8.難しい問題ですね
「ひかり、ここはこの公式を使うといいよ」
「んぐう……」
「橙也、教科書見て。そこ間違ってる」
「う゛ぅ……」
部屋で行われた勉強会は、実質ひかりと百合原の為のものでしかなかった。そもそもひかりたちと灰司たちでは知力のレベルが違う。
ひかりたちが彼らにレベルを合わせることは出来ないが、灰司たちがレベルを下げることは出来る。ひと通り学んだことをもう一度復習するだけだからだ。その結果、必然的にこうなるのは仕方がなかった。
「ごめんね、手のかかる生徒で……」
「気付いてるだけまだマシ」
なにと比べて? 白雪の温度のないマシはフォローとは思えなかったし、多分フォローしたつもりはないだろう。
とはいえ白雪も灰司も教え方が的確で、ひかりの苦手な箇所を丁寧に教えてくれた。頭の良い人は教えるのも上手いというのは、どうやら本当だったらしい。
「んあーっ! ちょっともう無理だ、休憩しねえか?」
天井に向かって大きく伸びをした百合原が、そのまま背中から床に倒れ込む。ひかりは憂が持ってきてくれたオレンジジュースを飲みながら控えめに頷いた。
「賛成。詰め込みすぎて頭パンクしそう」
「まだ一時間も経ってないけど……」
「棗と俺らじゃ脳味噌の容量がちげーんだよ」
「一緒にしないでほしいけど、まあそうだね」
百合原との軽口もずいぶん覇気がない。それくらい二人とも勉強に不慣れであることがわかる。コップの水滴によって濡れた手がノートを濡らさないように、ひかりがティッシュで拭っていると隣に座っていた白雪が立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
膝小僧が隠れるくらいのスカート丈。その先から伸びた足はほっそりとしており、紺のスクールソックスは彼女の色白を際立たせた。ふわりとスカートを揺らして出ていく白雪の後ろ姿に、百合原は分かりやすく鼻の下を伸ばしている。男子高校生らしいといえばらしい。
「お母さんがアップルパイ作ったんだ。友達に持って行けってうるさくてさ」
数分ほど経ち、白雪は切り分けられたアップルパイを乗せたトレーと皿を持って部屋に戻ってきた。丸いはずのアップルパイは一部切り分けられている。憂にも分けてくれたんだと分かり、ひかりはその気遣いに嬉しくなったが、それと同時に途方に暮れる。
「マジ!? 白雪姫の母さんすげーな!?」
「僕、甘いもの好きだから嬉しいよ」
百合原と灰司の反応は上々だ。格子状のアップルパイはキラキラと表面を輝かせ、その隙間からは熟れたリンゴが覗いている。ひかりはにっこりと精一杯笑顔を貼り付けて、二人の感想に続いた。
「おいしそう! ありがと、シロちゃん!」
両手をパチリと叩いて喜びを表現してみたが、大丈夫だろうか。これがひかりの演技力の限界だ。笑顔で細めた瞳をこっそりと白雪の方に動かす。
「私じゃないよ、お母さんが持って行けって言うから……。でも喜んでもらえて良かった」
私も良かった、バレなくて。白雪は白い頬を薄く色づかせてまたひかりの隣に座った。人数分を取り分けたアップルパイが目の前に置かれると、その側面からどろりとしたクリーム色が見える。
ひかりは甘いものが苦手だ。特にその中でもクリームの類が苦手だった。
「いただきまーすっ」
憂鬱を隠して手を合わせれば、銀色のフォークで三角形の先をとすんっと切り分ける。皿に当たってコツンと音がした。そして三叉の先でさくさくの生地を刺し、なんて事ないような動作を意識してぱくりと咥えた。
「ひかり、美味しい?」
「うん、リンゴが大ぶりで美味しいね!」
白雪はひかりの感想にしか興味ない。注意深くこちらに向けられる眼差しに、ひかりも注意深く視線を合わせた。睫毛で影の出来た瞳が三日月型に歪む。白雪が満足した証だ。ひかりはまたアップルパイと向き合った。
「それにしても相良さんは文章問題が苦手だね」
「……うん」
もう半分も食してしまったらしい灰司の指摘が、ひかりに刺さる。灰司が言っているのは国語の文章問題のことだった。
「数学とかは覚えいいのにね」
白雪がすかさず同意する。まだ覚えがいいものがあるだけ良かったとも思った。
「昔から苦手なの。小学生の時のテストに学校のいじめについての物語が問題に出てさ、クラスでいじめられてる子を見て見ぬふりしてる子が主人公なんだけど」
「ああ、よくあるよね」
灰司が残りのアップルパイを二等分しながら相槌を打つ。
「うん。それでその見て見ぬふりしてる子の心情を答えなさいって問題に"それが一番心が平和だから"って書いたら、バツにされちゃって」
するするとひかりの口から紡がれる話は全部本当の話だ。失われていたはずのひかりの記憶が紐解かれていく。その感覚は奇妙で気持ちの良いものだった。
「先生に答えを教えてもらったんだけど、納得いかなくてそこから苦手になっちゃった。先生も途中から呆れた顔してたなあ、そういえば」
記憶はそこまでだ。小学生のひかりを見下ろして、あからさまに嫌そうなため息をつく若い女性教師。ひかりはこの教師が苦手だったような気がする。それも恐らくとしか言えない。ぱくりと根気強くパイを食べ進めながら、ひかりはぼんやりと頭の中でその女性教師の像を頭の中で描いた。
「別にそれも間違いじゃないと思うけどね。国語って問題を作った人の心情が答えみたいなものだから、ちょっと難しいよね」
灰司は可笑しそうに笑う。皿から半分のパイが消えていた。その笑顔がひかりの頭の中の女性を曖昧にし、救われるとはこういう事かもしれないと気恥ずかしくひかりは俯いた。けれど、ガサツな男は糖分によって一足先に復活を成したようで、得意げな顔でひかりに説いてくる。
「そうかあ? そんなの馬鹿正直に答えたお前が悪いだろ」
「うるさいなあ、そんなのわかってるって」
「"助けた代わりに自分がいじめられるのが怖かったから"とかじゃねえの?」
「その文章問題にいじめられっ子を助けたいだなんて描写はなかったんだよ?」
「でもそういうのって普通は察して読み解くもんだろ?」
「普通ってなにさ」
普通は普通だよ、と百合原は腕を組んで偉そうにふんぞりかえる。勝手に勝った気になるなよとひかりは歯を強く食いしばり威嚇するが、彼にそれなりの道徳心が備わっている事に無性に腹が立った。正直負けた気がしている。ひかりの納得のいかぬ事にこの男が納得している事にムカついたのだ。
「……アンタ、よくそんな事平気な顔して話せるね。反吐が出る」
ぐぬぬ、と悔しがっているひかりをよそに、今まで黙って聞いていた白雪が口を開いた。怒りの孕んだ声は百合原に向いている。しん、と部屋の音が一瞬にして静まり返った。




