7.平和で結構じゃないですか
その日の夕方。憂とのんびりタイム。
クーラーの効いているリビングは涼しく、少し肌寒いくらいだった。
「……ということで家に呼んでいい?」
「なんでわたしに訊くの? おねーちゃん、男はこりごりって言ってなかった?」
憂は算数ドリルを解きながら淡々と言い放つ。ひかりはテーブルの向かい側で、いつぞやに食べ損ねたプチおはぎを口にして涼んでいた。
「そうなんだけど、脅されてさ」
「脅されたってゆかりくんのおにーちゃんに?」
百合原ゆかり。百合原橙也の弟で憂の同級生だ。ひかりは口の中のおはぎをごくんと飲み込んで、忌々しげに問い返す。
「え? なんでアイツが出てくるの?」
「おねーちゃんの話の登場人物的に、その人しか思い浮かばない」
「ちがうよ、灰司くんに直接的ではないけど脅されたの」
算数の計算式を解いていた憂の手がふと止まった。俯いているせいでひかりの視点では確実にとは言い切れないが、小さな唇が「は、い、じ」と吐息まじりに動いている気がする。
「ん? ういちゃんが嫌だったら断るけど」
そもそもひかりは勉強会を家ですること自体嫌だった。部屋を掃除しなくてはならないし、他人をプライベートな空間にいれるのがひかりは苦手だ。
しかし、どこか図書館でやればいいと提案したら、ひかりと百合原が静かにできると思えないと即却下され、ひかり以外の三人の家は? と問えば全員にやんわりと拒否される。ヒロインとして選択肢を選んだひかりに文句を言う筋合いはないのだが、やはりちょっとむかついた。
「別にいやじゃないよ、おねーちゃんの部屋でやるんでしょ?」
「……うん」
私が嫌なんだけどね、とひかりは心の中で付け加える。
「わたしの担任の先生も灰司っていうの。あんまりかぶる苗字じゃないよね」
「え〜っ、もしかしたらお兄さんとかかな? 若いの?」
「たぶん。かっこいいってみんな言ってるよ」
「じゃああり得るね。灰司くんも王子様みたいな顔してるし!」
憂の手がふたたび鉛筆をぎゅっと握って計算式を解き出す。うきうきと声を高らかにはしゃいだ姉と違って、妹はつまらなそうに「おねーちゃんは楽しそうでいいね」とため息を吐く。憂と同じ話題で盛り上がりたかったひかりの声は、クーラーの音にうつろにかき消された。
勉強会は時短授業の日の放課後に行われることになった。それまでの白雪のご機嫌を取り戻すのは、非常に苦労を要した。
「どうして良いって言ったの?」
「みんなでやった方が捗るってなに?」
「ひかりも灰司棗には逆らえないんだ」
これら全ては白雪の発言だ。今日までひかりは幾度となく白雪に試された。いつもの二択だったらどれだけ良かったことか。無限にある選択肢の中から白雪の正解を選ぶのは恐ろしい難易度だったと思う。けれど、ひかりの手応えのなさの割に何故か白雪は徐々に満足していった。疲弊したひかりはその理由を探ることはしない。彼女がご機嫌ならばそれで良かったのだ。
「お邪魔します」
「おっじゃましまーす!」
「……お邪魔します」
灰司、百合原、白雪の順に玄関に足を踏み入れる。ひかりと憂以外の人間がこの時間に家にいるのは不思議な感覚だ。三人が玄関にたむろしている姿を見て、ひかりはそうぼんやりと思いながら、人数分のスリッパを用意する。やがてリビングからパタパタと小さな足音が聞こえてきた。
「こんにちは、おねーちゃんがいつもお世話になっています」
リビングから廊下に出てきた憂は、恥ずかしそうに後ろ手を組んで、愛嬌良く三人にぺこりと頭を下げる。ひかりは目を疑った。ひかりは普段の憂しか知らない。こんなワントーン高い声と愛らしさを意識した憂を見たのは初めてだった。
「こんにちは、相良さんの妹さんかわいいね」
「本当にひかりの妹?」
「シロちゃん、それどういうこと!?」
白雪のスルーできない発言に大袈裟に反応すれば、灰司と白雪が愉快そうに笑う。辺りには薔薇が咲いているような幻覚が見えた。
「ゆかりの同級生だよな?」
そんな優雅な雰囲気を感じとりもせず、百合原はスリッパに雑に足先を突っ込み、おもむろに憂に近づく。ひかりは咄嗟に二人の間に割って入った。
「……お前の妹と話してえのになんだよ、芋女」
「私を挟んで話してくれる?」
「あ!? なんでだよ」
「ちょっと、おねーちゃん。ゆかりくんのおにーちゃんでしょ? 恥ずかしい真似しないで」
ぐい、と憂の小さな手にひかりの身体が押し出される。
「ガーン……」
「それ口で言ってる人初めて見たよ」
「よしよし、ひかりこっちおいで」
おちょくった口調の白雪がひかりの手を引いて抱きしめてくれた。よしよしと頭を撫でてくれる手はやはりひんやりとしている。灰司もニコニコとひかりを揶揄う。
いつになく平和な空気だ。ひかりはナチュラルに発せられる白雪の香りに包まれながら、憂と話す百合原の背中を盗み見た。百合原はしゃがんで憂と目線を合わせている。弟がいるからこその行動だろう。
憂は笑顔だが、百合原はどんな顔をしているのだろうか。程なくして百合原が憂と話し終え、こちらに振り返る。
「……あーっ! また白雪姫に可愛がられやがって!」
「あはは、わたしが飲み物とか持って行くから、おねーちゃんお部屋にはやく案内してあげたら?」
怒る百合原に、相変わらず良い子の憂。
なにを話したんだろう。憂はきっと教えてくれない。ストレス値は62。ひかりはスリッパをペタペタと鳴らして階段を上がり、三人を部屋へと案内した。




