10.拗ねてません
"ちょっとイマイチかな……"
"ふつうくらいかな"
"ちょっとイマイチかな……"
…………
"今回のテストはイマイチだったな……次は絶対に頑張ろーっと!"
(まるで私の心情のように浮かんでくるな。それなりに頑張ったっての!)
ポップな字体が辛辣にひかりを責め立てる。
光の速さで過ぎ去ったテスト期間は、ふつうの数学以外惨敗であった。
「お母さん怒るかな? 私、地頭はいいのにぃ……」
「そんな考えだからテストがイマイチだったんじゃないの?」
甘い香りとは裏腹に、憂は辛口の正論をひかりに浴びせる。ひかりはうーんと唸りながら机に突っ伏した。そのまま顔を横に向けると、キッチンでせかせかと動いている憂の後ろ姿が見える。
「ういちゃん、本当に手伝わなくていいの?」
何度目かの問いかけ。憂は煩わしそうに、フライ返しを持った手をゆるく振った。
「しーつーこーい! これくらいわたしでも作れるから。しかも甘いもの苦手なんでしょ? 無理して食べなくていいって言ってるじゃん」
「ういちゃんのホットケーキは食べたいよ〜! おねーちゃんは甘ったるいのが嫌いなの……」
「その基準わかんない。わたしのホットケーキよりよっぽど、白雪さんのお母さんのアップルパイの方が美味しいよ」
「それよりういちゃんのホットケーキ!」
「……はいはい、わかったよ」
駄々はこねてみるもんだ。くすくすと笑う憂の顔はこちらからは伺えないが、ひかりの下がった気分はそれだけで浮上した。
面倒なことばかり起こるより、こうやって平穏を過ごしたい。けれど、ひかりは頭に浮かぶものを自分で消すことがどうしてもできなかった。
「橙也は今のところ大丈夫そうだよ」
四人で集まった日の翌日の放課後。灰司はひかりと白雪がいる図書室まで、百合原の様子をわざわざ伝えに来てくれた。
「あっそう」
白雪の態度は一貫して冷たい。灰司にだってこの態度は変わらないのだから驚きだ。ひかりは彼女の代わりにお愛想の笑みを灰司に向ける。
「よかったね、ゆかりくんの怪我は?」
「それも大したことないってさ」
そっかとひかりが頷けば、灰司はじゃあねとそれだけを伝えて去っていく。その背中を見送りひかりは思案した。
正直ひかりだってあまり百合原については興味がない。それでも少しくらい同情はしている。完璧な王子様と太陽の如く眩しい弟に挟まれる百合原の立場に、ひかりがいたらと思うと恐ろしくて仕方ない。まあ、それも想像くらいしかできないが。
「ひかり、行こう」
「あ、うん!」
白雪に呼ばれ、ひかりは小走りに図書室を出る。クーラーの効いた図書室から一転、廊下は生温く蒸し暑い。
「読みたい本の続きあったの?」
「うん、ずっと借りられてたんだけど今日やっと戻ってきてた」
白雪の腕にぎゅっと抱かれているのはこれまた分厚い本。嬉しそうな横顔にひかりも一緒になって頬を綻ばせる。しかし、白雪は窓の外の景色を見た瞬間に喜びの色を失ってしまった。
「どうしたの?」
「……ひかりは見なくていいよ、行こう」
一度立ち止まった足が再度動き出し、ひかりは慌てて着いていく。その際に視線はちゃっかりと窓の外へ。そう言われるとついつい見てしまうのが人間の性だ。
窓の外の中庭には柄の悪そうな集団がたむろしていた。その中に特別明るいオレンジ頭と、ひ弱そうなのっぽの黒髪を見つける。
「見なくていいって言ったのに」
「そうは言っても気になるよ、先生に言う?」
「そんなことしなくていい。蘭咲黒もアイツも興味ない」
「うーん」
見つけてしまった手前、ひかりの胸には罪悪感が募った。いじめは良くないこと、と散々学ばされた賜物だろう。悩むひかりに白雪は更に険を濃くする。
「だからひかりは見なくてよかったの。ひかりは悪いことしてるなって思っちゃうから」
「シロちゃんは思わない?」
「私はね。……ひかりは見て見ぬフリをする子の心情を"それが一番心が平和だから"って馬鹿正直に答えたって言ったでしょ?」
「馬鹿正直とは言ってないよ」
むっとして言い返すと、白雪は立ち止まりひかりに微笑んだ。窓から射す日光が彼女を照らす。女神様のような後光にひかりは思わず後退る。
「それって加害者側につけば罪悪感、被害者側につけば恐怖心に駆られちゃうから、結局傍観者が一番楽っていう意味の答えだよね」
「小学生の私がそこまで考えたかな」
「さあね。けど、私はすごく自分本位で可愛いなって思ったよ」
「えー……わがままってこと?」
「ふふ、純粋で素直ってこと。傍観者の気持ちをわかりきってる、私はそんなひかりが好き」
白雪の言葉の意図を全く理解できず、ひかりは眉間に皺を寄せ考えあぐねる。これも白雪に試されているのだろうか。すると、悩むひかりの頬を冷たい白雪の指がなぞった。
「ひかりはそのままでいて。他のやつなんかに惑わされなくていいの。素直に選択すればいいんだよ」
静かな廊下に二人きり。白雪の指がひかりの輪郭をなぞるのが妙に擽ったい。
声はひかりの鼓膜に張り付く。それは胃もたれしそうなほど、恐ろしく甘ったるい声だった。
――トン、と鳴るテーブルの振動で目が覚める。どうやらいつの間にか眠っていたらしく、固定された首の筋が悲鳴を上げていた。
「おねーちゃん、できたよ」
「う、うん……ありがとう」
痛む首を押さえながら、上半身を起き上がらせる。テーブルには二皿のホットケーキ。綺麗な焼き色の中心に溶け出したバターが乗っている。絵本にでも出てきそうな美しい丸にひかりは拍手をした。
「おいしそう! さすがういちゃん! よっ、相良家のパティシエ!」
「おねーちゃん」
「あ、はい……ごめんなさい」
あまり揶揄うと口をきいてくれなくなる。もうひかりは立派なシスコンだった。
「いただきまーすっ」
ステンレスのナイフはふわりと生地に沈み込む。フォークも駆使し、一口サイズに切ればひかりは大口を開けてぱくりとそれに食らいついた。
噛めば噛むほど口の中に広がる素朴な甘さ。なんて懐かしい味なんだろう。ひかりは咀嚼しながら喜んだ。
「おいしいよ、ういちゃん!」
「よかったけど、おねーちゃんの味覚ってへんなの」
「そう? 生クリームは嫌、あずきは大丈夫。アップルパイは嫌、ホットケーキは大丈夫ってだけだよ」
「わかんない! 偏食ってやつでしょそれ」
「そうかな? 賢いね、ういちゃん」
「……おねーちゃんはだれかにすぐ利用されそうだよね」
つまり馬鹿っぽいということだろうか。ひかりの周りの女性陣はとことんひかりを子供のように扱う。ホットケーキを頬張りながら、不服だとひかりは訴えた。
「そういうういちゃんだって、頼られっぱなしみたいじゃん? この間だってサキカちゃんがゆかりくんを連れてきたんでしょ?」
「……それはサキカちゃんがどうしたらいいか分からないって言うから」
憂のツインテールがまたしょげた。小学校での憂の立場はかなり頼れる存在のようだった。怪我した男の子を押しつけられるだなんて相当だ。
「いじめっ子がいるって言ってたけど、ういちゃんは大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。女子はいじめないし、もうゆかりくんが男子のリーダーになったの」
「へえ、すごいね」
「うん、すごい。ああいう特別な子って本当にすごいよね」
憂は感心したように言葉を繰り返す。本当に感動しているようで、ホットケーキで頬袋を作りながらも何度も彼女は頷いていた。
ひかりはそんな憂にふと罪の意識を感じた。小さな罪の意識。"特別な子"という言葉が耳から離れなくなった。せっかくの幸せな時間をそれに気を取られるのが嫌で、ひかりはフォークでケーキを弄びながら話を変える。
「ういちゃんのところも明日終業式?」
「うん。おねーちゃんも?」
「そうだよ、やっとって感じ」
「ラジオ体操ないの羨ましい」
「ふふ、夏休みはさ、一緒に海とか……」
ピーンポーン。
幸せな時間を突然の電子音が邪魔をする。応答しようとした憂を制して、ひかりが立ち上がる。こういう時くらい役に立つんだと少し胸を張ってドアモニターの前に立ち止まった。
「はあい、どちらさ……」
ドアモニターを見て、ひかりは絶句した。モニター越しに見つめてくる犬のような丸い瞳と目があった。
「あの、俺だけど……」
百合原橙也。ハートは空。モニターを通しても見えるんだ、なんて客観的なひとりごとが浮かぶ。
『着々と彼のルートに乗っていますね』
ずいぶん久しぶりに聞いたナナコの声は拗ねたような声音だった。




