が変な答え方した話だろ?」
へえ、とキッチンにいる胡桃が愉快そうに笑う。憎まれ口の一つでも返してやりたかったが、ひかりは紐解かれた記憶を手繰り寄せるのに必死であった。
「その先生さ、私のことすっごい嫌ってたの。授業とかテストの度に、アンタがいう変な答えばっかり投げてたから」
「そりゃあ相手するのは難しいだろうけど、嫌うまでするか?」
「確かに嫌ってたはずだよ。最初は貴女は普通の子じゃないとか、道徳心が無くて変な子とか責められてただけだったんだけど、その内指揮棒で叩かれ出して……」
ひかりは話している途中に、膝に置いた自分の手が震えていたことに気づいた。
頭の中でぴしゃんっとしなった指揮棒の音がする。彼女が腕を振るうと甘ったるいバニラがそこら中に散らばったのは、躾ける前に必ず手首に香水をつけていたからだ。
「もういいよ。無理に思い出そうとすんな」
ひかりの手に百合原の痛々しい手が重なる。罪悪感と自己否定に塗れた手は、それでもひかりよりは大きい。優しい百合原の声にひかりは首を横に振った。
「だめ、今思い出さなきゃいけない。だってそれでまともな人間になれたんだし」
「はあ? なにがまともな人間だよ、ただの虐待じゃねえか」
「アンタのこの手と一緒。いっぱい叩かれて自分はダメな子だって教えてもらったの」
百合原の手を握り、見せ付けるように目の前に掲げてやる。隠されていた彼の手首が袖が下がったことで、ひかりの視界に晒された。一本線の傷が何本も連なっている。多分新しい傷だ。ひかりは息を呑む。
「……っ!!」
声を失っていた百合原がひかりの腕を強引に振り払う。屈辱的だと言わんばかりの表情に、ひかりはそこで初めて自分の失言に気づいた。
「ご、ごめ……っ」
「まともな人間ってなに? ひかりちゃんってまともな人間なのか?」
マグカップを三つとケーキを二つ、後丸々としたおはぎ 。トレーにそれらを乗せて、胡桃は最悪の空気に堂々と割り入ってきた。それはただの好奇心なのだろうか、ひかりは答えあぐねる。




